地球のつぶやき
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Essay 02 組織について
Letter 宗教と心とは/私は地質学者として、どんな道を歩んできたのか

 

Essay 02 組織について

専門的な話です。石ころ(専門的には岩石と呼びます)には、大きく分けて3種類のでき方がある。一つは土砂がたまって固まった堆積岩、もう一つはマグマが冷え固まってできた火成岩、最後はある岩石が熱や圧力で別のものとなった変成岩の3種です。
 このうち変成岩は、もともとあった岩石の構成物である鉱物がまったく別のものに変わってしまったものです。したがってそのつくり(専門的には岩石組織という)は、もとの岩石とはまったく別のものとなるはずです。火成岩や堆積岩にはそれぞれ固有の岩石組織を持っています。そのような組織は、変成作用では消されているはずです。しかし、かなりの高温高圧の変成作用でも、変形が少ない時は、もともとの組織が判別できることがあります。
 岩石は、かなりの圧力や熱が加わっても、一度できた組織はなかなか変わらないということです。これは、社会にもあてはまりそうです。いやまさに社会そのものとも言えます。ある目的で結成された組織は、創世期や発展期は非常に有効化機能したり、変革をできたりします。しかし、老朽化したり疲弊した組織では、機能不全や変革への抵抗が起きます。これは別に珍しいことではなく、よくあることです。会社や各種の団体、行政組織、学会、国家などでしょっちゅう見られることです。では、老朽化した組織をどうすれば変革できるのでしょうか。多分、大変でしょう。
 構成員の大部分が変革を望むというのはありえません。そのような組織はすでに改革されているはずです。構成員は自分の地位、職場、死活問題となるはずです。大変な抵抗が起きるでしょう。このようは状況を打開するには、強力なる指導者のもと、強引に変革をしてしまうか、その組織を解体して、新たに作ったほうが、目的にあった組織が簡単にできるのです。そして、改めてその組織に適切な人間かどうかを判断して、旧組織のエキスパートを再度新組織を加えればよいのです。
 このようなことが簡単にできればいいのですが、なかなかできません。しかし、旧組織は問題があるから、新組織ができるのです。もし、新組織に対抗して旧組織ができれば、それはそれで結果としてはよいことかもしれません。両組織が両立していれば、そこで切磋琢磨してよりよいものになるかもしれません。それは、ケースバイケースでしょう。
 変成岩形成時に、あまりにも圧力あるいは温度が高くなりすぎると、岩石は溶けてしまいます。大量にとけると、それは、マグマとなって、より自分にあった所へと移動をし、火成岩となります。大量に溶けず、変成岩の一部が溶けることもあります。溶けた部分は、そのときの温度や圧力に応じた鉱物の組み合わせによる岩石組織を形成します。それは、火成岩の組織となります。回りの変成岩と比べてやはり違って見えます。これは、外部の圧力や熱によって、マグマになって一旦圧力と熱を消費したからです。
 人間社会の組織の自然の岩石に非常なる類似性を見出すのは「深読み」でしょうか。簡単には組織は壊せません。逆に言えば、だから組織を作るのです。参加者にとって組織が簡単に変化しないから、頼れるのであって、しょっちゅう潰れているような組織には信頼が置けないのです。しかし、つぶすべきときの見極めが大切です。時代や社会が必要としないのに、その組織に固執して、転進をできない人間は、その古い組織とともに消滅する運命にあるのです。そんな人間にならないために、時代や社会の潮流をよく読み、自分の処し方を間違わないことでしょう。べつに要領よく生きることだけが人生ではないのですが、保身を考えるのであれば、よりよく転進をすることも、よりよく生きる処世術ではないでしょうか。


Letter 宗教と心とは/私は地質学者として、どんな道を歩んできたのか

・あなたにとって、宗教と心とは・
 Moさんに宗教について聞かれたことがあります。その答えが以下の内容です。
 あなたの宗教ときかれると、うちの先祖代々の宗教は浄土宗です、と答えます。
 神様はいても良いかもしれませんが、私は、宗教はあまり好きではありません。私は不可知論者です。
 かつて、いろいろ濫読しいるときに、聖書や般若真教、禅の本、各種の神話、古事記、論語などなど、いろいろの宗教書に目を通しました。それはそれで、含蓄もあり面白さもありました。しかし、信じるに足るものでないと確信しました。単に読み物としては面白いと思います。旧約聖書など、SFとして読めばすごいものではないでしょうか。
 そして、たどり着いたのが、不可知論です。そして、科学的精神です。
 でも、私は心の世界を否定するのではありません。いや、私がこの半年間、いや思い越せばもっと長く一番興味を持って時間を割いてきたのは心の問題でした。この心の問題に関して、友人に送った追悼文の中で語っています。長くなりますが、以下で原文のまま、紹介します。
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Sa様
 この度は、誠にご愁傷様です。謹んでお悔やみ申し上げます。
 多分、いろいろな人から励ましのメールが行っていると思います。意気を落とさず頑張ってください。
 私は、お悔やみに変えて、自分の経験を話しましょう。
 私の父は、3年前の5月に亡くなりました。1周忌、3周忌が立て続けにあったような気がします。でも、それも1年前。実家は京都の田舎なので、田舎風の昔ながらのやり方で、葬式をしました。初七日まで、毎日人がきて、何らかの行事がありました。毎晩、喪主として立ち会わなければいけませんでした。
 それに、Sa君と同じように、仕事が気になってました。当時、横浜国立大学で非常勤の授業を受け持っていたので、たった1講のために京都-横浜間を新幹線で日帰りをしました。当然、博物館には顔を出しませんでした。でもこんな忙しさも葬式につきもののようで、気を紛らわすという効用もあったようです。
 自分は非常に理性的で、感情に負けない理性を持っていると思っていました。それまで、涙は出なかったのですが、しかし、父の棺を閉める時、焼却炉の前で最後の別れの時、突然自分でもわからないほど、涙が出て止まらなくなりました。
 そのとき、心の隅に追いやられていた理性が、最後の最後に思ったことです。「やっぱり自分にも、どうしようもない感情があったのだ」ということです。それがもしかすると、理性に偏りすぎた私の生き方に対して、最後に父が教えてくれたことかもしれません。
 それはあまりに大きな教えでした。私は、すべてを合理性や理性によって考えることが正しいと考えていました。そして、自分は今までそうしてきたし、他の人も自分と同じように、頑張ったり、望んだりしたら合理的な考え方になれるものだと考えていました。でも、そんな理性的である自分のような人間にもおさえ切れない感情があること、そして当然他人にも同じような感情があることを身をもって知ったです。
 自分にも他人にも、感情を認めることにより、今まで簡単に解決できると考えていたことに、解決不可能な部分があることが、身につまされて教えられたのです。理屈では済まない部分を認知するということです。その土俵でも、ものごとを考えなければならないということです。
 私の興味はそちらに急速に向かっていきました。その内容は、Sa君もご存知の最近の私の世界です。でも、これは、「いくらやっても解決できない」ということが、私の現段階での答です。感情の世界は認めて、やはり合理性の世界を目指すことです。
 つまり、全面解決は求めない。少しでも多くの人の役に立てばと考えるようになりました。
 あと1、2年で、父に宿題も終わりにしようと考えています。大変、長い時間のかかる宿題でした。でも、自分の世界を大きく広げる結果となりました。父に感謝します。
 以上、私の経験と、その後の私の考え方の変化でした。参考になれば幸いです。
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以上、Sa君への手紙でした。


・私は地質学者として、どんな道を歩んできたのか・
 「地球のつぶやき No. 1」のような経緯で、私は地質学を志しました。とにかく、極普通の大学生として、基礎的な勉強をして、野外調査を調査をしていくうちに、地質学が面白くなってきました。卒論では、まだまだ知りたいことが充分知ることができてないと感じていました。そこで、大学院に進学することにしました。
 これ以降は、Umさんへの手紙の後編です。
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 北海道大学の大学院は、募集定員7名に対し、同級生が7人ほど受けたのですが、受かったのは1名だけでした。その受かった人は修士課程終了後、就職しました。北海道大学の大学院がだめだったので、Ni先生の紹介で、岡山大学の大学院を受けることにしました。その理由は、岡山大学の温泉研究所(しかし所在地は鳥取県東伯郡三朝町にある)には、私が卒論でやったの似たテーマをやっているTa先生がいるので、そこなら卒論の延長の研究ができるし、設備も非常によいところなので充分な研究ができところでした。ところで、同級生で他の大学の大学院にいたのは、広島大学に1名(彼は研究者になりませんでした)、東北大学に1名(1年先輩でしたが留年で同級生となった。彼は今大学の教員です)でした。ですから、結局、同級生25人中、研究者として残ったのは、25番目の学生の私だけだったのです。
 研究所での研究生活の話しは、また、長くなるので、省きます。実は、ここで、第1度目の「研究者魂」(研究する心、真摯な心のようなもの)を身に付けました。そして、指導教官であるTa先生とは家族ぐるみの付き合いとなっています。ただ、研究テーマは、日高から中国地方の岩石に変更になりました。
 そして、大切なことは、研究者魂とそれを最優先する生活を送ることです。そのためには、自分を自由に転進させていいし、自分のやりたいことを実現するために、自分で環境は選択していくののだということを学びました。そして、北海道大学を出ることによって、北海道大学を客観的に見ることができました。このような心を身に付けることができたことが、他の大学へ転出した一番の成果でした。
 その後も研究が続けたいので、博士過程に進むことにしました。当時、岡山大学には修士課程しかなかったので、博士課程は別の大学に行かなければなりませんでした。どこの大学でもよかったのですが、一身上の理由(これも話すと長くなるので省略)があって、札幌に行くことにしました。博士論文では、中国地方の岩石の研究をより範囲を広げておこないました。
 博士課程終了後、職が見つからず、北海道大学の研究生をしながら、1年間、地質コンサルタントの委託として過ごしました。その後、このままではいけないと思い、前にいた岡山大学(この時は地球内部研究センターという組織になっていた)に新しく来たNaさんという助手と、新しいシステムを開発しながら、世界一級の研究しようと意気投合しました。私は、札幌でのすべてを捨てて、鳥取県三朝町行きました。そこが、地球内部研究センターというところです。そこで、1年間、研究生として過ごしました。2月で委託はやめて、3月に札幌で、1ヶ月間、地質調査のアルバイトをして半年分の生活費を稼ぎ、8月にも同じように1ヶ月札幌で働いてあとの半年分の生活費を稼ぎました。2年目からは、学術振興会の特別研究員として、研究費と給料をもらって研究生活をしました。
 センターでの研究者生活は、非常に大変でしたが、一級の研究者になるために必要な研究者魂を学びました。その魂とは、一級の目標を設定し、それを目指して適切な努力をすれば、2、3年で1.5流程度にはたどりつけることです。それなりの成果を得られるという実感です。そこには、ゼロからスタートしても、お金も、権威もがなくても、研究者自身の努力とアイディアがあれば、到達できるということです。ここには、そのような魂を持った、それこそ世界一級の研究者がたくさんいたのです。その一員をめざしてがんばったのです。
 センターで行ったことは、世界各地では極当たり前にあったのですが、地球科学の研究室で、極微量のPb(鉛)の同位体測定を精度よく分析できる研究室は、日本にはありませんでした。そこで、精度では世界一級のレベルのPb分析システムを作ることが目標となりました。最初は、部屋の掃除から始めました。そしてきれいな水づくり、きれないな薬品づくりと進み、最終的には世界一級のレベルにまで達していました。それが3年間でできたのです。すごい自身となりました。その論文が日本ある学会では認められず、他の学会の雑誌には掲載されました。そこで、日本の学界の古い体質や努力の足りなを感じました。まあ、これは一部の学会ですが。
 2年間の特別研究生の期間が終わるとき、神奈川県立博物館で、新しい博物館をつくり、世界で2台目となる分析装置(SHRIMPという2次イオン質量分析計と呼ばれる装置)を導入する予定であるので、その操作ができ、研究もできる人ということで、呼ばれて、博物館に来ました。当初から、10年間のつもりで博物館に入りましたが、早10年は過ぎてしまいました。そして、その夢の器械は、バブルの崩壊と共に、夢と消えてしまいました。
 でも、博物館で、私は、科学の研究を続けながら、科学教育というものに目覚め、それも研究として取り組むことにしました。今では、教育が主で、科学が従の状態ですが、私とは満足しています。そして、このようなメールマガジンやホームページを始めるようにあったのも、科学教育という気持ちがあったからなのです。
 でも振り返ると、20歳で地質学を始め、25年の月日が流れました。そして、さまざまな経験をしながら今の自分に至っています。人生とは不思議なものです。そして、面白いです。次にはどんな展開があるのでしょうか。
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以上です。