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講 義■ Lec 012 (その3)生きていた証拠:化石
掲示板■ 調整中・2学期のはじまり 


 今回は化石の見方の変成を紹介していきましょう。


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講 義■ Lec 012 (その3)生きていた証拠:化石

▼ 化石観の変遷
1 化石の語源
 化石は、英語でfossilと書きます。英語のfossilの語源は、ラテン語のfossilisからきています。Fossilisとは、「掘り出されたもの」という意味です。
 中国では、顔真卿(かんしんけい、709〜786)や朱子(しゅし、1130〜1200)が書いたものに、化石は過去の生物の遺骸である、という意味の文章があります。ですから、中国では8世紀には、現在の同じような意味で化石という言葉が使われていたことがわかります。
 日本では、中国の影響を古くから受けていました。古いものでは、本草学のなかに、現在でいう化石が含まれていました。しかし、本草学では、現代風の化石という意味は、理解されていませんでした。
 日本語の「化石」という言葉は、平賀源内(1728〜1779)などによって用いられ、木や葉の石になったものの俗称でした。それが、明治初期より鉱山などで使われ、普及し、定着しました。

2 ギリシア時代:正しい認識
 現代の科学の源流であるギリシア時代から化石の見方をみていきましょう。
 タレス(Thales, B.C. 640〜546頃)や、その弟子のアナクシマンドロス(Anaximandron, B.C. 615〜547年)は、化石が過去の生物の遺骸であるという考え方をしていました。クセノファネス(Xenopanes, B.C. 570〜475頃)は、山の地層から見つかった貝化石を見て、そこがかつて海であったと考えました。
 このように、ギリシア時代の自然哲学者たちは、化石をありのままに、正しくみていたのです。

3 間違った道へ:宗教の呪縛
 アリストテレス(Aristoteles, B.C. 374〜322)は、造形力説という考えを提唱しました。造形力説とは、化石は、神秘的な特殊な力によってつくられたと考えたのです。アリストテレスの考えは、キリスト教の世界では、聖書と同じあつかいをされていました。造形力説の考え方は、西洋では、長く信じられていました。造形力説の影響のもとで、化石は、「自然のいたずら」や「神のたわむれの作品」などという考えが、中世のヨーロッパでは主流となっていました。
 「鉱物学の父」と呼ばれたアグリコラ(G. Agricola, 1494〜1555)は、「掘り出されたもの」ということから、鉱物も化石の一種に入れていました。これは、明らかに造形力説の考えに基づいています。
 造形力説にまつわる事件を、2つ紹介しましょう。
 まず最初は、ベリンガー事件と呼ばれているものです。
 ドイツのビュルツブルク大学の教授ベリンガー(J. B. A. Beringer, 1670〜1740)は、三畳紀の石灰岩層に含まれる化石を研究していました。ベリンガー教授に嫉妬した同じ大学のフォン・エックハルト図書館長とローデリック教授は、3人の青年を使って、石灰岩を削って偽の化石をつくり、化石の産地に埋めさせました。その中には、普通の化石をまねしたもの以外にも、怪獣、輝く太陽の化石、ヘブライ語の文字の化石なども含まれていました。これを採集したベリンガー教授は、「造形力説」を信じていていたので、化石であることに疑問をもちませんでした。やがて、ベリンガー教授は、研究の成果を「ビュルツブルク産化石の石版図集」として出版しまし。ところが、化石の中に、自分の名前があるのを発見して、はじめてだまされていることに気づいたのでした。
 もうひとつの事件は、罪深い人間の化石にまつわるものです。実物の化石は、大英自然史博物館の入り口に象徴的に飾られています。
 ショイヒツァー(J. J. Scheuchzer, 1672〜1733)は、ある化石を、人の化石と考えました。その化石には、見ようによっては、頭骨と背骨、そして手足の骨があるように見えました。ショイヒツァーは、この化石を「罪深い人間の化石」として、「ホモ・デルブィイ(洪水の人)」と命名しました。彼は、聖書に書かれているノアの洪水で、おぼれて死んだ人が、化石になったと考えたのです。後に、この化石はキュビエによって、オオサンショウウオの仲間として両生類の化石と同定されました。化石の名前は、「アンドリウス・ショイヒツェリ」と名づけられました。自分の名前(汚名ですが)が、化石に付けられたのです。

4 正しい認識へ萌芽
 化石の見方が宗教的であった中世ヨーロッパで、いち早く化石を正しく理解したのは、レオナルド・ダ・ビンチ(Leonardo da Vinci, 1452〜1519)でした。彼は、土木工事に立ち会った経験から、化石が過去の生物であることが理解していました。陸で発見した貝化石を、かつて海にすんでいた海生生物が地層にうまり、地殻変動で陸地に上がったという結論に達していたのです。しかし、その手記が、当時の社会的背景よって、公表されたのは、ダ・ビンチの死後100年もたってからでした。
 その後、ヨーロッパでの産業革命によって、大規模な土木工事がおこなわれるようになって、各地で多くの化石が発見されるようになりました。18〜17世紀には、地層の研究によって、化石への認識が深まりました。地層の違いによって、含まれる化石も違っているということが、理解されるようになってきました。

5 激変説と斉一説:正しい認識への闘争
 このような化石に対する認識の違いは、地質学でも大きな論争となりました。それは、激変説と斉一説との対立として、イギリスで起こりました。
 地質学者も含めて、当時の多くの人は、地球の歴史では、聖書に書かれているような大異変が何度か起こり、そのたびごとに、以前と同じ種類の生命が新たに発生したという、考え方をもっていました。この考えは、激変説(天変地異説)として、中世ヨーロッパにひろくゆきわたっていました。「ノアの洪水」は、最後の大洪水とされていました。
 激変説に対して斉一説(せいいつせつ)は、過去の地質現象は、現在の自然現象と同じ作用で、同じように営まれていた、とする考えです。それを象徴する言葉としてハットン(J. Hutton, 1726〜1797)の「現在は過去鍵である」というものがあります。ハットンが、斉一説を最初に唱え、ライエル(C. Lyell, 1797〜1875)も、1830年代に「斉一説」を唱えました。この説は、空想的、宗教的自然観(激変説)が強かった時代において、近代的な科学、地質学の確立に重要な役割を果たしました。しかし、当時の考えからすると異端の考えでもありました。
 同じような論争は、フランスでも起こっていました。ラマルクとキュビエが生物進化に関すして、斉一説と激変説による立場で論争しました。
 ラマルク(J.-B. Lamarck, 1744〜1829)は、無脊椎動物化石の研究をしていました。生物は、無生物から自然発生し、単純なものから、複雑なものへと「前進」すると考えました。その結果、自然界には、発生時期の違いによって、発展段階の違うものが、階層的に存在すると考えたのです。そして、有名な「用不要説」の提唱しました。ラマルクは晩年、失明し、無心論者という非難を受け、博物館を手探りで彷徨い歩いたといわれ、不幸のうちに死にました。
 一方、キュビエ(G.D. Cuvie, 1769〜1832)は、激変説によって古生物を説明しました。キュビエは、各地から産する動物化石、とくに脊椎動物化石を研究し、「比較解剖学」の手法を確立した偉大な科学者です。そのため、脊椎動物古生物学の祖ともいわれています。
 キュビエの激変説の根拠は、次のようなものでした。
・生物は進化しない。なぜなら、何千年前にも、犬、猫、人間はいるが、骨格の変異も進化もない。変種でさえ骨格は似ているというのが証拠です。
・自然の生物の連鎖(「存在の大いなる連鎖」という階梯論と呼ばれいます)を否定して、生物は種として分類されると主張しました。それは、分類の中間種は存在しないからです。
・化石種から見られるよう絶滅種は多数存在します。生物の連鎖があるならなぜ絶滅種があり、連鎖が途切れているのかという疑問です。
 以上のようなことから、キュビエは激変説の立場をとりました。
 キュビエは、最初、多くの支持を受けましたが、ラマルクやライエルに反対され、その説はやがて消えていきました。
 ライエルも、最初はラマルクの進化説に反対しましたが、ワラス(A.R. Wallace)やダーウィンに影響され、進化説を受入れました。しかし、このような論争によって、古生物学の基礎が確立していったのです。

6 ダーウィンの進化説:近代科学への道へ
 やがて、ダーウィン(C.R. Darwin, 1809〜1882)の登場となります。ダーウィンは、ライエルの斉一説の影響を受けています。1859年に「種の起源」を出版し、進化論を提唱しました。


掲示板■ 調整中・2学期のはじまり  

・調整中・
8月になって講義が終わったので、
今までだましだまし使っていたものを
すべて調整しなおすことにしました。
まずは、自宅のパソコンの文字入力がおかしかったのを治すために、
ハードディスクをフォーマットしなおし、
ソフトをすべて入れなおしました。
すると自宅でのネットワークにつながらなくなりました。
現在調整中です。
そして家内が撮るビデオを編集しDVDにするための
ソフトが入ったCD-ROMが見当たりません。
現在、捜索中です。
研究室のFTPソフトがセキュリティソフトとの相性がよくなく
セキュリティソフトを毎回とめてFTPしていました。
メーカーに対策を問い合わせ、指示された方法で、動くようになりました。
調整終了です。
研究室のメインのコンピュータのメールソフトを変更しました。
メールソフトが不調で、いろいろ調整していたのですが、
原因が大学の計算機センターのメールサーバにあることが分かりました。
調整終了です。
カメラの魚眼レンズが不調です。
メーカーに問い合わせたら、修理が必要だそうです。
現在修理中です。
こうしてみると、まだ調整中のものが多いですね。

・2学期のはじまり・
いよいよ北海道の小中高校は夏休みが今週で終わりです。
今年の夏休みは、本当に暑かったです。
我が家の子供たちも、学校へ行く準備をしています。
長男も夏休みの大作の宿題「身近な昆虫図鑑」を仕上げつつあります。
大学の教員は、成績を提出したので、
やっと夏休みらしきものを感じられるようになりました。
まあ、実際には、締め切りのある仕事や論文作成、
高校巡回などが控えていますが。
9月には定常の会議がはじまります。
その合間をぬって研究のために四国にいったりします。
なにかと忙しいのですが、これもいつもの夏のことです。
愚痴を言わずに、こなしていきましょう。


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