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講 義: 年の終わりに:自然について
掲示板■ 真のナチュラリスト
 


 今年最後は、特別講義とします。自然について考えてみます。


▼ 講義ファイル
Lec2005Lastの講義ファイル(講義時間 18:06)
ブロードバンド用(ファイルサイズ 4.4MB)
ISDN用(ファイルサイズ 2.2MB)


講 義: 年の終わりに:自然について

▼ 何が自然で、何が人工か
 皆さん、自然というと、どのようなものを想像しますか。次に出すいくつかの例から考えてみて下さい。
A 知床のような、人手のあまり入っていないもの
B 人里はなれた森や林の緑
C 人が長年暮らしてきた里山や、人が手を入れ続けてきた雑木林
D 田畑の広がる田園風景
E 緑の木々や芝生のある公園
F 植物や野生の昆虫などが来るビル街の屋上に作られたビオトープ
G 室内の観葉植物や熱帯魚
 さて、皆さんは、どれを自然と考えるでしょうか。

▼ 自然の定義
 実は、上の例は、意図的に書いてあります。それは、人の関与が少ない順です。たとえば、上の「D 田畑の広がる田園風景」を選んだ人は、多分A、B、Cのすべてを、自然として選ぶはずで、D以降は自然ではないとするはずです。
 このような例によって、どこまでを自然と呼ぶかを考えることができます。自然をどのようなものと考えるかというのは、定義の問題です。その定義において重要となるのは、人間の関与の程度であるこということが、上の例からは推定できます。
 人間の関与とは、人間と自然とが対峙する構図から生まれる考え方です。人の関与したもの、つくったものを、人工といいます。つまり、人の作ったものは「不自然」なものとなります。

▼ 人間とは
 さて、人間とは、なんだったでしょうか。ここで、哲学的考察でも、人類学的定義を考えるのではありません。人間ついて、どのような生き物かを思い起こすだけです。
 人間は、霊長類、哺乳類、脊椎動物、動物、多細胞生物、真核生物などのグループに属する生き物です。
 生物を分類するとき、各生物の特長によって種というものに分けられますが、人間もある特徴を持って、そのひとつの種を占めています。つまり、分類学上は、人間はあくまでも生物のひとつの種です。分類学上は、生物の一種なのに、どうも自然を人間とは相容れない、対峙する構図が、いつの間にかできてきました。
 人間は、自然の一部です。なのに自然と対峙します。では、いつ、なぜ、そのような関係になったのかを考えてみましょう。

▼ 昔の日本
 明治以前の日本では、自然を敬う気持ちが強かったはずです。ですから、自然と何とか共存しようと考えていました。共存というより、自然の脅威をなんとか凌ごう、耐えようと、日々苦闘していたというのが、本当のところでしょう。自然とは、恐れ、敬い、祈ることでしか、対処できない存在だったのでしょう。
 このような時代には、人間は弱いもので、自然は支配的だったのではないでしょうか。

▼ 今の日本
 ところが、いつの頃からか、技術や科学の進歩によって、自然を人手で大きく改変できる力を、人間は身につけました。それ以来、人間は、自然を支配下に置き、あるいは自然は敵対し対峙するものとなりました。他の生物は、人間のためにあり、人間が生殺与奪の権利を持つようになりました。生物を時にはほとんど殺しつくし、しかしそれではいけないと保護したりもしました。
 人間という一つの生物の種が、他の種を殺したり、守ったりしているのです。そこに、矛盾を感じます。自然も他の生物も変わっていません。人間が変わったのです。

▼ 考えるべきとき
 現代の日本は、コンクリートのジャングルでストレスを感じながら、コンクリートの中の人工の自然の中でしか生きていけない人種を、自ら生んだのです。
 その中には、ナチュラリストと呼ばれる人も住んでいます。快適な人工環境の中で暮らしながら、休日にコンクリートから離れて、緑の多いところに出かけてつかの間の自然を味わう人たちです。私のその一人です。
 私は、偽のナチュラリストです。このような考えは、本当に正常、健全なのでしょうか。

▼ さいごに
 自然について考え、悩み、なんとしなければという気持ちを持つ必要があります。私達人類が進んでいる道は間違っていなのでしょうか。快適さ、便利さ、経済性だけを求め続けて、もっとも大切なものを、どこかに忘れてはいないでしょうか。取り返しのつかないことを、私達はしていないのでしょうか。立ち止まって考えるときがきているのではないでしょうか。考える時期を逸していなければいいのですが。


掲示板: 真のナチュラリスト  

・真のナチュラリスト・
年末の特別講義は、少々重たくなりました。
でも、いつかは、どこかで、すべての人が考え、議論し、
人類としての結論を出さなければなりません。
特に経済的に発展している国は、
深く考える義務があると思います。
そして、最終的に行動を起こす義務もあると思います。
そんなことを、もっと発言し、提案する人も
もっとたくさん必要となるのではないでしょうか。
そして、真のナチュラリストが
もっとたくさん生まれてくるべきかもしれません。
背伸びをすることなく、ストイックになることもなく、
他人に強要することもなく、心から「自然」に実行に移せる
真のナチュラリストを、もっと生み出さなければなりません。
私たち人工環境の生活者は、
そんなナチュラリストを守り、そこから学ぶ必要があるでしょう。
彼らは、もしかすると、未来の人間の生き方にチャンレンジしている
パイオニアかもしれないからです。
そして彼らを手本として、本当に自然な生き方として
後に続けばいいのです。
そんな時期に来ているのではないでしょうか。

最後になりましたが、よいお年を。


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