地球のつぶやき
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Essay 01 サラとの対話
Letter  文化とは/私にとって、地質学とは

Essay 01 サラとの対話

 去年(2000年)7月にグリーンランドに行ったとき、サラという名のグリーンランディックのアパートに6日間民宿しました。グリーンランディックとは、私たちの血縁のあるイヌイット(エスキモー)と同属の人達です。サラと、ある夜、宗教と失われていく文化の話になりました。その対話で感じたことを、特別編として紹介しましょう。
 グリーンランドでは、グリーンランディックのアパートに民泊しました。5泊6日の予定で、グリーンランドの州都ヌークに滞在しました。おばさん(サラ)とデンマークに出かけている娘さん(土曜日に帰ってくる)の二人住まいです。サラの一家は、長女、長男、次女の家族で、お父さんがデンマークにいて、長女はアイスランドに住んでいるそうです。私たちいた前半は、同居している次女が、デンマークのコペンハーゲンに遊びに行って、留守でした。サラは、15日にアイスランドへ行く予定でした。
 前夜、サラは、コペンハーゲンに夏休みで遊びに行ってた娘が帰って来ると、喜んでいました。夕方、民宿のアパートに帰ってくると、サラが、悲しそうな顔をして、アルコールを飲んでいました。原因は、帰ってきた娘が、帰宅を楽しみに待っていた母親とゆっくりと話しもせず、友達のところに遊びに行ってしまったからです。でも、サラの悲しみは、もっと深いところへと入っていきました。
 サラは、酒を飲みながら、グリーンランディックのビデオを見せながら、いろいろなことを語りました。サラの深い悲しみは、グリーンランディックの文化が薄れていくことでした。グリーンランディックは、グリーンランドを独立国のように考えていますが、実際にはデンマーク政府の助けなしには、やっていけません。
 グリーンランディックたちは、狩猟と魚労生活者でした。グリーンランド各地に、小さな集落を作って、移動しながら生活していました。デンマーク政府は、グリーンランドを統治するために、グリーンランディックを、ヌークやいくつかの都市に集め、教育をします。デンマーク語の教育も当然受けます。グリーンランディックは、自分たちのグリーンランド語を守りたいのに、デンマークからの華やかな情報が、グリーンランディックの街には氾濫しています。
 グリーンランディックの子供たちは、デンマーク語を日常語として操り、デンマークのコペンハーゲンを憧れの地として、やがて、多くのグリーンランディックの子孫たちは街を後にしていきます。当然、時を経るにしたがって、グリーンランディック固有の言語、文化が廃れていきます。
 サラから、日本人の宗教と失われゆく文化について聞かれました。
 宗教については、日本人は、もともとは神道であるが、仏教も受け入れ、近年にはキリスト教の文化も受け入れている。日本人は、一見、多宗教で、各種の宗教的儀式をおこなっているが、実は無神論者(atheistエイシスト)ではないか、と答えました。
 そのときは、英語単語が思い出せなかったのですが、私がいいたかったのは、不可知論者(agnostic、アグノスティック)だということです。不可知論者なのは、私が、科学を一生の仕事としていっていくつもりであるからだ、と答えました。
 西洋では、無神論者という言葉は、非常にきつく聞こえます。東洋ではそれほどではないのですが、西洋で、無神論者というと、神を信じている人をも否定するような立場をとったり、共産主義者のような唯物論者というほど、きつく聞こえるようです。不可知論者というと、神の存在は、人間には知りえないとする立場で、背景に哲学的な立場をもって、これについては議論してもしょうがないとする立場です。知識人には通用する言葉で、歴史のある言葉です。
 そして、失われていく文化に対して、私自身は、サラに聞かれるまで、ほとんど気にとめていませんでした。守るべきか、それとも悲しみながらも、時の流れとしてあきらめるか、未だにサラに答えを示すことができません。



01 Letter  文化とは/私にとって、地質学とは

・あなたにとって、文化とは・
 グリーンランディックのサラは、漁労生活を子供時代に経験しています。でも、サラは、野生動物の絶滅は、気の留めていませんでした。
 日本には、自然保護者やナチュラリストとして絶滅動物や自然を守る人はたくさんいます。これは、ヒト以外の種(しゅ)を大切にするということです。
 サラのように、今亡くならんとする文化を嘆き、守ろうとするする人は、日本において、自然保護者より、多いのでしょうか。
 私が、グリーンランドを訪れて、早、1年以上経ちました。このエッセイでも、サラに対する答えは出せませんでした。このエッセイをお読みのかたは、サラに、どう答えますか。もしよろしければ、お聞かせ下さい。

・私にとって、地質学とは・
 このメールマガジンで、科学や地質学について議論をしました。ここでは、特別号なので、私的なことですが、私が地質学を始めたきっかけを、紹介します。
 Umさんは、「そういうマイナーな学問を敢えて選ばれて専門家になられた小出先生は、どうしてそれを選ばれたのでしょうか。そのきっかけとか、魅力の発端とか」について聞いてこられました。それで、私は以下のような回答をしました。
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 これは、話すと長いのですが、少しお付き合いください。お話しましょう。もしかすると、この文書も特別篇に掲載するかもしれません。ご了承を。
 私は、京都府城陽市(子供の頃は久世郡城陽町だった)生まれです。子供の頃は、田舎の昔ながらの古いしきたりの残る町でした。しかし、伝統やしきたりというのも嫌で、京都のような都会が嫌でした。それがなんとくなく、ずーっと心のどこかにあり、大学を選ぶにあたって、親元を離れたいということが一番にありました。それと大学を選ぶときの選択肢として、都会でない自然があるところ、暑くないところなどという希望がありました。
 できれば国立大学にいきたかったので、国立の1期校(古いですね、昔の7つの帝国大学のことです)の中で選択し、滑り止めとして国立の2期校も受けることにしていました。国公立への進学希望する人の大半は、この選択肢に公立大学を加えてたようなものでした。ですから、私の選択は、ごく普通の選択でだったのです。
 京都大学と大阪大学は通えるので、家を出たいという希望を優先するため、候補からはずしました。東京大学と名古屋大学は、大都会にあるという理由でやめました。そして、九州大学は暑いので消えました。残ったのは北海道大学と東北大学でした。大学で何が学びたいのか、はっきりしていなかったので、漠然と理系の希望しかなったのです。物理学、天文学、海洋学あたりがいいなと漠然と思っていました。ですから、当時、北海道大学は、理類、文類という大枠での学生を募集をしておりましたので、希望に一番かなっていました。
 ところで話は変わりますが、私は京都の公立高校に入ったのですが、その高校は、新設校で第一回入学生という誉れ高き学生となりました。つまり、常に最上級生です。グラントの半分は古墳発掘のため使えないとか、クラブもいくつかしかないとか、などのハンディもありましたが、結構、高校生活を楽しみました。しかし、一番のハンディは、学校が放任主義でした。これは、学生生活を自由に謳歌させる反面、大して受験指導もしていませんでした。ですから、のびのびとした高校生活を送れたのでしたが、いざ大学受験となると、その青春の謳歌のツケがきました。自分自身では、受験の準備はかなりしていたつもりでした。が、受験はことごとく失敗しました。
 第一希望は北海道大学、第二志望は静岡大学で、滑り止めは受けませんでした。うぬぼれが強いというか、世間知らずというか、予備校も塾も行かずの独習の受験でした。
 結局、京都駿河台予備校というところに入って、1年間浪人をしました。1年後の受験で、滑り止めとして東京理科大、立命館大学、京都産業大学を受けて、すべて、受かりました。そして、当時、入学金や授業料の一番安かった立命館大学に入学金を収めた後、1期校として北海道大学を受けました。確実に国立校に入るために、2期校として信州大学を受けることしていました。幸い、北海道大学に受かったので、行くことにしました。
 さて、望みどおり、専攻の未定の理類に入学しました。札幌での生活は、経済的な理由で、大学の寮に入りました。その寮はバンカラで有名な恵廸(けいてき)寮でした。ここは、一部屋5名の共同生活が基本でした。しかし、この経験は何事にも変え難い人格形成に役立ちました。その友人関係は、今も続いています。この寮は教養部学生だけの寮でした。そこでは、まさに、青春を謳歌しましました。私も含めて、寮生は、ガックラン(詰襟の黒の学生服)、高下駄という旧制高校のバンカラ学生さながらのアナグロな服装で日常生活をしていました。この恵廸寮も老朽化のため、一部は北海道開拓村に移築され、解体されました。いまでは、大学院生まではいるりっぱなアパートのような学生寮となっています。
 そんな共同生活の中にも、不満がありました。自分一人時間がなかなか持てないということです。私は、一人になりたいために、選んだのが単独の山登りでした。札幌近郊の低山を一人で、ぽつぽつと登ってました。そのうち、山や自然が好きで、学部では、フィールドワークをするような分野に行きたいと思うようになりました。
 北海道大学では、学部は教養の時の成績順に希望を通しました。私の成績は、中くらいでした。でも、そのような山歩きの経験で、野外調査を主とするような学部学科に行きたいと考えるようになりました。
 実は、これも話すと長いのですが、寮生活で、こんな楽しい生活を1年半で終わらせるのはもったいないと思いました。そして、留年(落第してもう1年教養部に在籍し寮に残る)計画を立てました。そのために両親も何とか説得しました。そして、必修の科目である語学の単位いくつかを落したのです。2年生の前期(後期からは学部に移行)最後の試験を計画的に受けなかったのです。しかし、なぜか、落とすはずの語学の一つが通ったので、学部移行することになってしまったのです。その先生の好意(もしくは単純なミス)がなければ、もしかすると私の人生が変わっていたかもしれません。それからが大変です。学部に行くことが決まったので、再試験や追試を可能な限り受けて、成績を少しでもあげる努力をしました。そのとき、皆からは、「まさにお前は、落ちこぼれだ」と皮肉を言われていました。しかし、その留年計画の影響と努力不足で、2年間で終わる語学を、3年生の後期まで受けていました。
 学部の一番の希望は、理学部生物学科でした。でも、そこは狭き門で、私の成績では行けそうにありませんでした。私の希望を満たし、かろうじて行けそうなのが、農学部の林学科と理学部の地質学鉱物学科でした。林学科はだめでしたが、地質学鉱物学科は、その年から募集人数を20名から25名に増員していました。その地質学鉱物学科の25番目の学生として、理学部の学部生になりました。
 これが、私が地質学に入った経緯です。ここからさらに、地質を専門とするためにストーリーが始まりました。お聞きください。
 地質学が好きになるきっかけに、Ni先生の出会いと、ビリで移行した負い目がありました。
 まず、Ni先生のとの出会いです。学部に移行すると、学科の新入生歓迎のコンパが盛大に催されます。そこで、先生との出会いがあります。Ni先生です。Ni先生はまだ、助手になったばかりで、非常に新進の研究者としてもアクティブな感じがしました。そんなNi先生と、私と、もう一人の山が好きだという同級生と話しているうちに、日高山脈に地質調査に連れて行ってくれることになりました。私にとっては初めての長期に渡る山登りでした。でも、この日高の2泊3日の地質調査で、山の面白さと地質学の面白さ、そして大変さを実感しました。それ以来、Ni先生とは卒論の指導もしていだき、博士論文まで、面倒見ていただくことになり、現在もお付き合いは続いています。
 もう一つの25番の学生という負い目は、果たしてこんな自分に地質学で卒業論文が書けるだろうかという不安があったのです。皆自分よりできる連中です。なにせ私は25番目の学生ですから。したがって、一生懸命勉強するしかありません。それに、親しくしていたNi先生は、岩石学の実験を担当していましたので、岩石のこともしっかりと知っておく必要がありました。
 でも、地質学はそれまで全く興味がなかったのです。高校で地学も面白いとは思ってもいませんでした。でも、必修で地学はあったので習ってはいましたが、受験では物理と化学で受けました。それに、24番目以上の同級生たちは、地球科学に何らかの興味がある連中だし、頭もよかったのです。基礎的なことを知ってないと付いていけないと思いました。ですから、地質学鉱物学科の講義は、すべてとることにしました。一応、それで、すべての単位が揃うことになっていました。
 あと、近眼が進んでいたのも、勉強するには役立ちました。当時まだ、メガネをしていませんでしたので、黒板が見にくいため、最前列で多くの講義は聞いていました。最前列で講義を聞く。それが、勉強するために、自分に課したことでもありました。最前列だと、うかうか寝てられません。それに、ノートも一生懸命とりました。
 そのような理由が、複雑に絡み合って、卒論は、日高山脈の西部をフィールドとしました。そこで、山を一人で歩く、自由さ、面白さ、それと怖さをしりました。卒論で約3ヶ月山に入っていました。宿泊は、ダムの工事現場の飯場に泊めてもらっていました。しかし、飯場の人は、「今日はどこの沢を調査する」と地図で示しても、地図が読めませんでした。もし沢で転んで動けなくなったら、死んでしまうかもしれません。だから、非常食と非常用テント、防寒シートは常にリックに入れていました。そんな調査をしていくうちに、地質学が面白くなりました。でも、卒論では、まだまだ知りたいことが充分知ることができてないと感じていました。そこで、大学院に進学することにしました。
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 このようにして、地質学への道への入っていたのです。自伝のようになりましたが、これが、私が、地質学を志した理由です。Umさんには、もう少しメールとなっていましたが、ここでは省略しました。
 書いているうちに、もっともっと、あれも書きたい、これも書きたいと思うことが多々出てきました。興味がおありでしたら、別の機会に紹介しましょう。