地球のつぶやき
目次に戻る

Essay■ 103 先見性:地質学の巨人
Letter ■ 死を越えて・夏休み


(2010.08.01)
  夏休みになると、お盆近いせいでしょうか、この時期にに死んだ人をついつい思い出します。一人は指導教官の死、もうひとつは今回紹介する地質学の巨人、都城秋穂氏です。今回は、都城氏の業績の一部と私とのかかわりを紹介します。


Essay■ 先見性:地質学の巨人

 私は、大学院生の頃、DSDP(深海掘削計画:Deep Sea Driring Project)のデータを集めていました(このような作業をcompileと呼ばれます)。DSDPの分厚い報告書が大学の図書室にあり、目的のデータがないか探すために、すべてに目を通しました。DSDPの初期のころは、火成岩のデータも少なく、苦労して本を見た割りにデータが少ないなという思いと、データ処理の手間はそれほどかからないで楽だなという相反する気持ちがありました。その後、海洋底の火成岩に関して大量のデータが出るようになったころには、データ収集はやめていました。
  では、なぜ、その頃データを集めていたのかというと、学生から院生のころにかけて、オフィオライトというものを研究テーマにしていたからです。オフィオライトとは、過去の海洋地殻を構成していた岩石群が、陸上に持ち上げられたものだと考えられていました。もちろん、最初からオフィオライトが、昔の海洋地殻だとはわかっていたわけではありませんでした。20世紀中ごろ以降になっ海洋底の岩石に関する情報がでてきたので、やっと認識されてきました。
  オフィオライトが岩石群だといったのは、一種類の岩石ではなく、何種類かの岩石からできているためです。まず一番下には、カンラン岩(オフィオライトでは蛇紋岩になっていることが多い)があり、斑レイ岩、岩脈群(玄武岩からできている貫入岩)、枕上溶岩(玄武岩)、そして一番上にチャートがセットになっているものです。このような岩石が、順番にきれいに重なっているのではなく、あちこちが断層で切られています。ひどくばらばらになったり、欠けている岩石があるものは、ディスメンバード(dismembered、分割という意味)・オフィオライトと呼ばれています。
  私が調査していた北海道の日高も岡山の井原もディスメンバード・オフィオライトでした。
  オフィオライト(Ophiolite)の「Ophi」は「蛇」のことで、「lite」は岩石につける語尾です。「Ophi」は、オフィオライトで一番特徴的な岩石は、蛇紋岩でした。蛇紋岩は、日本語ですが、岩石の表面が蛇の模様のように見えることからつけられた名前です。
  19世紀にブロンニャール(Brogniart, A., 1813)がアルプスの蛇紋岩や輝緑岩(変質した玄武岩や粗粒玄武岩のこと)に対して、用いた名称です。その後、20世紀初頭にシュタイマン(Steinmann, G., 1927)は、蛇紋岩、枕状溶岩、チャートを3つを含んだ岩石群をオフィオライトと呼びました。このような3種の岩石を「シュタイマンの三つ揃」(Steinmann's trinity)と呼ばれていました。
  そのようなオフィオライトが、世界各地から見つかっていました。私が学生のころ、日本で一番はっきりとオフィオライトであることが示されていたのは、石渡明さん(現在東北大学教授)が調べられた京都府の夜久野オフィオライトでした。私は、修士論文でその西の延長にあたる岡山の北の井原で調べることになりました。そして、対比するために、石渡さんの試料をいただいて、分析をして年代を決めて、共著の論文も書いたこともありました。
  その後、日本でも、いろいろなところからオフィオライトが認識されてきました。いろいろ研究が進むにつれて、オフィオライトの位置づけが変わり、オフィオライト=海洋地殻を強調されることが、あまりなくなってきました。
  私がオフィオライトの研究を始めたとき、都城氏の記念碑的な論文がでていました(Miyashiro , 1973)。
  私は、大学4年生から卒論に取り組むとき、卒論の野外調査の場所が、日高山脈西縁のオフィオライトだったので、重要な関連があるとして、指導教官に読むようにいわれた論文でした。都城氏の論文とそれに関連するものを、自分なりに総括して、ゼミで発表しました。ですから、非常に都城氏とトルードスが非常に印象に残っています。そして、都城氏の先見性にも、その科学に対する姿勢にも感銘を受けました。そしれ彼の書いた書籍や論文を注目して読むようになりました。
  当時世界でも研究が進み、典型的なオフィオライトとされていているものがいくつかありました。カナダ、ニューファンドランドのベッツ・コブ(Beds Cove)のオフィオライト、キプロス島のトルードス(Troodos)のオフィオライトなどは、有名で海洋地殻と対比もなされていました。
  ところが、都城さんはこの論文で、オフィオライト=海洋地殻という当時の常識にとらわれることなく、化学組成の観点から見ました。すると、トルードスのオフィオライトは、化学組成からは海洋地殻ではなく、列島(地質学では島弧と呼ばれています)周辺の火山活動、たとえば縁海(島弧の沈み込み帯とは反対側にある海)ようなとことでできたと考えた方がいいという主張をしました。
  化学組成は、マグマができた形成場の特徴を反映することが、現在では「常識」になっていますが、当時はまだそのような考えをオフィオライトに適用する研究者はあまりいませんでした。しかし日本列島の火山をよく知っていた都城氏は、トルードスのオフィオライトの火山岩の化学組成を見たとき、3分の1は島弧固有の化学組成(カルクアルカリ岩系と呼ばれている)を持っていたり、小笠原諸島のような出来たての島弧(未成熟島弧)にでる特異な岩石(ボニナイトと呼ばれている)が、トルードスでも見つかっていることに気づきました。
  化学組成で形成場を識別するために、いくつかの指標の成分を軸(三角形の頂点にすることもあります)にして、形成場の領域として区分されます。今では「地球化学的判別図」とよばれて、ごく普通に使われているものです。図の作り方は、現在活動中の地質学的に特長のある形成場(海嶺、海山・海洋島、成熟した島弧、未成熟な島弧、縁海、大陸内火山など)の化学分析値を集めてプロットして、典型的な区分ができる成分の組み合わせを見つけます。そして、そこにオフィオライトのデータをプロットして、どのような形成場になるかを見極め、その類似性からオフィオライトの形成場を判別するものです。
  都城氏は自分で独自の判別図を考え出し、トルードスのオフィオライトが、中央海嶺の火山岩ではなく、島弧のものに似ていることを主張しました。非常に論理的で、今でも当たり前の主張なのですが、世界中から反論が続出しました。しかし、都城さんは、それらに対して、孤高に反論をしました。10年近くにわたって(今も反対の人がいます)、多くの人が反論しましたが、徐々に都城説を支持する人がでてくるようになりました。
  現在では、トルードスは、未成熟な島弧でできたとされています。さらに、オフィオライトの多くは、沈み込み帯の上で形成された島弧に関係する火成活動によってできていることが、研究者の認識になってきています。都城氏は、その現世と過去の類似性によって成因を判別する手法を、世界に先駆けてオフィオライトに導入したのです。
  「地球化学的判別図」という方法論は論議学的には正しとはいえませんが(帰納法の真理保存性)、経験科学としては実用的な方法です(自然の斉一性の原理)。都城さんの先見性は、すごいものだったのです。そして、都城氏の科学に対する信頼、信じた結果に対する信念、そしてそれを主張する勇気は立派です。
  都城氏は、2008年7月22日に自宅のあるオルバニー市郊外のサッチャー公園を奥さんと散策中、写真を撮りに出かけたまま帰ってこられませんでした。捜索した結果、崖から転落してなくなっておられたことが、24日に明らかになりました。当時87歳でした。
  死後都城氏のパソコンから遺稿が発見されました。その遺稿は「地質学の巨人 都城秋穂の生涯」という3巻の本にまとめられます。3巻のうち2巻は既刊ですが、3巻目の「戦後日本の地質学の軌跡」が現在編集中です。
  都城さんは、1967年から、コロンビア大学そしてニューヨーク州立大学に勤務されました。オフィオライト以外にも都城氏の偉業は枚挙に暇がありません。詳細は、上述の本に譲ることにします。
  私は、都城氏にはお目にかかったことがありません。ある研究所にいたとき、都城さんも滞在されていたことがあったのですが、会うことなくすれ違っていました。今思えば残念なことでした。彼のような知性も能力もないので、まねをすることできませんが、せめて科学に対す真摯な姿勢だけは学び、実践したいものです。
  夏休みになると都城氏のことを思い出すようになりました。


Letter■ 死を越えて・夏休み

・死を越えて・
都城氏とは面識もなく、
論文や著書を私が読むだけの一方通行でした。
2年の歳月が流れて、今彼の遺稿集を手にして、
この文章を書きました。
はじめに書いたもう一人の死とは、
修士課程時代の指導教官で
その後もずっと恩師であった田崎耕市氏です。
以前そのことについては、
エッセイで書いたことがあります。
田崎氏は、2002年8月19日に亡くなられました。
数えると22年に及ぶ付き合いでした。
家族づきあいをしていましたが、
今は、それも途絶えています。
死者を思い出すのはつらい反面、
彼らとの生前の思いでや生き方、
私との約束、そして私が心に誓ったこと
などをいろいろと思い出します。
そんな身近な人の死が、
歳を経るともに増えてきます。
彼らと培った多くの記憶が
私自身の経験の厚みとなっているのでしょう。
残された者は、彼らの死を糧にして
生きていくべきなのでしょうね。

・夏休み・
この文章が皆さんのお手元に届く頃、
私は、夏休みで北海道にいます。
移動は飛行機ですが、
夏休みは料金が高く、
好きに時期を選ぶことができません。
お盆をはずして、子供たちの夏休みの期間として、
7月末から8月上旬になりました。
この頃は北海道も暑く、
北海道のよさがあまり味わえないかもしれません。
電話やメールでは連絡していても、
久しぶりに家族と会うのは、楽しみです。


目次に戻る