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講 義■ Lec 003 見かた:「この世」(宇宙)の変化
掲示板■ 知識と知恵・北国の冬  


 人は「この世」をどう見てきたのでしょうか。「この世」の見かたの変化は、「この世」に関する知識がどのように変化してきたかを見ることになります。そんな変化を見ていきましょう。


講義■ Lec 003 見かた:「この世」(宇宙)の変化 

▼ 講義ファイル
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▼ 古代
1 中国で生まれた宇宙という語
 まずは、宇宙という言葉を起源をみていきましょう。「宇宙」という言葉は、古代の中国で生まれました。その記録は、現在に残されています。淮南子(えなんじ)という人が、紀元前2世紀(前漢時代)に、書いた「斉俗訓(せいぞくくん)」という書物の中に、つぎのような一文があります。
「往古来今謂之宙、四方上下謂之宇」
日本語で読み下すと、
「往古来今(おうこらいこん)これ宙という、四方上下(しほうじょうげ)これ宇という」
となります。「往古」とは、過ぎ去った昔、つまり過去のことです。また、「来今」とは、これから来る今、つまり現在と未来のことです。これらをあわせると、「宇」とは、すべての時間を意味しています。
 「四方」とは東西南北の方向、「上下」とは天と地の方向で、ありとあらゆる方向、ところということです。つまり、すべての空間という意味です。
 宇宙とは、もともと、全時間、全空間を意味している言葉なのです。ここで、重要なことは、淮南子は「宇宙」を単に空間的な広がりとしてとらえただけでなく、時間を含むものとしてとらえたことです。これは、現在に通じる考え方です。宇宙という言葉が、2000年以上前に中国ではつくられ、使われていました。
 淮南子の「斉俗訓」は、奈良時代に日本に伝えられたと考えられています。ですから、日本の僧侶や知識人は、「宇宙」という定義や言葉を目にしていたはずです。

2 中国の宇宙観
 古代の中国では、「この世」をどう見てきたのでしょう。いくつかの宇宙観がありました。
 陰陽五行説というものがありました。陰陽説と五行説があり、一緒になったものです。陰陽とは、日かげ(陰)、日なた(陽)というのが、もともとの意味でした。しかし、寒・暖の意味になり、1年の気候の推移を支配するものとして陰陽の2つのが考えられるようになりました。やがて荘子などは、陰陽は、気のおおいなるものとし、万物を生み出す要素とみなしました。
 また、五行説では、木、火、土、金、水の5元素が、この世のすべてのものをつくっていると考えていました。
 淮南子によって、陰陽説と五行説が融合されて、陰陽五行説となりました。
 中国では、他にも宇宙観というべきものがありました。代表的なものとして、蓋天(がいてん)説、渾天(こんてん)説、宣夜(せんや)説などがあります。
 蓋天説とは、お椀をふせたように大地の上を半球形の天が屋根のように覆っていると考えるものです。渾天説は、天はニワトリの卵のように丸く、地は黄卵のように中心に位置するものだと考えられました。宣夜説は、「天は了(りょう)として質なし」といわれ、物体が何もない空虚な空間が無限に続くというもので、無限宇宙論とも呼べるものです。古代の宇宙論では無限の概念は、非常に珍しいものです。
 古代中国の宇宙観には、他の地域の宇宙観と似たものが含まれていました。しかし、この宇宙観も、やがては、西洋の科学に置き変わります。

3 インドの宇宙観
 紀元前十数世紀ころ、インド最古の文献として「ヴェーダ」という神話があります。ヴェーダは、リグ、サーラ、ヤジェル、アタルヴァの4つからできています。それによると、宇宙は、欲界、色界、無色界の3層のからなる天があり、その最高点を「有頂天」といいます。天の空間、中間の空間、地の空間の3層からなる空気があります。上、中、下の3層からなる地があり、上に人間が住んでいます。中と下は神の対立者アスラ(阿修羅)が支配するところとされていました。
 古代インドの宇宙論は、複雑な階層性をもっていたのですが、近代科学に結びつきませんでした。やがて、科学とは縁のない、宗教的で哲学的世界に展開していきました。

4 西洋の宇宙観
 古代エジプトでは、「原初の水」という宇宙観がありました。太陽は、太陽神ラーが天空の海を航海していると考えられ、その小舟を両の腕で支えているのは腰まで水に浸かった神々の祖神ヌンでした。これが古代エジプトの宇宙のイメージでした。
 シュメール人は、宇宙を、自然を司る神々が擬人的な姿で集まっている天界、自分たちが住む大地、そして 神々の世界で巨大な水の塊アプスーがある地下界に分けられていました。
 バビロニア文明を開いたカルデア人は、古代エジプト時代から3,000年間変化や発展はなかった宇宙論的思考に天文学的知識を追加しました。カルデア人は、天文学的観測にすぐれ、5つの惑星を発見していました。やがてこれらの宇宙観は占星術に発展していくことになります。
 古代ギリシアでは、人間中心の思想に基づいて考えられた宇宙論になっていきます。人間が宇宙の中心となりました。ギリシア語の「ロゴス」は、その象徴でもあり、論理、理性、宇宙を支配する理法ともいうべきものでした。そして、最終的には、人間の存在の意味を問うようなかたちとなっていました。
 しかし、自然に関する考えかたや自然科学というべきものも、ギリシア時代には発展しました。ピタゴラスは地球が球であると考えていました。フィロラオスは地動説をとなえました。一方、アリスタルコスは、太陽中心説をとなえました。太陽と恒星は動かず、地球が円を描いて太陽の周りを回るという、天動説です。そして、宇宙は今まで考えていたより何倍も広いという考えを示しました。しかし、ヒッパルコスは、地動説を否定し、天動説を支持しました。それが、次に紹介するプトレマイオスへの道をひらいたのです。

▼ プトレマイオス的宇宙
 プトレマイオスは、ギリシアの天文学者で、地球は宇宙の中心であるという天動説を提唱しました。
 地球に近い順に、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星と並んでいると考えられていました。それぞれが、球状の殻の軌道をもっていることから、球殻的宇宙観と呼ばれています。
 アリストテレスは、古代ギリシアの宇宙観を集大成しました。「天体論」で、宇宙を構造、物質、運動の3つの見かたで論じました。そこでは天動説の考えが展開されています。天界は、第5元素(エーテルと呼ばれる成分)から成る天体があり、それは不変(不生不滅と呼ばれています)の存在で、天体は等速円運動をしていました。天体の複雑な運動を説明するために、大小80以上の天球層が必要であった。天界の下には月下界があり、地球があらゆる天体の中心となっていました。ここにある物質は、すべて、土、水、空気、火の4つの元素から構成されており、直線的に運動していました。
 アリストテレスは、当時の科学(人文科学から自然科学まで)すべてにわたって、論理的に集大成していきました。まさに天才のなせる業で、ありとあらゆる学問を体系化していきました。
 キリスト教神学は、教義を理性的に説明する方法としてアリストテレス学を中心に据えた。それ以降、1400年間にわたって、アリストテレスの考えが、西洋世界を支配しました。

▼ コペルニクス的宇宙
 コペルニクスは有名な「天球の回転」(1543年)で、地動説を展開しました。宇宙の中心を太陽に置くことによって、複雑な惑星運行を単純に説明できるようにしたものです。宇宙に中心があると考えました。しかし、天体の運動は、太陽の周りや母星のまわりで、完全な円運動であると考えていました。
 コペルニクスは、プトレマイオスの考えを地動説で解釈したにすぎません。キリスト教というものを批判する気はなかったのです。
 ケプラーは、「世界の調和」(1618年)で、ケプラーの法則を発見しました。天体の軌道は円運動ではなく楕円軌道をとること(第一法則)、太陽と惑星を結ぶ線が一定の時間に一定の面積になるように移動するという面積速度の法則(第二法則)、公転周期の2乗は太陽から平均距離の3乗に比例するという調和の法則(第三法則)の3つです。このケプラーの法則によって、より正確に天体の運動を記述することができました。
 ガリレオは、「天文対話」(1632年)で、科学的方法に基づく地動説を示しました。さらに、「新科学対話」(1638年)では、慣性の法則をしめし、総合的方法と分析的方法によって科学的に示すということをおこないました。
 デカルトは方法序説(1637年)で、合理主義の基づく機械論的自然観を示し、精神世界と物質世界を分離することを主張しました。そして、演繹法という方法を示しました。
 デカルトに対してベーコン(1561-1626)は、経験主義という立場で、いろいろな事実から一つの原理を導く帰納法を示しました。デカルトやベーコンによって、17世紀には科学的(論理的)に考えるという方法が確立されました。

▼ ニュートン的宇宙
 ニュートンは、ギリシア以来の自然哲学と、コペルニクスやケプラーの示した天体の運動法則と、ガリレオが示した運動の数学的扱いと、デカルトとベーコンがたどり着いた科学方法を総合して、新しい宇宙の見かたを導き出しました。
 その象徴として「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」(1687年)があります。この本で、宇宙における運動の体系は、物理学的に正確に記述できることを示しました。ベーコン的精神で実験を重んじ、帰納法による手法を用いました。そして、原理とは到達されるべき目標で、最終的にすべて原理へと行き着くと考えていました。帰納法を重視するという姿勢は、「われ仮説をつくらず」というニュートンの言葉に表れています。
 このような機械論的な宇宙の見かたは、後の西欧文明の方向を決定づけることになりました。

▼ アインシュタイン的宇宙
 アインシュタインは、一般性相対理論(1915年)で、ニュートンが均質で絶対的な空間と考えたものを、物質があると空間が曲がることを示し、空間が絶対的なものではないことを示しました。また、相対論的宇宙論(1917年)では、静止宇宙モデルとも呼ばれる、一様で安定した理想的な宇宙モデルを追求しました。この宇宙観は、この世が有限で閉じた世界であることを示しました。そして、宇宙には端はなく、等方で、物質の分布も一様であると考えていました。
 しかし、宇宙の構造を保つには、重力だけでは不可能だと気づき「宇宙項λ」を重力場の宇宙方程式に導入しました。後に宇宙項のミスを認め「宇宙項は私の生涯最大の失敗だった」と語っています。

▼ ハッブル的宇宙
 フリードマンは、アインシュタインの方程式で宇宙項がない場合の計算を試みました(1922年)。その結果、宇宙の全質量がある値より小さいと、宇宙は止めどなく膨張する「開いた宇宙」で、ある値より大きいと膨張ののち収縮をはじめる「閉じた宇宙」であることを示した。宇宙は、膨張や収縮などの「変動する」ものと考えました。
 1912年にローエル天文台のヴェスト・スライファーは、トプラー効果によって、銀河が赤方偏移していることを発見しました。その原理を用いて、ハッブルは、遠くの銀河を多数しらべ、赤方偏移していること見出しました。そして遠くの銀河ほど早く後退しているという規則を見つけました(1929年)。これは、ハッブルの法則と呼ばれるものです。
 銀河の後退速度(v)は距離(r)に比例して大きくなるという観測結果は、
 v = H×r
という式で表されました。ここで、Hはハッブル定数です。
 ハッブルは、観測から宇宙が膨張している証拠を示したのです。
 さらに、ジョージ・ガモフは、ビックバン宇宙(1948年)という考えを示しました。火の玉のような大爆発から宇宙がはじまったと考えました。そして、宇宙の元素の起源と存在を説明するために、ビックバンの超高温高密度の条件で、すべての元素が宇宙誕生から20〜30分で形成されたと考えました。

▼ 現在の宇宙
 以上のような歴史の結果、現在、宇宙は膨張していると考えられています。それは、宇宙にはじまりがあることで、そのはじまりはビックバンと呼ばれるものです。詳しくは別の講義で紹介しますが、ビックバンの証拠として、ハッブルの法則、宇宙の元素存在度、宇宙背景放射があります。



掲示板■ 知識と知恵・北国の冬 

・知識と知恵・
宇宙に対する考えかたをみていくと、人の知恵の進歩が伺われます。
今回のような紹介の仕方をすると、
昔の人が劣っていたかのように見えるかもしれませんが、
それは誤解です。
ギリシア時代の自然哲学者の著作を見ると良く分かります。
考えることにおいては、昔の人も現代人に決して劣っていません。
いやもしかすると、技術力に頼っている現代人より
優れた点がたくさんあるかもしれません。
彼らは、現代人以上に、深く考える力を持っていたように見えます。
では、現代人と昔の人の違いは何かというと、
それは、蓄積された知識の量の違いだと思います。
学校で習っている学問は、16世紀や17世紀では、
大発見になるようなことばかりでしょう。
では、高校生が、16、17世紀にいけば、大科学者になれたでしょうか。
難しいのではないでしょか。
当時の道具で、当時の常識だけで、現代正しいとも思われていることを、
当時の知識人の誰もが納得できるような証明できるでしょうか。
それには知恵が要ります。
知識は覚えれば済みますが、知恵は覚えるものではありません。
知恵の習得はなかなか難しいものです。
歴史を振り返るとき、いつもそんな思いにかられます。

・北国の冬・
私は、北海道に住んで4年目となります。
札幌から少し離れた、自然の残っている町で暮らしています。
北海道は、もう冬で寒い日々が続いています。
まだ、根雪にはなっていませんが、
朝夕は冷え込み、冬のいでたちで外に出ます。
皆さんのお住まいの地域は、もう寒いでしょうか。雪は積もるのでしょうか。
私も、京都、鳥取、神奈川といろいろなところで暮らしてきましたが、
北海道が一番好きな場所です。
本当は、寒さはあまり得意ではないのですが、
北海道の家は暖房がしっかりしているので大丈夫ですし、
外も乾燥しているので、しっかり着込めば、それほど寒さも堪えません。
北海道は、なんと言っても自然が一杯あるのがいいです。
冬の寒さも、そんな自然を残す一因となっているのかもしれませんが。


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