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講 義■ Lec 010(その1) 見えないもの:見えないものを見る方法
掲示板■ 不精では・もてなしの心 


 新しいテーマです。見えないものを見る方法です。そのためには、頭を軟らかく想像力を働かせなければなりません。そんな想像力のひとつに思考実験というものがあります。


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講 義■ Lec 010(その1) 見えないもの:見えないものを見る方法

▼ 頭でする実験
1 想像と実験
 人は昔から、いろいろなことを想像して、考えてきました。しかし、想像しただけでは、正しいかどうかわかりません。想像したことが正しいかどうかは、実験で調べることができます。また一方、人は、実験から新しい考えを生み出してきました。想像と実験によって、人は深く考えることができるのです。
 想像とは、頭の中(思考)の中の産物であり、実験とは、現実におこなうもので、事実と呼ぶべきものです。しかし、想像と実験はあい反するものではなく、うまく協同すれば、すばらしい成果が出せるものなのです。
 デモクリトスのアトムという考えを例にして、頭でする実験をみてみましょう。
 デモクリトス(Demokritos)は、紀元前4世紀頃の人で、古代ギリシアの自然哲学者です。現在では、原子論の先駆者と考えられています。
 まず、何でも切れる刃物を用意します。そして、どんな小さなものでも見える目があるとします。まず、その刃物で、石ころを半分にしていきます。2つの石ころのうち、どちらかの半分を選び、それをさらに半分にしていきます。これを繰り返してしくと、これ以上切れないものになるとデモクリトスは考えました。そのような究極の微小の物質を「アトム」と呼びました。
 すべてのものをつくっているもと(万物の根元)は、特有の性質を持つ小さなアトムからできていると考えたのです。
 これは、現在の原子論に通じる考えを、思考実験だけでつくり上げた例です。ギリシア時代の哲学者は、みんなすばらしい想像力をもっていたのです。

2 思考実験
 デモクリトスの想像は、頭の中でおこなう一種の実験といえます。このようなものを「思考実験」と呼んでいます。思考実験とは、実験道具や実験装置を使うことなく、おこなうものです。うまく使えば、非常に役に立つものとなります。
 実際には存在しないものや、ありえない条件を想定して、そのとき目的のものや現象はどうなるかを、想像力だけで展開していけるからです。今では、思考実験の多くは、コンピュータの中でシミュレーションとしておこなわれていいます。現代人に想像力があまりなくなったからでしょうか。
 思考実験には、いくつかの役に立つ使われ方があります。歴史的に有名な思考実験から、いくつか重要な教訓が学ぶことができます。
 「シュレディンガーの猫」という有名な思考実験があります。これは、問題提起するために考え出されたものです。その問題とは、「ミクロの世界の理論をマクロの世界に結びつけることができるか」というものです。
 「シュレディンガーの猫」とは、箱の中に放射性物質のラジウムをいれます。ラジウムはアルファ線を出します。アルファ線を検知器でとらえたら、青酸ガスの発生装置のスイッチが入り、箱の中は青酸ガスが充満するというものです。もしこの装置が作動すれば、猫は死んでしまいます。
 ラジウムが1時間で1個のアルファ線を出すとすると、この箱に入れた猫は、1時間後にどうなっているでしょうか、というのが「シュレディンガーの猫」の思考実験です。猫は生きているか、死んでいるか、さてどうでしょうか。
 じつはこれは非常に難しい問題で、現在でもまだ定まった考えがありません。
 コペンハーゲン派の解釈というのが、現在の主流です。これは、観測者が箱を開けて観測を行った瞬間、その猫の状態が一つに収縮する。つまり、空けた瞬間に、猫の生死が決まるというものです。それまでは、生死は決定できないというものです。
 もうひとつの考えとして、エヴェレット解釈というものがあります。多世界解釈とよばれているものです。観測者を特別扱いせず、観測者も実験の中にに含めようという考え方から生まれたものです。生きている猫の観測者や死んでいる猫の観測者などあらゆる可能性が重ね合せられた状態にいて、箱を開けた瞬間に、それぞれが分かれてていくというものです。「シュレディンガーの猫」の場合は、箱を開けた瞬間に、生きている猫の観測者か死んでいる猫の観測者の選んだものしか残らないというものです。その他の可能性は、それを選んだ観測者の世界が独自に展開するというものです。しかし、その観測者は他の世界は知りえないのです。このように平行する多重の世界を考えて、矛盾をなくそうという解釈です。
 つぎは、考えの拡大するという思考実験の例です。ニュートンがりんごが木から落ちるのを見たという逸話に基づいています。
 ニュートンはりんごが木から落ちるのを見て、木からりんごが落ちたのは、りんごを木につなぎ止めていた力がなくなったからであると考えました。ここまでは、だれでも思いつくものです。そから考えの拡大をニュートンはしてきます。
 糸をりんごに結びつけて振り回すと、落ちません。しかし、糸を離すとりんごは飛んでいきます(これは遠心力という力の作用です)。同じように、月は地球を回っています。遠心力で月が飛んでいかないのは、糸のかわりをしている力が働いているはずだと、ニュートンは考えました。この力を重力と呼びました。重力とは、地球から、りんごや月まで、すべての物質に作用する力だとしました。ニュートンの思考実験は、大いなる考えの拡大でした。
 背理法という考え方を用いて、昔から信じられていた常識の間違いを見つけ、新しい考えかたを生み出されることがあります。その例として、ガリレオ・ガリレイの思考実験があります。
 ガリレオは、「重いものほど速く落下する」というアリストテレス以来の考えを、否定する思考実験をしました。「重いものほど速く落下する」というのは、普通に聞きくと、日常感覚に一致し、おかしいとは思いません。でも、よく考えるとおかしいことが分かります。
 まず、常識に基づいて、重いものほど速く落下するとしましょう。2つの同じ重さと形の玉を用意します。2つの玉を同時に落とすと、同じ速さで落下していくはずです。2つの玉を、軽いひもでつないで一つの物質とみなせるようにします。これで、この2つの玉は、もとの玉の2倍の重さを持つもっちますから、2倍の速さで落ちていくことになります。
 ひもをたるませて2つの玉を落下させたとしましょう。ひもがたるんでいますので、落下しているときにお互い力に及ぼしあわないので、1個の玉として落下しているとみなせます。そうすれば、それぞれの玉は、1つも玉と同じ速さで落下していくはずです。
 この2つの球を、1つのものとみなすか、2つのものとみなすかで、落下のふるまいが違ってくるのです。これは矛盾しています。ですから、一番最初の「重いものほど速く落下する」という前提が、間違っていると結論づけたのです。
 その後ガリレオは実際に落下の実験をして、「重いものほど速く落下する」というのが間違いであることを示しました。ピサの斜塔で実験をしたという逸話がありますが、本当はガリレオは研究室で実験をしています。
 私が知っている思考実験を紹介しましょう。昔鏡と私が呼んでいるものです。この思考実験は、私たちが小さくて、「この世」のほんの一部しか見ていないことを、教えてくれるものです。
 どんなに遠くも鮮明に見える望遠鏡を用意します。そして、宇宙のどこでも置ける自分を映すことにできる鏡も用意します。
 まず、鏡を月に置きましょう。望遠鏡でその鏡をのぞきます。すると、その望遠鏡には、自分が望遠鏡をのぞいてる姿が見えるはずです。自分の姿がみえるということは、自分を照らして反射した光が、月まで行いき、月の鏡に反射して、再び望遠鏡に届くまで、長い距離を移動することになります。地球から月までは、光で1.28秒かかります。往復するのですから、2倍の2.56秒かかります。月に置いた鏡を望遠鏡で覗くと、2.56秒前の自分の姿が見えているのです。
 もし、鏡を火星に置くと、片道12.67分かかりますので、25.3分前の姿を見ることになります。自分が望遠鏡をのぞこうと準備している姿が見えるはずです。もし、冥王星に鏡を置くと、5.5時間×2で、11時間前の姿になります。準備中で、自分は寝ている時間で、望遠鏡だけが置かれている状態かもしれません。これは、過去をのぞかせてくれるタイムマシーンと呼べるのではないでしょうか。
 「この世」で最大のものである宇宙では、この効果と同じことが起こっているのです。光で見る限り、私たちは、距離に応じた過去を見ていることになります。遠くなればなるほど、昔のものを見ていることになります。
 これは、「この世」では、当たり前のことのはずです。私たちがあまりに小さく、身の回りでことにしか注意を払わないので、光の到達時間は微々たるものなので、「現在」をみていると勘違いしているだけなのです。その効果があまりに小さいため、過去の光しか見えないのを気づかないだけなのです。
 遠くの星からの光は、過去のものです。「この世」のスケールで考えれば、現在というものは、自分の身の回りだけにしかなく、周辺に広がっているのは、過去です。遠くなればその姿は古いものしか見えないのです。つまり、私たちは、もともとタイムマシーンの中にいるのかもしれません。そんなことを気づかせてくれるのが、この昔鏡の思考実験なのです。


掲示板■ 不精では・もてなしの心  

・不精では・
さて、いよいよ6月となりました。
快適な季節といいたいところですが、
今週も、北海道は雨が多く、肌寒い天気が続いています。
まだ、朝夕の寒いときはストーブをたいています。
先日も、私が朝出かけるとき家内が起きてきて、
寒いといってストーブをつけました。
本州にいるときは、寒いときはとりあえず着込むはずです。
もちろん家内も本州にいるときはそうでした。
着込んでも寒いときに、暖房をつけるのです。
北海道では、寒いときは、まずストーブをつけます。
こんな光景をみると、家内も子どもたちも、
北海道人になってきたのだと思ってしまいます。
しかし、本州のように寒いときは、
まず着ることからはじめるのがいいはずです。
エネルギー消費を考えると、着込むウォームビズの思想がいいのです。
まずは家庭からの実践です。
家内には、灯油の無駄遣いになるから、まず着込みなさいというのですが、
子どものためといいながら、暖房をつけてしまうようです。
子どもは暑がりですから、寒くても動き出せば、
すぐ暑いといって薄着になってしまいます。
部屋が暖まり、家事始めると、家内も暑いといって
ストーブを切る前に薄着になる。
どうもいけません。エネルギーの無駄です。
ようは家内が不精なだけではないのでしょうか。
しかし、それは面と向かってはいえないのです。

・もてなしの心・
先日家内の義母が10日ほど滞在してました。
帰る前に、夕食を外で食べました。
そのとき、ふと考えました。
我が家では外食をすることが贅沢をすることです。
我が家だけではないことでしょう。
親族とはいえ、外食をすることは、もてなしだと考えていたのです。
迎える側の日常とは違ったこと、日常とは違った贅沢をすることで
もてなしの気持ちを表したつもりだったのです。
だが、本当にそれがもてなしだろうかと考えてしまいました。
本当のもてなしとは、自分たち自身が労や手間をかけて
相手のことを思いながら尽くすことではないでしょうか。
外食とは、その手間を金で買ってるのではないでしょうか。
これでは、もてなしの心を、金で買ったということではないでしょうか。
私は、ひどい思い違いをしているのではないでしょうか。
そんなことを考えました。
義母は外食を私たち同様に喜んでお腹が一杯と満足そうにいっていました。
それが今では、複雑な気持ちがしています。


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