地球のつぶやき
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Essay■ 184 ネットと紙での検索
Letter ■ 紙媒体・サクラ


(2017.05.01)
 インターネットの普及した現代、大量の情報にアクセスできるようになり、非常に手軽に調べものができるようになりました。ネット検索は現代社会において不可欠のツールとなってきました。でもその便利さの陰で、失われていくものもあるのではないでしょうか。


Essay■ 184 ネットと紙での検索

 少し前、ある術語を調べようとしました。元となったよく知っている科学哲学の術語と同じ意味の言葉の正確な意味を調べようとしました。その言葉をインターネットで検索してみると、今では生物学でよく使われているようで、生物学での意味ばかりがでてきます。見ると、かなり詳しい説明もあり、それはそれで面白く、同じ言葉でも、そんな使われ方をしているのだと感心しました。
 しかし肝心の私が探そうと思っていた知識になかなかたどり着きませんでした。まあ急ぐわけでも、すぐに必要でもなかったので、調べるのをいったん諦めました。
 でも欲しかった答えが見つからないで、少々気になったままで終わりました。そのためでしょうか、時々頭にその言葉が浮かぶことがありました。ある時、その言葉に関連した別のキーワードが思いついて、それで調べたら、見つけたい分野での意味が出てきました。この言葉は、本エッセイで別の機会のテーマとする予定ですので、お楽しみに。
 ここで述べたかったのは、検索という行為の持つ意味についてです。
 私の息子たちは、ネット時代に育ってきた人間なので、スマートフォーン(スマホ)をいつも手元においています。自宅でテレビを見ているときも、興味をもったこと、知らないことがあると、ささっと検索して、その疑問を簡単にその場で解消していきます。これは人類が思い描いていた理想の時代となってきたのではないでしょうか。
 私には、なかなかそこまでスマホを使いこなすことができません。まずは、面倒だと思ってしまいます。スマホもタブレットも持っているのですが、なかなか調べようという気になりません。調べだすと、テレビのほうがおろそかになっていきます。「ながら」がなかなかできない性なのです。
 現代人、特にネット社会に馴染んでいる若者たちは、何かに興味を持つと、それに関する情報をすぐに手に入れることができます。ネットで検索すれば、即座に興味を持ったことに対して、答えを得られます。ネットによる検索は、非常に便利で役に立つものです。
 ネットで得た知識は、その場の疑問を解消されるためでしょうか、すぐに忘れてしまうことが多いのではないでしょうか。もちろん、記憶のいい人は、興味を持った情報を憶えていて、自分の教養として身につけていくことでしょう。私や息子たちは、すぐに忘れてしまいます。なかなかネットで得た知識は身につかないようです。
 ネットがなかった頃は、紙媒体である辞書、百科事典、図鑑などで調べました。これれの書物は、自宅で手元にあれば、比較的簡単に調べることできます。それでも、重い辞書を持ち運び、ページを繰るという行動をしなければなりませんでした。もし、その項目内に知らない言葉あれば、再度ページを繰って検索するという行為が必要になります。今のように文章内のリンクをクリックするだけで、次の答えがでるという便利さはありませんでした。
 欲しい情報が手元の辞書になければ、図書館などで関連した本、時には専門書や論文をあたることになります。これは図書館まで出かけて、本を調べたり、司書を通じて文献に当たるなど、大変面倒な手続きを経ていくことになります。
 かつては、欲しい情報を、いつでもどこでも手軽に入手できることが、理想の未来として思い描いていました。今や、その時代となりました。調べたいことが、重たい何種類もの辞書や図鑑を当たることなく、日本中、世界中の知識が、玉石混交ですが、即座に手に入るようになりました。そんな知りたいことが簡単に調べられる夢に描いていた時代が来たのです。今時の学生で、紙の辞書を持つ人は見かけません。すべて電子辞書になっています。
 手軽に膨大な情報にアクセスできる時代になりましたが、本当にこれが理想の時代とえるのでしょうか。
 パソコンを使う人は、ワープロなしに、文章の作成は非常に煩わしく思うようになりました。その結果、手で漢字や熟語を書くことができなくなりました。電卓で複雑な計算もあっという間に、間違いなく答えを出せるようになりました。しかし、暗算ができなくなりました。このようなことと同じく、簡単に検索できることで、何かできなくなってしまったことがあるではないでしょうか。
 今と昔の情報検索の状況をみていくと、明らかに違いあります。検索にいくつもの手順や手間、行動を伴うのか、検索にどれくらいの時間がかかるのか、何処かに出かけてまで欲しい情報なのか、検索行動にストップするような心の隙間があるのか、などという違いあるように思えます。
 それらの違いの中に、なくしてしまったものがあるのではないでしょうか。
 検索でも、パソコンなら立ち上げてからなどの手間は必要かもしれませんが、スマホやタブレットがあれば、非常に手軽に調べられるという環境があります。この手軽さが、せっかく得た知識が身につきにくくしているのではないでしょうか。
 その知識を得るまで、手間暇かけてたどり着くという大変さ、そこまでして手に入れたい知識であること、という選別を受けるので、記憶として定着していくのではないでしょうか。そしてなによりも、その知識を追い求めながら、関係したものごと、よしなしごとを考えているはずです。探求の方法自体も考えているはずです。手に入れることが難しい資料かもしれません、あるかどうかも不明です、あてどもなく探しつづけていくかもしれません。でも、考えるというプロセスが私が別のキーワードを思いつかせたように、記憶に定着できるように知識の価値を高めていくのではないでしょうか。
 検索の「検」は、「多くの物や人を引き締めて、まとめること。わくをはずれないよう取り締まる」ことが原意です。「索」は、「ひもをたぐって中の物を引き出すように、手づるによってさがしもとめる」という意味です。検索とは、漠然とした知りたいことを、枠を決めながら、ある程度まとまったものにして、まとめたひもをたぐっていき、欲しいものを見つけていく行為となります。
 手間ひまをかけて調べていくことが、検索の本来の意味にそぐうものなのです。簡単な検索には、ひもでまとめられたものも小さくなり、得られることも小さくなるのかもしれません。人が強く欲して求め続けると、検索の答えにも貴重さが生まれ、価値もでてくるのでしょう。
 でも、多くの人が待ち望んだ、今のネット検索の便利さを捨てることにはならないでしょう。しかし、その陰で失われていくものもあります。失うものが出来る限り少なくなるように、時にはネットに流れていない情報の検索も必要かもしれませんね。


Letter■ 紙媒体・サクラ

・紙媒体・
ゴールデンウィークの間の平日です。
私は野外調査にでています。
野外調査のための情報は、
書籍が5冊分から得ています。
内専門書が2冊あります。
多分、こらの情報の一部、あるいは全部が
ネットに公開されているかもしれません。
それは仕方がないことでしょう。
最新情報は、印刷物や書籍より
早くネットに公開されることも多くなりました。
それに専門情報の最たる学会誌も
デジタル化の波が進んでいるのですから。
これは時流としてしかたがないことなのしれません。
紙媒体でした大家だったものが読めないのは
ノスタルジーにすぎないのでしょうかね。

・サクラ・
北海道は桜の季節を迎えました。
しかし、私は、調査で山陰にいます。
もちろん山陰は桜はとっくに終わっているはずです。
5日には帰る予定ですが、
もしかすると、まだ桜をみることができるかもしれません。
実は、1月末に大分に行ったとき、
ヒカンザクラの咲いているのを見たことがありました。
咲き始めて多くはなかったのですが、
一足早い春を少しだけ味わいあじわいました。
まあ、これも巡り合わせでしょうね。


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