はじめてこの講義を受講するかた、
PC Lectureを試したいかたは
まずはじめにここをお読みください。

もどる


講 義■ Lec 011(その1)生きているということ:生命とは
掲示板■ 教員はつらいよ 


 今回から新しいテーマのはじまりです。生命について考えていきます。それ
は、生きているということは、どういうことかを、考えることにつながります。


▼ 講義ファイル
Lec011_1の講義ファイル(講義時間 21:46)
ブロードバンド用(ファイルサイズ 5.3MB)
ISDN用(ファイルサイズ 2.7MB)


講 義■ Lec 011(その1)生きているということ:生命とは

▼ 生きているということ
1 地球生命
 「生きている」とは、どういうことなのかを取り上げます。しかし、ここで、人が生きている目的を問うのではなく、「生きている」という状態の本質を考えることにします。まず、「生きている」ということを考えるためには、「生きている」という状態をどう定義するのかが問題となります。
 生きているものは、よく「生命をもっている」いいかたをします。もしそういえるのなら、「生きている」を考えるとき、「生命をもっている」とは何か、つまり「生命とは何か」と置きかえてもよさそうです。
 では、その「生命とは何か」、ということです。私たちが知っている生命とは、地球に存在する生命だけです。あるいは、地球の生命でも、その営みは炭素を中心としておこなわれ、なおかつ私たちが生命とみなせるものだけを、私たちは生命と呼んでいます。私たちが、現在知っており、扱うことができるのは、「地球生命」だけなのです。
 地球で生命を宿すものを生物と呼び、科学的に扱う分野として生物学があります。生物学では、これ以外のもの、例えばガイア(地球全体を一つの生命体として考えるもの)や地球外生命などは、生物の仲間としたり、生物学の研究対象に入れたりはしていません。それは、実体がよくわからず、証拠を持って論理的に証明でき対象だからです。

2 生命と生物の定義:循環論法
 生命とは、生物学辞典によると「生物の本質的属性」と書いてあります。つまり、生命とは、「すべての生物がもっている共通の性質」のことといっています。一方、生物とは、生物学辞典では「生命現象を営むもの」とあります。「生命現象」の生命とは、上の定義では、「生物の本質的属性」となります。
 生命と生物の両者が、相手にその意味をよりかかったような循環論法におちいっています。このようなことが起こるのは、生命、および生物の定義が、完全ではないことを、意味しているためなのでしょう。
 「生命とは何か」という問題に、人類は長く悩んできました。今、その答えを、不完全ながら、科学が出しつつあります。これを見ていくことが、今回の講義のテーマとなります。

3 私たちには、見分けられる
 科学的に定義をできない生命を、不思議なことに、私たちはなんとなく見分けられるのです。
 例をあげましょう。犬と机があるとします。じっとしていることのできる茶色い犬と茶色い犬型の机です。その違いは、よく見るとわかるはずです。犬が生きていて、机が生きていないという証拠は、探せばいくらでもでてくるでしょうが、直感的にわかるはずです。両者には、茶色い、動かない、4つ足など探せば共通性がたくさんあります。でも、犬は生きていて、机は生きていないと、理由をあげるまでもなくわかります。
 もうひとつの例です。今度は、寝ている犬と死んでいる犬です。寝ている犬と、死んでいる犬の違いも、よく見るとわかります。机よりは分かりにくいかもしれませんが、近づいてみれば、その証拠をいくらでもあげられるでしょうが、直感的にわかるはずです。

4 でも、不確かである
 犬のように、私たちに身近な、あるいは近縁な生物の「生命」は見分けやすいのですが、縁の遠いものは見分けづらくなっていきます。
 例としては、ウイルスがあります。ウイルスは、DNAやRNAだけが中身として、タンパク質の外皮に包まれているだけ、という非常に簡単なタイプのものもいて、他の生物などとは、全く違った生きかたをしています。ウイルスは、他の生物体に入りこんで寄生するまで、じっと変化することなく過ごします。つまり、生命活動をしません。ところが、他の生命に寄生をすると、活動を開始し、栄養を吸収し、子孫をつくるという生命活動をはじめます。
 次の例は、タバコモザイクウイルスです。これは高校の生物学の教科書にも出てくる内容です。タバコやトマトの葉に斑点ができ、奇形でよじれ、成長が悪くなるタバコモザイク病という病気があります。その原因は、ウイルスであったことを、1935年アメリカの生化学者スタンレーがしましました。抽出したウイルスは、高分子の結晶となったのです。しかし、この結晶を、タバコの葉にすりこむと、結晶であったものが、生きて、増殖していくのです。結晶とは無生物の無機物の特徴です。結晶とは、そのままでは、変化しなということです。しかし、環境が与えられる、生命活動をはじめるのです。ウイルスもやり生命なのです。
 私たちに身近な生物であれば、理由などなくても生命を持っているかどうかは、直感的にわかります。しかし、私たちと縁の遠い生物や、違った生き方していものでは、そのような直感は通用しないのです。ですから、どんな生物にも適用できるような定義が必要なのです。


掲示板■ 教員はつらいよ  

・教員はつらいよ・
大学の講義もそろろそ終わりです。
今学期は、祝日の関係で、月曜日と火曜日は順調に講義進み、
来週で14回目となり、終わり、定期テストとなります。
こころが、水曜日から金曜日までは、あと2回講義が残っています。
回数が違ってくると、複数の講義を担当するときは、
同じ曜日でやらなければなりません。
以前3講を、1日で同じ講義を1年間行っていたのですが、
それは体力的に非常に大変となります。
身勝手な言い方かもしれませんが、
学問のような継続性の必要なものは、
祝日と関係なく講義を実施できればいいと思います。
すると、学生も休みの期間が明確になり、
教員も対処しやすくなります。
でも、祝日があると、その日はすごく得したような気になります。
それも捨てがたい魅力ではあります。
ちょっと前までは、土曜日も半日講義や仕事がありました。
1日あれば、十分な休養、休日なったはずです。
今では週休2日なりましたし、
祝日、夏休み、冬休み、春休みと、学生には休みがたくさんあります。
休みすぎではないでしょうか。
でも、学生が休みということは、教員も休みになるのだろうというと
そういうわけでもありません。
大学の教員は、講義のないこのときこそ、やれなかった研究をするのです。
特に北海道での地質学は、冬はできませんので、
夏休みにどれだけできるが重要になります。
しかし、教員は8月一杯、お盆までは採点、評価、
お盆明けは、高校巡回と、忙しく過ごしています。
9月になると定例の会議だけとなり、少しは楽になりますが、
私の場合は、後期の新しい講義の準備となります。
そのようなあわただしい日程の合間を縫って
研究や調査をしなければならないのです。
大学教員もなかなかつらいのです。


もどる