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講 義■ Lec 011(その2)生きているということ:生命とは
掲示板■ 気持ちの切り替え 


 生命論とは、生命と何かを考えることです。生命論は古くからいろいろな立場で考え、議論されてきました。今回は生命論の歴史をみていきます。


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講 義■ Lec 011(その2)生きているということ:生命とは

▼ 生命論
1 生命論とは
 「生命とは何か」について考えることは、「生命論」あるいは「生命観」と呼ばれています。生命をどう考えるかは、科学の発展程度によって変わってきました。
 生命論では、かつて三大問題がありました。それは、
(1) 無機物からの生命の発生が可能か
(2) 個体発生は前成か後成のどちらので起こるか
(3) 生物の新種は生じないか生じるか
というものでした。
 (1)の生命の発生の問題は、キリスト教では神がすべての生物をつくったとされていますので、無機的に生命は発生しえないことになります。しかし、現在では、生物は無機的に発生すると考えられています。
 (2)は、成体の原型が、卵・精子または受精卵にはじめからあるかどうかということです。あるとするのが前成で、ないとするのが後成です。前成説では、個体の発生とは、もともと成体の微小な原型があり、それが成長していくという変化にすぎないということになります。これはキリスト教の考えにあいます。現在では、個体の発生は、進化過程を再現するような(系統発生)、後成であることが確かめられています。
 (3)は、進化の結果新種ができるわけですから、時間のかかって起こる進化を実証することはなかなか難しく、難題でした。キリスト教では種というものは神が最初につくったもので、不変と考えていました。しかし、ダーウィンの進化論以降、新種は進化で生じると考えられています。でも、その証明は困難で、化石の記録が証拠としていますが、直接の証拠とはいえません。
 かつてキリスト教が絶対であった西欧において、これらの問題は非常に重要だとみなされていました。しかし、キリスト教だけでなく、これら3つの問題は、科学の上でも重要な問題でした。
 生命論は、古くは、
・生気論(活力論ともいう)
・生命機械論
の2つが流れがありました。以下にその考えをみていきます。

2 生気論
 生気論とは、古くからある考え方です。生物には非物質的な生命力があり、無機物とは異なった現象をおこす、というものでした。
 生気論は、一種の目的論のような考えで、実体のないものにその根拠を求めています。しかし、生気論は、キリスト教が支配的な時代には、重要な考え方で、その証明は重要課題でした。宗教改革、ルネッサンスなどによって、キリスト教の支配が弱まると共に、生気論も衰退していきました。

3 科学と共に生命機械論が発展
 生命機械論は、17世紀ころから生まれたもので、最終的には、生物の現象を物質現象として理解する立場です。
 デカルトは生命機械論を唱えたのですが、その考えは「方法叙説」や「人間論」に述べられています。それによると、人間にのみ魂(アニマ)を認めますが、植物も動物も人体も、機械と同様の物体にほかならないとしました。これは、魂という精神面と生物の物質面を分離することによって、物質は科学の対象としようという姿勢の現われでもあります。そして、動物を「ゼンマイをまいた自動機械」であるとしました。
 さらに、ラ・メトリーは「人間機械論」(1747年)において、人間の霊魂をも否定し、生命機械論を徹底しました。さすがにここまでいくと、当時でも、少数意見で反キリスト教の危険思想だとされました。
 18世紀後半から19世紀へと時代が進むに連れ、生命機械論は還元主義的機械論となり、生命現象は、究極には物理学的および化学的現象、あるいは物理学的、化学的法則に還元されると考えられるようになってきました。そこには、生気論のような特殊な生命力などというものは認めないという考えでした。
 科学の進歩によって、ウェーラーは1828年に尿素を、コルベは1845年に酢酸を、無機化合物から合成しました。それまで生体を構成する有機物質の合成に生命力が必要だと考えられていたのですが、その反証を示しされたわけです。
 ダーウィンは「種の起原」(1859)よって進化論を確立しましたが、生命の起源に関しては明確な記述はしていませんでした。一方、1860年初頭にパスツールは、微生物の自然発生を否定する有名な実験をし、生命の起源の問題に決着をつけました。ところが、彼は進化論には関心を持っていなかったようです。
 19世紀後半には、エンゲルスが弁証法的唯物論の立場での生命観を論じました。その考えが、20世紀の唯物論者に引きつがれ、生物学の発展とともに、生命機械論が発展していきました。1920年代にオパーリンによって、生命の起源に関して、基礎的な研究がなされ、科学の対象となることが示されました。
 しかし、批判的立場の人たちもいました。デュ・ボア・レーモンは、機械論的見解を進めながらも、究極には不可知の問題が残るはずだとして、単純な唯物論的理解を批判しました。
 また、20世紀初頭には、還元論に対抗して、各種の全体論(その一種として新生気論や生体論(有機体論))が現れました。20世紀初年のドリーシュの新生気論は、動物が調和した発生するのに注目して、そこには超物質的原理が存在する考えました。また、スマッツの全体論(holism)、ホールデンの生体と環境を一個の全体とする見方、ベルタランフィの有機体論などいろいろな全体論が考えられました。

4 現在の生命機械論
 現在は、科学の進歩によって、より還元主義的な生命機械論へとなっています。
 生物学には情報理論が適用されてきて、生体を自動制御系とし自動制御機械とみなすような見方になってきました。生体を自動制御のシステムとするサイバネティックスという見方やベルタランフィの一般システム理論がそれに相当します。

5 今後の生命論
 最近では脳に関することもかなりわかってきて、「こころ」の問題にも還元主義的に考えが取り入れられつつあります。
 今後も、生命現象は、科学の進歩によってますます詳しくわかっていくでしょう。しかし、片方で、やはりどうしても解けない、理解しがたい存在して生命は残るような気がします。


掲示板■ 気持ちの切り替え  

・気持ちの切り替え・
今週末の連休は、家族旅行をかねて調査に出かける予定でした。
場所は、北海道の幌満というとこです。
何度かいっているところなのですが、今回はアポイ岳の登山を考えていました。
私は以前に一度登っているのですが、今回は、写真撮影を目的としています。
ところが、今週の火曜日になって、次男が水疱瘡を発症しました。
金曜日までに治るかもしれないと看護師さんがいっていたのですが、
治療のための白い塗り薬が体中につけています。
これの状態では、本人や家族は大丈夫でも、
周りに迷惑なので、急遽中止することになりました。
地形の連載をしているのですが、
そのテーマとして今回は8月はアポイ岳を取り上げるつもりでした。
場所を変更してもいいのですが、できれば、面白い地形もあるので、
なんとか行きたいと思っています。
そこで、8月の定期試験終了直後に、出かけることにしました。
採点の日程が非常にきつくなるのですが、仕方がありません。
幸い同じ宿に空きがあったので、キャンセルと同時に予約もしました。
家族で生活していると、自分は大丈夫でも、
病気や怪我など予想に反することが起こります。
予定通りにことが運ばないことは、残念ですが、
それは致し方ないことであります。
そのような突発的な予定変更が起こったとき、
どう対処するかが大切なのかもしれません。
重要なのは、代替が次善ではなく、最善だと思える
気持ちの切り替えではないでしょうか。
私は、予定変更を7月末締め切りの論文作成に
時間を有効利用しようと考えています。


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