地球のつぶやき
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Essay ■ 60 自明の是非:複雑なものは複雑なまま
Letter ■ 前提・年の初め


(2007.01.01)
  明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
  日ごろ当たり前と思っていること、誰でもわかるはずと思っていることで、本当はわかっていないときがあるのではないか、ということに思い至りました。そんな話です。


Essay■ 60 自明の是非:複雑なものは複雑なまま 

 富士山は、カレンダーの1月の写真としてよく使われています。たしかに悠然と風格があり、独立峰として孤高の美しさを感じます。多くのプロやアマチュアのカメラマンが、いまだに富士山を被写体にしているのは、尽きない魅力があるからでしょう。
  日本人なら、写真を示せば、説明がなくても、富士山であることが誰でも分かります。富士山の雪の状態や、周辺の景色から季節もすぐにわかります。ほんの一枚の写真から、非常の多くの情報を、私たちは読み取ることができます。富士山の写真をみせれば、富士山であること自明です。しかし、本当に自明なのでしょうか。
  例えば、北海道に住む小学生に、富士山の写真を見せたら、羊蹄山(ようていざん)と答えるかもしれません。なぜなら形が似ているからです。一目瞭然と思える写真でも、似たような形のものがあると、誤解を招くこともありうるということです。富士山は、日本人なら誰もが知っていると思うのは、早計です。
  普通の北海道の小学生は、富士山を見たこともないでしょう。大きくなって、経験や知識を得た後、そのような自明という前提を持つようになっていくはずです。
  富士山を小さい頃から見ている日本人は、日本でも少数派ではないでしょうか。とすれば、日本人の多くは、いつか、どこかで、「これが富士山だ」という理解をしたはずです。その経験を経てない人には、「自明」という前提は通じないのです。その経験の有無を確かめた上での自明なのです。自明にも前提があるのです。つまり、「誰でも自明」とは、必ずしも「自明ではない」のです。
  富士山は、非常に単純な例でした。いいたいことがわかりにくでしょうから、もう少しわかりやすい例を出しましょう。わかりやすい例とは、複雑な場合です。
  富士山の地質学的生い立ちを説明するときを考えましょう。生い立ちを言葉であれこれ説明をするより、富士山を構成する火山岩や火山噴出物など、活動年代の違うものを、地層境界として入れた断面図を示すことがよくあります。そんな地質断面図があれば、「富士山は、図のようにいろいろな時代に火山活動をした結果、今の形になりました。このようなものを成層火山といいます」と、説明すればよくわかります。
  必要なら図を指し示しながら、「断面の下から、小御岳火山は約70万年前から活動し、古富士火山が約8万年前に、そして現在の富士火山(新富士火山)が1万年前から活動しました」、あるいはそれぞれの石の性質や、火山灰がどこまで飛び散ったのか、溶岩の流れがどこまで達したのかなどを、一つ一つをそれぞれの図や写真を示しながら説明していけば、富士山の形成史がよく理解できるはずです。まさに百聞は一見にしかずです。
  では、図がなければ、説明できないでしょうか。もちろん図がなくても順番に丁寧に説明していけば、複雑なことでも説明できるはずです。でも、図を指し示すことによって、その複雑なプロセスを簡単に説明してしまってないでしょうか。そこに問題があるのではないかというのが、私の考えていることです。
  科学の世界では、説明のために図やイラストが多用されます。一般向けの科学雑誌では、写真やイラストのないものはありません。イラストを中心とした「ニュートン」のような月刊誌もあります。イラストがあればわかりやすいし、説明を読まなくても、わったような気になります。そう、わったような気になるのです。そこには、本当にわかった場合、本当はわかってないのにわかったような気分になっているだけ、の2つの場合が混じっているはずです。
  科学だけでなく、新聞や雑誌でも、説明のために図やイラストなどが当たり前に利用されます。あるいは図がなければ、説明できないものもあるかもしれません。
  デジタル製品や家電製品の取扱説明書などは、イラストや写真入りで、わかりやすく説明されています。デジタルカメラの説明では、各部分の名称からはじまって、バッテリー充電からはじまって、簡単な撮影、再生、保存、印刷などの方法を図入りで示し、そのカメラが持っているもっと高度な性能を活かすための操作法、トラブルがあった時の対処法などもイラスト入りで詳しく説明されています。昔の取扱説明書と比べれば、格段に分かりやすくなりました。それは、ソフトウェアの説明書のように、実際の画面に現われる図が付けられて、説明不足による操作ミスがないように配慮されています。
  図をみることで一目瞭然だから、説明するまでもないということですが、本当に、図を見て説明抜きでわかるのでしょうか。その「わかった」には、誤解はないでしょうか。
  説明とはある程度前提をおきます。特に科学の世界では、科学的素養をもっていることを前提とします。その素養とは、いろいろなレベルのものがあります。例えば、大学の専門教育では、大学の教養的なもの、専門の基礎となるような素養のあることが前提で進められることになります。大学の教養課程では、中学校・高校レベルの素養を持っているという前提の上で講義を進めます。理系の学生では、分数や少数の扱い(微積分も)や、元素記号、等速直線運動と加速度、生物の分類、地球の内部構造などは、基礎素養としてすでに身につけているものとして前提に講義が進みます。まあ、最近はそうでもないこともあるようですが。そもそも教育とは、あるいは知識とは、そのような知的積み上げのものに成立しているはずです。
  一般的な科学雑誌では、一般市民が対象ですので、大学の教養のような知的前提は置けませんが、科学に興味があるという前提をおきます。その前提があれば、できるだけわかりやすくと心がけられますが、数字やグラフ、少々複雑な内容も伝えられます。でも、そこには読者の理解したいという意欲をもっているという前提があるからです。考えてみると、伝え手はすべて、なんらかの知的レベル、前提を置いた聞き手を想定して、説明をしています。
  もし複雑な内容を伝えたいとしましょう。相手の素養の程度がわからないときは、できるだけ簡単なレベルからの内容を前提で進めることが無難でしょう。もし、伝える手段が会話あるいは文章だけであれば、想定している聞き手にわかってもらえるように、非常に基礎的な知識、内容を確認しながら、丁寧に説明していくでしょう。そして相手が説明の順番に内容を理解しながらついてきているかを確かめていくはずです。
  最初から図やイラスト、グラフなどが利用できるのであれば、それらを指し示しながら「内容をわかりやすく」説明をすることができるでしょう。もしいい図があれば、その図を見せれば、「説明など最小限にして」、理解してもらえるでしょう。時には、図を見れば、一目瞭然、自明として説明などいらないかもしれません。
  と、普通ならこのように図の効用が示せるのですが、実はそこに落とし穴がないでしょうか。難しい内容を、いい図があれば説明抜きにわかってもらえるというのは、伝え手の思い過ごしではないでしょうか。複雑な内容であるからわかりにくのであって、図があるからといって、内容が単純になるわけではありません。わかってい人(伝え手)が見るから、その図はわかりやすいものであるかもしれません。
  何も知らない人(聞き手)にとっては、初めてのわけのわからないことです。もし、一目瞭然の図があり、それからすぐに内容を理解できるということは、非常に単純にその内容を説明できるということではないでしょうか。つまり自分の理解が足りないのかもしれません。伝えたい内容はそもそも複雑な内容ではないということです。
  もし本当に複雑な内容であれば、聞き手は図を見ることによって内容を単純なことと誤解している可能性があります。複雑な内容なら、図からも複雑なものであると理解できなければなりません。そのためには、たとえ図を使ったとしても、丁寧な説明が必要ではないでしょうか。複雑な内容は、複雑なものとして説明しべきではないでしょうか。その複雑さを伝えるために図が利用されていればいいのですが、複雑なものを単純かのよう誤解を与える利用をしていないでしょうか。もしそうなら図の使用は間違ったものとなっています。
  最初に単に富士山の写真を見せたものと、富士山の地質学的生い立ちの例を出しましたが、明らかに地質の生い立ちの方が複雑な内容です。富士山の写真ですら、前提が通じなければ誤解を招きました。より複雑であるはずの地質断面による生い立ちが、図を見ながら説明したらわかりやすいといいましたが、そこにはもっといくつもの複雑な前提を置いているはずです。
  例えば、断面図はあくまでも推定されているものであること、地層の重なりはできた時間の順番を示し、その順番が断面として現れるというなどの前提をおいています。
  断面は、地表調査の結果、描かれるものです。もし、地表のどこにも現れていない層があれば、それは推定できません。また、断面の境界線が本当にそこを通るというのは、現実でもないし、確実でもないということです。断面図はあくまでも、そこを調べた地質学者が推定したものなのです。そのような不確かが前提とされている断面図なのです。
  断面に現れる順番ができた順番を現るという「考え」は、これは地層累重の法則と呼ばれるものです。下の地層や先にでき、上の地層が後にできます。下が古く、上が新しいのです。このようなことは、当たり前のように思えますが、実はこの地層累重の法則は、ステノ(Nicolas Steno、1638−1686年、デンマーク生まれ)によって発見されたものです。この前提は、科学的に検討されたものなのです。
  そのような学問的前提を聞き手に自明として求めるのは、いいことでしょうか。まして火山で断面図や地層累重の法則が利用できるには、火山に関するいろいろな知識を持った上で理解できるもののはずです。それを図を見たから説明なしに理解できるとは思えません。北海道の小学生に富士山の写真をみせて、富士山を自明として説明をしてくようなものです。子供たちは、羊蹄山の生い立ちを思ってしまっていることでしょう。
  前提抜きに語られたおかげで、重要な地質学的前提を理解せずに、「わかったような気」になっているのではないでしょうか。説明は、現状の一番最もらしいことに過ぎず、もしかすると新しい発見で簡単に書き換えられることもあるということも、一緒に理解すべきではないでしょうか。
  ここで示した例が、私の言いたいことを伝えるためにいいかどうかわかりません。でも、私の言いたいのは、図を利用することで、複雑なことを単純に伝えてしまってないかという不安、前提を間違ってしまうと、自明が通じなくなるという不安があるということです。
  自明が通じてないなら、理解できない聞き手を生みます。もし複雑なものが単純だと伝わっていれば、誤解をした聞き手を生み出しているかもしれませんす。もしかすると、わからない聞き手をつくりより、誤解した聞き手を生むほうが、問題かもしれません。それは、聞き手に、不利益を与えるかもしれないからです。
  大学の授業では、レジメを使ったり、黒板も使うことができますから、必要に応じて図を描くことがよくあります。私は、いつも図を描くようにしています。図を描きながら説明をしていきます。そして、「この図からわかるように」といいながら、講義を進めることが、ごく当たり前にあります。今までそれにあまり疑問を感じなかったのです。
  今回、上で述べたような疑問を感じたのです。人に複雑な内容を伝えるときは、複雑であるということも、内容とともに伝わらなければならないというこに、気づいたのです。これは、非常に大切なことをだと思います。そして、これを行うのは非常に大変な労力が必要だということも悟りました。伝える側も聞く側も大変です。
  伝える側の私にできることは、複雑な内容の説明には、逃げ道、近道、迷い道となるような図に頼りすぎず、遠回りでも、わかりにくくても、ただ着実に、一歩ずつ説明していくしかないのです。誠意を持って、着実にやるしかできないです。
  これが、私が気づいたことでした。そして、これに気づいたからには、これから人に伝えるときに大変になるということです。まあ1年の計として元旦に考えることとしては、少々重過ぎる課題だったかもしれませんが。


Letter■ 前提・年の初め

・前提・
今回の話にも出てきましたが、
すべての説明には、聞く人に、どこかに前提をおきます。
しかし、インターネットのWEBやメールマガジンのようなものは、
作者側に想定した読者を置くことがあっても、実際の読者は不特定多数です。
ですから、どんな前提も置けないのが本当のところです。
伝える側は、できるだけわかりやすく説明することが求められるわけです。
メールマガジンの性格上、文字だけで説明しなければならないのです。
図が使えれば一目瞭然なのに思うことがたびたびあります。
でも、それは明らかに近道を選ぼうということになります。
丁寧に説明すれば、きっと伝わるはずです。
その前提がなければ、誤解を与える危険性があのですから。
ですから、できるだけ丁寧に説明するようにしていきます。
このメールマガジンの想定読者は、大人です。
ある程度の漢字、言い回しなど、大人なら理解できる日本語を利用します。
そして、複雑なことも理解しようと読んでくれる読者であると信じています。
それが私の前提としている読者です。
でも、これは私の側の都合で、作り上げた読者像です。
メールマガジンの性格からして、
この想定読者は、そんなに外れたものではないでしょう。
もちろん、想定読者に合わない方もおられるかもしれません。
しかし伝え手としては、見えない読者には、なかなか対処できません。
でも、精一杯誠意を持って、
回り道でも手を抜くことなく努力することなのでしょう。

・年の初め・
毎年迎える正月ですが、
正月には過ぎた年、来る年について考えてしまいます。
そして昨年の反省とともに、今年の決意を固めます。
そして挫折を経験します。
そんな繰り返しをしています。
だったら最初から高望みしなければと思ってしまいます。
元旦とは、2006年と2007年という人為的に決めた時間の境目です。
国境なども人為的に決めたものです。
境界に立つと、人は、ものを思ってしまうようです。
人がつくった境界なのに、いや人がつくった境界だからこそ、
何かを考えてしまうのかもしれません。
年の初めとは、時間の区切りとして境界で
もの思うところなのかもしれません。


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