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講 義■ Lec 008(その2)信じること:本当のこと
掲示板■ 長い一週間・春よ来い 


 今回は、信じることをレベルに分けて、考えていきます。レベルが上がるにしたがって、より普遍的になります。しかし、最初のレベルが、すべての原点となります。


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講 義■ Lec 008(その2)信じること:本当のこと

▼ 「信じる」こととは
 前回は、本当のことや真理について見てきました。次に、「信じる」ということは、どういうことかを、別の見方でみていきます。
 「信じる」には、いくつかのレベルがあります。それをここでは、個人的レベル、社会的レベル、科学的レベル、「この世」のレベルに分けて考えていきます。順番にみていきましょう。

1 個人的レベル
 まず、「信じる」ということは、どういうことでしょうか。国語辞典では、
「それを本当だと思い込む。正しいとして疑わない」
と書いてあります。
 つまり、真理でなくても、ウソでも、「本当だと思い込み」、「疑わなければ」は、それは「信じる」ということになります。
 個人的レベルで、「信じる」ということを考えると、「信じる」内容は、当然、自由ですし、「私はこう信じる」といってしまえば、他人とどんなに違うものであっても、「私が信じる」という点では、他人がとやかく言う筋合いのものではありません。
 しかし、個人の心の中ではそれでいいとしても、自分が信じていることを、他人にわかって、理解してもらうためには、なんらの手立てが必要です。そんなとき、次の社会的レベルでの「信じる」ことが必要となります。
 この個人的レベルで大切なことは、「信じる」ということは、すべて個人的レベルからはじまります。そして、自分が個人的レベルで信じていることを大切にしたければ、他の人の個人的レベルも、尊重すべきです。信じることは、ここからスタートします。
 ただし、ある人が信じていることについて、その真偽、あるいは真理かどうかは、わからないことに注意しておく必要があります。もちろん確かさを調べるための手立てはあります。前に述べたように、証拠と論理性によって、そのもっともらしさは、見当がつけられます。
 「信じる」ことを内容を深く探る学問体系としては、宗教や哲学、倫理、心理学などの分野があります。しかしこのような内容は、この講義で扱うものではないので、これ以上、深入りはしません。

2 社会的レベル
 もし、ある社会で、それぞれの人が自分の信じることを持ち、それぞれが違っていたり、統一がとれてなかったり、ウソやデタラメが混じっていると、その社会は成り立たない、あるいは成り立ちにくくなります。ですから、社会として存続するには、社会のレベルとしてある統一的な「信じること」が必要となります。
 その指針となるものは、常識、世間の目などの理性に訴えかける何かによって暗黙に決められていたり、憲法や法律などで明記されていたりします。そのような社会的レベルの信じることによって、トンでもないことを「信じ」ないための、はどめとして働いています。
 ある法律が、それが正常に機能している社会で「正しい」とされていても、別の時代、別の民族、別の国、別の社会では、「正しくない」、「間違っている」、「違反している」ということだってありえます。
 例えば、人を殺すと褒められる(戦争)、犬を殺したら処罰を受ける(江戸時代の生類憐みの令)、牛は神様の使いである(ヒンズー教)など、地域や時代が違うと、社会的レベルの信じることも変化していきます。社会的レベルの「信じる」こととは、ある社会がその時点で守ろうという、約束事であって、普遍的に「本当のこと」というべきものでは、けっしてないのです。

3 科学的レベル
 科学的レベルで「信じる」ということとは、個人的レベルや、社会的レベルを越えた、もっと普遍性をもったものであるべきです。ここでいう普遍性とは、時代や、民族、国、社会の違いを越えたものでなければなりません。
 しかし、「普遍性」とはいっても、その当時で、一番もっともらしいことにすぎません。その時点でのもっとも「本当のこと」らしきものにすぎず、論理的には「本当のこと」と呼ぶべきものではないかもしれません。
 科学のレベルの「信じる」は、やはり証拠の提示と論理性によって、見分けることを前提としてます。ですから、一応の普遍性をもって、見分けることができるます。
 科学のレベルで「信じる」ということは、証拠のある論理であり、「真理」ようなものとなります。ただし、それは、最初に示した「真理」の意味にあったように、真理という形式をみたしているだけの確かさであって、本当に「真理」かどうかは、現状ではわからないものもたくさんあります。もしかすると、将来にわたっても検証できないかもしれません。

4 「この世」のレベル
 では、科学より上の「この世」のレベルで、「信じる」ことを求めたら、どうなるでしょうか。そんなものが、はたしてあるのでしょうか。あるとすると、どんなものでしょうか。
 それは、「この世」をどう定義するかによって変わってきます。この講義では、「この世」を「宇宙」と定義しました。したがって、「この世」のレベルの「信じる」こととは、「宇宙」のどこでも通用する「信じる」こと、となります。そして、「この世」のレベルで「信じる」こととは、科学のレベルと含み、さらに広い視点での証拠の提示、論理性を追究し、さらに時間や空間に左右されない普遍的な「真理」となるはずです。このときに必要なものは、証拠や論理を導く方法論や体系の普遍性です。
 ところが、論理性自体の根源を揺るがす一連の大発見がありました。
 まず、1929年に23歳のゲーデルは「完全性定理」というものを発見しました。この定理は、アリストテレスの見つけた三段論法(推論規則と呼ばれる)が、完全に体系化できることを示しました。つまり、推論規則は、正しく完全であることが示されました。推論規則の方法は、「この世」のレベルで利用可能だということです。
 ところが、1930年、同じくゲーデルが、数学の論理は不完全であるという、「不完全性定理」を証明しました。それは、次のような文章を考えることからある論理体系が不完全であることが発覚しました。
 「この文章は間違っている」
というような、自分自身に言及するような文章です。自己回帰文とも呼ばれます。もしこの自己回帰する内容に誤りがあると、そこでは論理的破綻をきたすことがあります。1901年に論理学者バートランド・ラッセルは、「自分自身を要素としない集合の集合」が集合論で定義できることに気づきました。
 ゲーデルが証明をしようとしているころ、1928年にダーヴィット・ヒルベルドは、67名の数学者を率いて、ラッセルのパラドックスを解決するために、全数学を形式化していく「ヒルベルト・プログラム」の作業をはじめました。
 その集大成として「プリンピキア・マティマチカ」が書かれました。その本の中では、
1+1=2
を証明するために数百ページが使われています。
 そんな数学の完全な体系化の作業が進められる中、1930年にゲーデルの「不完全性定理」を証明したのです。「不完全性定理」は、自然数論を完全な体系化ができないことを示しました。
 このゲーデルの「不完全性定理」は、当時の社会に大きな不安を与えました。意味を持つような情報を生み出す体系のほとんどすべては、自然数を含みます。ですから、これはいかなる有意味な体系も、完全なものではないということが予想できるからです。
 以前、この講義では、数学がいちばん論理的であるといいましたが、じつはその数学においてすら、ゲーデルの「不完全性論理」によって、完全ではないことが証明されたのです。
 つまり、われわれは現在、古典的な論理の正しさはわかったのですが、本当に「この世」レベルで完全な学問体系を持っていない、あるいは持てないということもわかってきたのです。
 しかし、「この世」のレベルの「真理」を求める方法論は、証拠の提示と論理性は、単純で、唯一の手がかりとなります。ただし、その普遍性を常に意識したものでなければなりません。

5 「真理」追究からの教訓
 個人のレベルでは、何を信じ、何を信じなくても、自由です。しかし、もし、個人レベルででも、「何を信じればいいのか」という疑問が生まれたとき、「真理」追究につかった手法は役に立ちます。
 「真理」に近づく一番有用なやり方は、繰り返しになりますが、
・証拠があるのかどうか
・論理的であるかどうか
を充分、吟味することです。そうすれば、その時点で、個人のレベルでは、最大限の判断基準になるはずです。あとは、自分の判断を「信じて」、その道を進むのみです。
 さらに、どのようなレベルの「真理」でも、最終的には、個人のレベルでの「信じる」、「信じない」になってきます。もし、自分の信じることを、他人に伝えたいのであれば、自分の「真理」と同程度に、他人の「真理」を尊重していく必要があります。他人の「真理」も自分の「真理」も、それぞれの人にとっては、同じ重みがあります。このような他人の「真理」を尊重することから、自分の「真理」を伝えることもスタートするのです。


掲示板■ 長い一週間・春よ来い  

・長い一週間・
長い一週間が終わりました。
大学の講義のはじまりの週でした。
私がどうのような姿勢で講義に望むのか。
最初が肝心です。
私は、講義中、私語は厳禁します。
私語は厳重に注意するという姿勢で望んでいます。
そんな姿勢を見せることが大切だということを経験から学びました。
厳しい先生に見えるかもしれませんが、
それが最終的に講義をまじめに聴く人にとっても、
私にとっても重要なこととなります。
最初は非常に集中して講義をすることになります。
ですから、最初の一週間が精神的に非常に疲れるのです。

・春よ来い・
わが町は、この一週間も不順な天気でした。
毎日雨が降り、曇っていました。
でも、気温は高く、雪解けは進んでいます。
季節をつたえるフキノトウや木々の新芽、
小鳥の姿やさえずりは春を感じさせます。
でも、やはり暖かくうららかかな天気が待ち望まれます。
せっかくきた春が満喫できないからです。
春よ来い。


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