地球のつぶやき
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Essay■ 238 利と実利の間にて
Letter ■ 国民の審判・違いを感じる


(2021.11.01)
 利とは、いつかどこかで益があるかもしれないものです。実利とは、今すぐ、直接的な益があることです。日常生活では、まずは実利を求めてしまいます。利も重要であるとは、理解しているはずなのですが・・・。


Essay■ 238 利と実利の間にて

 自然を対象に研究するのが自然科学です。より基本的な物質やエネルギー、運動、変化、反応などの原理を考えていくのが、化学と物理学です。もっと基本的な原理を考えていくのが、数学や論理学などです。それらの方法論を適用して、地球自体や地層、岩石、鉱物、化石などを対象にするが地質学です。生き物を対象にするのが生物学です。人そのものを対象にするのが人文科学で、人を集合してい考えていくのが社会科学でしょうか。それぞれは、いろいろに細分され、単純に区分できない学際的な分野もあります。
 人文科学は、多くの人が興味もあり、理解できます。社会に関してもそれなり関心もあります。人も社会も関係が複雑で、因果関係もいろいろな原理、法則、規則も示されています。それらの規則が完全に正しいかどうか、本当に検証されるのかなどは、なかなか評価が難しいようですが、重要性は理解されています。それぞれの学問分野には、それぞれの特徴があります。
 学問的な成果を、実際の場面で運用するのは、自然科学では科学技術へと応用を考えていけば「実利」が生まれていきます。しかし、すべての科学的成果が実用性のある「実利」になるとは限りません。では、「実利」のない学問は不要でしょうか。
 文学、音楽、絵画などは、人の営みとは直結しませんが、生活や人生に潤いを与えるような「利」があります。人に関する学問では、現象の裏にある規則性、人の心の奥にある機微、根本的なことに関する深い思索など、「実利」はないですが、人の好奇心を満たし、悩みなど解決してくれるという「利」があります。社会科学でも似たような「利」もあるはずです。
 自然科学や純粋な学問領域でも、人類の基礎的な知的資産として「利」があるはずです。それは理解されているはずです。ですから、その成果を生み出すために努力している人たちを理解し、その活動を見守るべきではないでしょうか。同時代を生きる人は、彼ら彼女らの努力や成果を尊重し、可能な範囲での助力や支援をしていくべきでしょう。少なくとも、それを妨げるようなことはすべきではないでしょう。
 大きな装置や莫大な予算を使って研究する人に向かって、その結果はどのように利用できますか、どんな何に役立ちますかと、多くの人、特にメディアが「実利」を聞きます。税金を使ったのだから、当然国民に「実利」を還元しなければならない、という論調での質問です。
 一方、研究者も、多くの税金を使っている研究が、基礎学問であるときは、社会への「実利」の還元に直結しないので、「利」を返答するのですが、どうも力がこもっていきません。そこにメディアは、暗黙にそのような研究に予算を使うのはどうなのか、生活に直結するような「実利」に、もっと予算を使って欲しい、と思えるような質問をしていくのではないでしょうか。
 同じような質問を、例えば芥川賞や直木賞を受賞した作家に、世界的に著名な画家に、その作品は人の生活や社会にどのように役立ちますか、などという質問はしないでしょう。ノーベル賞をとった人の業績は、難しくても「利」として理解しようとしていきます。
 社会学者の多くのコメントを、メディアは流しています。学識経験者の発言の「利」を理解しているため、報道しているのでしょう。その影響や結果を、メディアはあまり評価をしませんが・・・。
 このような事態は、科学、特に自然科学への理解が足りないせいかもしれません。スノーのいう「二つの科学」の乖離のためでしょう。いわゆる理系と文系という区分があるためでしょうか。文系の人は、理系の内容が理解できない、しようとしない。逆に、理系の人は、文系の内容を知らない。そして、両者の間には、大きな溝があるということです。このような乖離は、ある分野の人は、別の分野の重要性を理解できず、「実利」のみで判断してしまうことになりかねません。
 理系や文系の世界で長く暮らすと、理系の人も文系の考え方になります。文系の方でも理系の考え方になるはずです。学び、親しんでいけば、その考え方ができるはずです。ただし、他分野のことを教養して身につける余裕はなさそうです。ですから、理解が深まらないのは、致し方ないのかもしれません。
 でも、芸術をすべての人が許容しているのは、その「利」を理解しているからでしょう。同様に知らない分野であっても、「利」を理解しよう、報道しようという姿勢が重要なのでしょう。しかしメディアの人も、「実利」を中心に長く報道し、その「実利」の中で長く過ごしたり、「実利」中心の見方になるのではないでしょうか。「実利」ばかりを読まされると、人々も「実利」で判断をしていくのでしょう。政治家も科学の軽視、無理解は、「実利」優先に頭が向いていることの現れかもしれません。
 「実利」を求めすぎるのは、教養以前の姿勢の問題ではないでしょうか。実社会では、「実利」が重要なのは言を待ちません。現在のような不景気な社会では、「実利」が重要なキーワードになるでしょう。「実利」がえられれば、それがどのような経過をたどっていいのかもしれません。しかし、「実利」の裏にあるものを見過ごすのは問題です。「実利」の裏に、不誠実なもの、非合法なものがあれば批判されるべきでしょう。それは人の権力や肩書、地位に関係なく批判されるべきでしょう。これも、教養以前のその道の専門家、職業人としての任務でしょう。
 強いものには腰が引けて、弱いものには不躾な、強行な態度になるのは、明らかにアンフェアではないでしょうか。政治家の公約や発言は、社会に「実害」を与えています。強者であっても、そのウソや間違いをもっと徹底的に追求しなければならないはずです。発言力のある立場の人には、もう少し頑張っていただきたいものです。市民も、「実利」ばかりを見ずに、「利」の重要性も理解していくべきでしょうね。


Letter■ 国民の審判・違いを感じる 

・国民の審判・
10/31に国政選挙が実施されました。
このエッセイは、10月下旬に書いています。
投票日には、調査中ですので、期日前投票をしました。
結果がわからない状態で、書いて配信しています。
本文では一部、政治批判、
メディア批判めいた発言となっています。
これは多くの人が、感じていることのはずです。
もしかすると、メディア内部にいる人も
同じことを感じている人もいることでしょう。
現状をなんとかしなければなりません。
これも多くの人が感じているはずです。
これに対する返答が、選挙のはずです。
配信は選挙前ですので、国民の審判は不明です。

・違いを感じる・
10/29から11/1まで調査に出ます。
この調査は、今年最後のもので、道南へいきます。
いくつかの地域を巡っていきます。
何度もいっているところも多いです。
露頭も似たところをみることになります。
同じ露頭であっても、
見る側の気持ちが変わると
違ってみえます。
その違いを感じることが
私の野外調査では重要だと考えています。


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