地球のつぶやき
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Essay 07 地質学的終焉
Letter 終わりは突然に/転進

Essay 07 地質学的終焉

(2002年2月6日)
 すべてのものごとには、「終わり」があります。「終わり」の存在は、人類の歴史を紐解けば、多くの現象において、簡単に見出すことができます。また、地質学においても、「終わり」がある現象を、多数見出すことができます。人は「終わり」を望むことは、少ないでしょう。なぜなら、「終わり」ですべてが「停止」するからです。でも、その「終わり」が、いわゆるハッピーエンド(幸福な終焉)であれば、少なくとも、人には望ましい「終わり方」ではないでしょうか。地質学では、「終わり」があるといいましたが、どのような「終わり」があるのかを見ています。地質学のあるいは私独自(?)の「終焉観」を紹介しましょう。
 地質学とは、過去に起こった地質現象を調べ、その地質現象を再現し、その現象における本質(原因、起源、条件、法則、原理、変化則、必然性など)を解明する学問です。そこで重要なのは、「過去に起こった」ということです。すべて、終わってしまった現象なのです。
 化石は、かつて生きていた生物の遺骸の一部です。地層は、過去に起こった大規模な土石流や洪水で河川から運ばれた土砂がたまったものです。火山岩は、かつての火山噴火の際、流れ出た溶岩です。変成岩は、地下深部で高温高圧にさらされて変化し、地表にもたらされた岩石です。
 地質学の見ている「終わり」は、けっして、幸福な終焉(ハッピーエンド)とは思えません。でも、それは、人間の尺度あるいは情緒による見方です。幸福な終焉な現象は、地質学的には検出しづらいものです。つまり、不幸な終焉(アンハッピーエンド)が、地質学的には記録されてされていくのです。人間的な尺度で見ると、記録に残るという点においては、不幸な終焉の方が、幸福な終焉となっているのです。皮肉なものです。人間の情緒と地質学という異質の論理が組み合わさることによって、幸福より不幸のほうが幸福であるという、一種の詭弁のような警句(?)が出てくるのです。
 さて、話を地質学に戻しましょう。地質学とは、すべて、ある原因で起こった地質現象の「結果」、つまり終わってしまった現象を見ているのです。ですから、地質学で解き明かすべきものは、普通ではない「異変」の「終わり」の原因なのです。化石は死という不幸を、地層は洪水という天変地異を、火山岩は火山噴火という異常事態を、変成岩は岩石が地下深部にもたらされまた地表に持ち上げられたというダイナミズムを、探ることになります。地質学とは、「異変」を解明する学問といえるかもしれません。言い換えると、地質学的時間という非常に長い時間スケールでは、地表の「日常」は、地質現象としては残りにくく、「異変」しか記録しないものなのです。
 「異変」の例を、化石でみていきましょう。生物の個々の死が、化石となります。その死が集団や種全体の死となると、地質学における刻印も深くなります。その生物集団や種が絶滅する何らかの共通する原因があたったはず、と考えるわけです。また、集団における絶滅の規模が、全生物種の何割にも及ぶような事件だとすると、地球環境に急激な変化が起こったと考えられるわけです。全地球におよぶ原因とは何か、という謎解きに地質学的議論はおよびます。例えば、巨大隕石の衝突(約6500万年前におこった)、海洋の大規模な酸欠状態(約2億7000万年前)、全地球の凍結(約7億年前)などは、地質学的「大異変」として、深く刻印されています。このような超一級の「異変」も、長い地質学的時間スケールでは、一度限りの出来事ではなく、何度も起こっているのです。そして「異変」の規模が大きければ大きいほど、記録の刻印は明瞭となります。
 地質学とは、「異変」という「非日常」を調べる学問ということができます。しかし、近年、「日常」に目をむけ、「日常」のなかのささやかな「異変」を読み取るという試みもなされています。地質学の世界でも層状チャートとよばれる堆積岩のように、深海の「日常」を記録している地層もあります(「地球のささやき」の「3_21 層状チャート」を参照)。層状チャートは地質学においては主要な構成要素ではないですが、「日常」を記録する重要な存在として認識されつつあるのです。
 地質学においては、終焉とは、不幸なる終焉のみが記録されています。しかし、その不幸な「異変」が激しければ激しいほど、地質学的刻印は大きくなるのです。人間が望むのは幸福なる終焉です。でも、幸運な終焉は地質学的には記録にも残らない「日常」なのです。「日常」を記録するには、層状チャートがして見せたように、できるだけ長い日常を繰り広げることによって、他力でありますが、何らかの「異変」の刻印を刻むチャンスを広げることなのです。「異変」の刻印を「日常」的内部に持つこと、これが層状チャートが地質学的記録にとった戦略です。チャートはなにもしません。少しずつ日常を積み重ねていくのみです。


Letter 終わりは突然に/転進

・終わりは突然に・
★「地球のつぶやき」としての、エッセイは、これを最後とします。つまりこれが最終号です。そのために、今回のテーマ「地質学的終焉」を選らびました。日常を重ねることによって、非日常を取り込むという戦略を本誌でもとります。
★現在まで、限定100名ということで、35名の方に、この「地球のささやき」の姉妹篇である「地球のつぶやき」を非公開で発行してきました。もともと、この「地球のつぶやき」は、「地球のささやき」の読者で著者にメールを下さった方に対する私の感謝の気持ちとしてお送りしていたものです。
★でも、本誌の終焉は、「Terra Incognita」というメールマガジンに移行することによって、「刻印」を残します。今回から非公開から公開に変更します。「Terra Incognita」は、「まぐまぐ」の公開のメールマガジンとして、「地球のつぶやき」と同様の発行形態、月刊誌として発行していきます。興味のある方は、以下のサイト
http://www1.cominitei.com/monolog/regist.html
からか、あるいは「まぐまぐ」のサイエンスのコーナーから購読をしてください。★

・転進・
★4月1日付けをもって、私は転職します。それは、さまざまな理由の集積結果であります。非常に個人的、私的ことですが、そんなことを報告することで、この「地球のつぶやき」の最終号の最後とします。少し長いですが、転職にいたる顛末を記した文章を載録します。興味のおありの方は一読を。★

以下「私が転職する理由」の載録(原文のまま)
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私が転職する理由
2001年12月1日 小出良幸 記

 私こと、小出良幸は、2002年3月30日をもって現職から転職する。
 その理由を、文章にして、以下に記す。こんな役にもたたないことを、公開の場に記するのは、明らかに自己満足に由来している。
 でも、もし、この口上を身に染みる人がいれば、大いなる喜びといえる。
 以下、私からの長い長い別離と旅立ちの辞である。

転職に当たって
 私は、2002年3月31日をもって神奈川県立生命の星・地球博物館を退職し、4月1日から札幌学院大学に転職する。
 公務員から私立大学への転職だから、何人かの人から、身分や給料、将来性などの条件を考えて、「本当にそれでいいのか」ということを聞かれた。私は「いい」と答えた。それには、当然、いくつかの理由がある。その理由を、口頭で説明すると長くなるし、多くの人は話しの種に聞く人だけなので、さらりと「私は新天地が好き」といっている。でも、本当に興味がある人には、しっかりと説明しなければならない。その説明が長くなるので、文章にして、「ここに理由を書いてある」と教えようと考えた次第である。
 まず、理由説明の前に、札幌学院大学についてである。
 札幌学院大学は、1946(昭和21)年6月に、札幌文科専門学院(経済科・法科・文科として創立され、1978(昭和53)年4月に、札幌短期大学と札幌商科大学がキャンパス統合(江別市)され、1991(平成3)年4月に今度私が行くことになった社会情報学部(社会情報学科)と経済学部(経済学科)が設置れた。現在、商学部、経済学部、人文学部、法学部、社会情報学部の5つがあり、夜間として商学部第二部が、大学院として法学研究科と大学院臨床心理学研究科がある。社会情報学部は1学年200名定員で、全学で1学年1,190名、総数4,500名程度の学生がいる。
 私は、社会情報学部の地学(全学共通科目、昔で言う教養科目)の教員として採用された。身分は教授である。

 次に、本題の私が転職する理由である。
 まず、理由は一つではなく、いくつかある。
理由1. 博物館には10年間勤務するつもりであって、その10年が経過した
理由2. 博物館における研究職としての生き方を示したかった
理由3. 転職の場は、ある限定した研究機関にした
理由4. 自分がやりたいことができる時間をつくりたかった
理由5. 自分と家族に一番いい環境で生活する
の5点である。
 その理由を詳しく述べる。

理由1. 博物館には10年間勤務するつもりであって、その10年が経過した
 実はこれが一番重要な動機である。
 私は、日本学術振興会特別研究員として籍を置いていた岡山大学地球内部研究センターから神奈川県の公務員として転職してきたとき、現在在籍している神奈川県立生命の星・地球博物館はまだなく、自然系博物館開設準備室であった。あったのは、25年前からある、神奈川県立博物館であった。当時の所属は、神奈川県立博物館の研究職だが、兼務辞令として、博物館開設準備室勤務があり、教育庁の準備室に常勤していた。しかし、博物館に机だけはもらい、そこで、時々行っては研究をやっていたが、実質は準備室と自宅で仕事(研究)をしていた。
 新設される博物館は、日本のスミソニアン博物館を目指すとして、研究を充実するのだという構想のものとに進められた。そのため、最新の装置を導入することになっていた。高精度2次イオン質量分析(SHRIMP)と呼ばれる装置で、当時世界に一台しかなかったが、その販売が始まったばかりだった。それが、使える人として私は呼ばれたのである。ただ、その装置が導入されるのは、開館後であるから3年間は、設立のための準備に専念しなければならい。だから、約4年間は、研究を片手間でしなければならない。主は博物館開設のための事務的仕事だった。もちろんそれに専念した。
 神奈川県に来て7年目に、研究の主体や興味が、科学から科学教育へ移っていることに気づき、8年目に人生設計をやりなおしてみた。人生設計では、今までの神奈川県における希望と実際に自分が過ごしてきたこと、そしてこれからの目標や希望を整理してみた。
 そこで、自分の興味が、科学もおこなっていたが、教育と科学の狭間を埋めること、博物館の地質学の新しいあり方を示すことに興味が移っていることが判明し、それを主要な研究と位置付け、10年間の集大成することを目標と定めた。その集大成が、11年目のあたりほぼできそうであるという見通しが立った。
 問題は次の人生の設計である。現在の博物館の環境は、非常に快適で、今後もそれなりの発展をさせられる気もする。しかし、今後10年間を考えたとき、今まで過ごしてきたような、未知のスリリングな人生ではなく、予想のつく人生であるような気がした。
 私にとって、自分の研究者的可能性が、まだ他分野あるいは境界領域、または地質学でも別のアプローチなどにおいて、まだまだあるのではないかと考えた。私の年齢からして、頭の働きそうなのは、あと20年間くらいであろう。だからその20年間を安穏として生きるよりも、その20年間を新天地で生きることを決断した。その新天地で、新たな自分の可能性にチャレンジしたいと考えた。その結果が、今回の転職となったのである。

理由2. 博物館における研究職としての生き方を示したかった
 現在、私の属する博物館の研究者の移動は、定年による移動だけで、ずっとこの博物館にいるという暗黙の了承があるように見える。しかし、研究者は、自分の能力や興味に応じて、転職をすべきだと、私は考えている。それが、日本の研究者の層の活性化に繋がるし、この流動に適応できない研究者は、研究職から去るか、あるいは一つのところに留まる優位性を対外的に常に示しながら、研究を続ける必要が出てくる。それも、やはり、研究の活性化に繋がる。
 どの職場でも一緒だと思うが、給料泥棒のような研究者が多すぎる気がする。「定職」についても、常に研究者の勤務状況、つまり十分研究しているかどうかを評価するシステムが働く必要がある。それは、論文の数でもいいし、あるいは別の評価法が必要ならその評価を独自に開発し、社会的にあるいは学会、専門集団で、評価できるものとして提示すればいいのである。それが、できなければ、その研究者は、研究してないと、対外的には評価される。それは、しいては失業に繋がるというシステムが必要であろう。そのような流動する研究者として生きる、という実例に博物館でなりたいと考えた。
 一般に、研究者としては、学会的に評価される論文を書くことが一番手っ取り早い、実績となると考えられる。そのため、たとえば、博物館から流動する研究者になるために、10年間は業績を作るために、必死で研究し、論文書くことになるはずである。現状の学芸員のような十年一日のような研究生活はできないはずである。
 私はこの11年間に、私自身が第一著者である論文は34篇、うち査読つき論文11篇を書き、著書13冊、うち出版社からの本3冊という実績をつくった。私は、このような実績をつくって流動する研究者を目指した。
 これが博物館の研究者の生き方の見本とはいわないが、後輩もしくは同僚学芸員たちに、僭越ながら、研究者としてのあり方の一つの例を示したいということも、転職の動機の一つである。
 さらに、自分が現在占めているポストを、他の新人研究者に空けることが、上記の理由から、博物館の活性化に繋がるのではないかと考えている。博物館に、私の行為が共感を呼び、後に続く研究者が出ることを望む。

理由3. 転職の場は、ある限定した研究機関にした
 家庭をもっているので、定収入を得る見込みもなく退職して、次の職を探すことはできない。就職先は、研究職である。従って、他の博物館や大学などの研究機関である。そのため、現状で自分の専門や能力、環境などの条件があった公募を探し、応募することである。そのとき、なんでも応募するのではなく、自分の好みにあたところのみに応募することとした。
 その好みとは、研究あるいは自分が自由に使える時間が、十分取れる環境であることである。会議や公務で振り回されない環境である。
 現在、国立大学は改革の真っ最中で、そのために会議が多いと予想される。国立大学、それも地方大学はもっと大変なので、応募はやめる。ただ、学風で好みに合うのは京都大学だけは、例外として(その理由は学風である。学風の由来は「京都帝国大学の挑戦(ISBN4-06-159896-3 C0137)」)、公募に応募したが、駄目だった。
 国立で可能性があるのは、改革の終わった研究機関である。国立極地研究所もその一つであるので、応募したが、駄目だった。
 他の選択肢は、公立(県立、市立)大学、もしくは私立大学となる。一番の理想は私立大学である。私立大学は、学部を問わず、新天地として自分にできそうな分野であれば応募した。情報学部は望むところである。新たな展開が予期でそうでだからである。
 文教大学の情報学部3度応募、大阪工業大学1度、姫路工業大学1度である。
 そして、今回、札幌学院大学社会情報学部の地学の教官に応募し、採用された。教授もしく助教授の公募に30名弱の応募があり、その中から私が採用された。

理由4. 自分がやりたいことができる時間をつくりたかった
 自分がやりたいことは、新たな展開による研究と本を書くことである。そのためには、給料をもらうためのノルマが少なく、自分の時間が今より確保できる環境が欲しかった。
 新たな展開による研究とは、まだ、決めてない。転職後、現在の続きの研究や公務をしながら、置かれた環境とインタラクションしながら、あたらな研究テーマを探していきたい。楽しくてわくわくしている。人生設計のときにも述べたが、新しいことを始めるには、40歳代が最後のチャンスとなると考えている。全く新しいテーマや分野に開拓しながら進むには、好奇心、体力、精力、精神力が必要である。そのためには、若さが必要である。それは、私は40歳代としている。
 50歳になる前には、テーマをきめて、50歳台にはその条件作りを終えて、進んでいたい。幸い、45歳で転進できたので、5年間の間に、新しいテーマを決めてスタートし、条件作りする期間が用意できた。
 私は、修士課程で北海道大学理学部から岡山大学温泉研究所に行ったとき、博士課程で北海道大学理学部に行ったとき、研究生で岡山大学の地球内部研究センターに行ったとき(2年目から学術振興会特別研究員となる)、学術振興会特別研究員から博物館に来たときそうであったように、新しい環境にはいれば、新たなエネルギーが沸いてきて、新しい環境で新しい研究テーマが生まれてきた。今度の新天地でも、そうなること望んでいる。いや、そうする。それが楽しみで、転職したのであるから。
 次にやりたいことは、本を書くことである。その本として、子供向けの地球科学の本、地球科学の普及書、専門書、自然史教育学の本、が現在考えているテーマである。
 子供向けの地球科学の本は、予定では5巻完結のテーマがある。まだ、目次だけではあるが。
 地球科学の普及書は、現在ある「石ころから覗いた地球誌」の続編を書くことである。「石ころから覗いた」3部作として、「石ころから覗いた宇宙誌」「石ころから覗いた生命宇宙誌」があるが、ある程度草稿は書けている。それを、完結したいと考えている。
 教科書であって教科書的でない専門書として、岩石学と同位体地球科学の本を書きたい。それは、吉田武著「オイラーの贈物(IABN4-87585-153-X C3041)」や「虚数の情緒(ISBN4-486-01485-5)」がその手本となるものである。
 そして、現在行っている科学教育の集大成として、自然史教育学の理論と実践書の2冊である。
 このような著作のために、十分の執筆時間が欲しいのである。

理由5. 自分と家族に一番いい環境で生活する
 私は、もともと田舎で生活したいと考えている。当初は、地方都市と漠然と考えていた。しかし、近年のインターネットの発達により、田舎でも最低限の収入、電気、水道、電話という必要条件さえ満たせばよいというようになった。いや、田舎ほどよいと考えるようになっていった。
 私自身にとっても、家内や子供たちの生活、生育環境として、都会より田舎がいいと考えている。だから、公募への応募もそのような条件を満たすところとなる。そして、今度の転職が、現在の私の人生設計では、最後の展開となるかもしれない。この地が、一生を終(つい)の地として、一番いいと思うところでなければならない。
 文教大学に何度も応募したのは、現在の湯河原の住居から通勤可能あるためである。また、それ以外の応募大学も、私の望む環境を満たすところが近くにあったのである。今回の札幌学院大学は、札幌とは言っても江別市で、野幌森林公園の周辺で、自然のあるところでもある。それに、なんといっても私は札幌に十年間すんでいたので、その住みやすさは知っていたのである。札幌あるいは江別は、理想ではないが、ベターな地域である。家族にとっては、私の望む田舎よりベターであろう。そして、何年かの借家住まいをした後、ベストの終の住まいを作ればいいと考えている。

さいごに一言
 以上、私の転職の理由やそれにまつわることを長々と述べてきた。
 ご理解いただけであろうか。理解できようが、できまいが、私が選んだ道である。私が転職した理由であるので、客観的であろうが、独善的であろうが、心のままである。
 批判や意見より、こんな人もいるという温かい目で、私の新天地への船出を見守って欲しい。
 今、私は、あれもやりたいこれもやりたい、という思いでいっぱいである。
 少なくとも私は、どこで難破しようが本望である。
 See you again, anywhere, anytime.