地球のつぶやき
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Essay■ 158 理と質:学問の本質
Letter ■ 次なるテーマへ・卒業


(2015.03.01)
 自分が研究している学問分野が、どのような視座をもっているのかは、研究者には暗黙知となっています。研究者は、そんなことに疑問を感じないかもしれません。新たな分野で研究をスタートする時、学際的共同研究をする時など、視座の違いは不協和音を生むかもしれません。


Essay■ 158 理と質:学問の本質

 現在の科学は、非常に細分化されています。その欠点を補うために、領域横断的な学問の必要性が唱えられ、実践もされています。それでも、先端で進められている研究になると、少し分野の離れた研究者には内容や進捗を知り得ないことも往々にして起こります。特に最新の技術や手法、装置などを利用する分野では、顕著だと思います。
 これは、最先端の科学の話です。学問には、非常に基本的な原理や原則と呼ぶべきものがあります。その学問、あるいは対象に対する原理のようなものがあり、その理解なくしてはその学問や自然科学を進められないような内容があります。たとえば、物理学では、古典力学や電磁気学などの分野が基礎をなし、もっと本質に遡れば、元素や原子などの特性、性質、解析するときの数学的手法、議論を進める上での論理学などは、さらなる基本的な原理となります。
 原理以上に重要だと考えられるものがあると、私は思っています。それぞれの学問体系に固有の研究手法、考え方ともいうべきものが、それに当たるのではないでしょうか。少々わかりに言い方かもしれませんので、説明しなければなりません。
 物理学と哲学、地質学をとりあげてみていきましょう。学問の考え方、進め方にどんな違いがあるのでしょうか。そのとっかかりは、学問の名称、漢字の意味の違いにあらわれている気がします。文字から、含蓄をもった背景が見えてきます。
 物理学の「理」は「り」と読みますが、「ことわり」とも読みます。「理」とは、世界大百科によると、もともとは璞(あらたま、掘りだしたままでまだ磨いてない玉)から、美しい模様を磨きだすとの意味だそうです。その後、「鄭(てい)人、玉のいまだ理(みが)かざるものを謂いて璞となす」(戦国策)のような使用から、「ととのえる」あるいは「すじ目をつける」という意味が生じてきたようです。さらに後には、中国思想の中心的な道徳的規範として、抽象化された秩序、理法、道理などの意味として使われるようになってきたようです。
 学問体系の用語として「理」は、物理学の他にも、広く「理学」から、「地理学」や「心理学」などにも使われています。地理学は地(地球)の理を、心理学は、心の理を調べる学問であるということになります。理とは、なかなかいい言葉ではないしょうか。
 理(こわり)とは、璞(今まで知られていないものごと)から、有用なものを磨きだした(見出したりした)玉(体系)なのです。物理学という言葉は、「物」(ものごと)の「理」(こわり)を調べる「学」問となります。物理学を表すのに、非常に適切な用語だといえます。ただし、「物」あくまで実態のある自然、あるいは自然を成り立たせている作用、現象など、自然に直結している対象となります。これが、物理が自然科学である所以でもあります。
 一方、私が今興味をもって進めている哲学も、今まで取り組んできた地質学は、理の文字を用いていない学問です。これは、少々気になるところであります。
 哲学の「哲」は、「あきらか」と読むこともあります。「哲」は「折」と「口」が合わさってできた字です。「折」は断ち切ることで、「口」が合わさって「哲」になると、言動が明快に断ち切れる、適切であるという意味になります。そこから物事の筋道が通っている様や人に対して用います。「哲」は、「理」よりもっと筋を通している、より抽象化しているような語感があります。やはり、これも哲学という学問の本質を表しているように見えます。哲学では、対象はものから概念、人の思考まで、なんでもありで、そこから筋道、道理など、より本質的なものを抽象していくことを目的している学問です。
 次に、地質学の「質」です。「質」は、「しち」、「しつ」、「たち」などの読み方があります。「しち」は、本物・本人の代わりで、同等の機能、価値をもつもので、「身代」(むかわりとも読む)という字が与えられることもあります。「しつ」と読めば、内容や中味のことで、ある対象を他と区別する特色という意味です。「たち」と読めば、人やものごとの性質や特徴を意味します。いずれの「質」においても、ある対象の本質を全体的、総体的、大局的、包括的にとらえることを意味しています。
 哲学は、対象を限定することなく、道理、真理を追求することに重きをおています。極限まで抽象化していくことで残ったものが哲学の原理となるります。一番の本質のみを求める学問が、哲学の本来の姿なのかもしれません。
 理(ことわり)とは、自然のままの璞(あらたま)から、いらないものを、磨いて捨て去ることでもあります。これは、還元主義的手法を象徴しています。物理学がおこなっているような学問は、本質に関わらないものをそぎ落とし、中核となるものだけを抽象していく作業です。ただし、対象は自然です。見える自然だけでなく、磁気や電気、電波、力、熱、エネルギー、エントロピーなど見えないものでも、自然を構成し、科学の俎上に乗るものであれば、すべて対象となります。ただし、抽象化することを究極の目的としています。求めるているのは、すべてから抽出された究極の原理(統一場理論などと呼ばれています)です。まだまだ、先は長いようですが。
 地質学は、何ものも削り取ることなく地(球)全体の質を探る学問です。もちろん、その手法として物理学や数学、化学、生物学など多様な手法を適用しています。物理学や数学を導入するときには、還元的に処理を進める必要があります。ただし、還元的手法でえた結論の成否は、対象である地(球)に照らし合わせていくことになります。広い地域(空間)、長い時代(時間)になればなるほど、原理原則より大局的、包括的な整合性が重要になります。
 今回とりあげた3つの学問体系は、ぞれぞれ目指す方向、用いている手法は違っています。もっとも抽象化の著しい哲学と、還元化されていますがあくまでも自然を対象にしている物理学、そして自然を包括化という方向性をもった地質学がありました。物理学と地質学の間に、化学と生物が位置します。もちろん生物学の方が地質学よりです。
 それぞれの学問の中には、質的(総合化、包括化)な部分と理的(還元的、抽象化)な部分が混在しているでしょう。たとえば総合的な地質学においても、モデル実験や合成実験、化学分析を中心手段にしているような分野は、抽象度の強いものとなります。物理学でも、天文学など観測を中心にしている分野は、理論より観測事実の探査、現象を捉えることに主眼をおいている分野もあります。天文学のような観測分野は、抽象化より総合化、包括化が強くなります。物理学や地質学と学問を大括りにするのは、少々乱暴かもしれません。しかし、これまで述べてきたように、学問の言葉が表している中味には、それなりの真理はありそうです。主たる専門として地質学を進めてきた私としては、地質学が理の学問でないことには、それなりの意義を見出しています。


Letter■ 新プロジェクト・卒業旅行

・次なるテーマへ・
いよいよ3月になりました。
2月中にすべきことがあったのですが、
ほとんどできませんでした。
ただし、空いている時間があれば、
少しでもいいから進めることはしていました。
それは面白いテーマや作業になることは
少し進めておかげてわかってきました。
ただし、もはや時間切れです。
3月には別のテーマの仕事を進めなければなりません。

・卒業・
3月は卒業のシーズンです。
私の所属する学科でも、
例年より多くの卒業生が巣立ちます。
それぞれの思いを持って社会に旅立ちます。
寂しい反面、喜ばしい思いもあります。
卒業式はまだ少し先ですが。
それまでは4年生は在学生です。


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