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講 義■ Lec 012 (その1)生きていた証拠:化石
掲示板■ 生きがい・リフレッシュ 


 今回からは、化石について考えていきます。まずは、「生きている」と「生きていた」について考えていきます。


▼ 講義ファイル
・Lec012_1の講義ファイル(講義時間 25:14)
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講 義■ Lec 012 (その1)生きていた証拠:化石

▼ 「生きている」と「生きていた」
1 生きている証(あかし)
 「生きている」ということは、自分自身のために、未来へ生をより永らえることです。
 たとえば、「食べる」ということは、今の空腹を満たすということですが、別の意味として、未来に向けて「生」を永らえることもあります。これは、未来のために、今を生きるということになるでしょう。
 自分自身を生き永らえるための原動力となるものは、「生きがい」となります。「生きがい」は自己の確立からはじまります。デカルトは「方法叙説」(1637)の中で、「われ思う、ゆえにわれ在り」(コギト・エルゴ・スム cogito,ergo sum:ラテン語)という言葉で、自己を確立を表現しました。
 「生きがい」がこうじていくと、自分が、「この世」に生きているという証(あかし)を、他人に示したくなります。それは、「自分の存在証明」であり、それが「生きている証」となります。「自分の存在証明」とは、一種の自己顕示欲となります。
 「自分の存在証明」は、対外的に、社会に対しておこなうのですが、実は、自分の心に対する、満足感を得るためのものです。「死」が訪れれば、「自分の存在証明」は、無になってしまいます。
 したがって、「生きている証」は、個人の生存期間しか、保持できないものです。

2 生きていた証
 「生きている証」は、現在形でした。これは、個人の生きている間だけのことです。ところが、「生きていた証」とは、過去形です。つまり、死んでからのことになります。
 「生きている証」は、すべては、本人の死とともに消えていきます。しかし、「生きていた証」は、「生きている証」あるいは本人の意志に関わりなく、本人の関与することなく、たまたま残ることがあります。逆に、本人がいくら努力しても、後の時代にそれが、残るかどうかはわかりません。
 例えば、ある研究、ある作品など、「生きている証」として、提示されたものは、後の時代に、「生きていた証」が残るかどうかは、本人には判断できないことです。現時点で、どんなに「生きている証」が評価されていても、10年後、100年後、1000年後に同じ評価がされているとは限りません。100年前の研究や作品、1000前の研究や作品で残っているのは、どれほど少ないかを考えれば、「生きていた証」が残ることの難しさがわかります。
 また、本人が生きているときに「生きていた証」としての評価が低くても、後の時代にその重要性が高く評価され、歴史に名を残すこともあります。
 そんな例として、ウェゲナーという研究者を紹介しましょう。
 ドイツ人の気象学者ウェゲナー(A.L. Wegener, 1880〜1930)は、1912年に、大陸漂移説を唱えました。その説の根拠として、大西洋両岸の海岸線の類似性、南半球の古生代末の植物化石の共通性、氷河遺跡の存在、などから、大陸が分かれて現在の位置に来たことを示しました。
 しかし、その説は、多くの研究者の反対にあって、評価されることはありませんでした。グリーンランドの4回目の調査中、1930年に遭難して、50歳で死にました。1950年代、プレートテクトニクスの出現によって、ウェゲナーの大陸漂移説は、復活し、評価されました。
 「生きていた証」は意図して残ることはできませんが、「生きている証」は意図して残すことができます。生きている人間にとって、「生きている証」を残す努力はできます。「生きている証」が残せないことには、「生きていた証」として残る可能性はゼロに近くなります。もし、「生きている証」を残せれば、そこには「意図しない益」が生じることもあります。

3 死が資料に
 今までは人間の話だったのですが、生物全般となるとどうなるでしょうか。
 古生物学という学問分野では、過去を探る手法として、化石を用います。この分野は、過去の生物の一部を「生きていた証」として用いて研究をしていくものです。生物の死が、科学の素材となるのです。つまり、死が資料として、本人は「意図しない益」が生じるのです。
 次回から、化石を用いて、「生きていた証」の考え方の歴史と、研究の仕方を紹介します。


掲示板■ 生きがい・リフレッシュ  

・生きがい・
「生きている」ということを真剣に考えると、
それはすごく難しい問題となります。
そんなに難しく考えないとしても、
多くの人は、充実した生き方をしたいと考えているはずです。
充実した生き方をするためには、
生きている目標、つまり生きがいがあったほうがいいと思います。
生きがいのために、人は、生きているといっていかもしれません。
その生きがいは、あくまでも自分の生きるためにあるはずです。
その生きがいが、他人のためであるとしても、
その生きがいを、他人にアピールすることであっても、
自分が生きなければ、目標を達成することができません。
結局は自分がよりよく生きていけるかどうかが問題となります。
目的は何で合っても、「生きがい」とは、
自分が生きていく上で重要になるものなのです。
究極的には、人は自分のために生きるのです。
その一点を忘れず、自分の心に素直に生きれば、
今日一日よく生きたかどうかは、目的に関わらず判断できるはずです。
その点でいえば、私は、日々反省であります。

・リフレッシュ・
とうとう8月です。
夏休み真っ盛りです。
北海道では夏らしい日が続いています。
私は相変わらず、仕事に追われています。
しかし、2日から4日まで調査に出ていました。
忙しいといいながらも、調査はしています。
北海道のアポイ岳ということです。
実際にはこのメールマガジンは、
調査に出かける前に書いていますので、
その結果は、また分かりません。
私にとって、野外調査は、リフレッシュでもあります。
野外にでて、自然に埋もれて、汗をかくことも、
大切なことだと思います。


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