地球のつぶやき
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Essay■ 223 倦ずおこたらず:うひ山ぶみ
Letter ■ 学び続けること・大学生の発症


(2020.08.01)
 大学の今年度の授業は、ほとんどがリモート講義になりました。先生の工夫でいろいろな形式の講義がおこなわれています。その結果、大学の学びの形が変わってきました。学びの本質は、どうなっていくのでしょうか。


Essay■ 223 倦ずおこたらず:うひ山ぶみ

 新型コロナウイルスの第二波が起こっています。いくつかの大学や大学生でも、感染が発生しています。でも大学では、淡々とオンライン講義、遠隔授業で学びが継続されています。オンラインによる学びは、インターネットを介して、大学で指定されたサイトに接続して、そこで履修している各授業を受けます。大学ごとに指定されたいくつかの遠隔授業の方式に従って、講義がおこなわれています。不慣れの先生や、準備が十分整っていない状態でも見切り発車でもありました。
 オンライン講義には、リアルタイムでのリモート対面講義(ライブ講義)、さまざまな媒体をサーバーで公開して学生が自身の都合で講義を受講するオンデマンド型授業(教材提供型授業)などがあります。リモートでの対面講義でも、我が大学ではアプリケーションとして3種(Teams、Big Blue Button、Zoom)ほどが使われています。オンデマンド講義での媒体も、書面(マイクロソフトのワードの文章など)で示したり、プレゼンテーション資料(パワーポイントの書類、音声付き書類など)を示したり、実際の授業を撮影し、その動画を学生がダンロードして見る(学生とサーバーに負担がかかるので推奨されていません)などがあります。先生は講義の内容、あるいは自身のスキルやシステムに応じて、それらを組み合わせて講義を作り直して進めています。他にもいろいろな方法があるでしょうが、大学のサーバーの能力や手段の選択によっても授業の実施の仕方はいろいろありそうです。
 これまで、通信教育や予備校などで、このような方法が使われていました。でも、それなりの準備や設備を整えて実施にはいったはずです。しかし、今回は、多くの大学や専門学校で、待ったなし、準備期間なしにスタートすることになりました。教員側には、戸惑いがあり、日々、講義の準備に消耗、疲弊していきます。
 講義資料を公開して課題を提示し、学生が課題を提出することで進めていくタイプのもの、ライブでの対面講義(3種類のアプリケーションを使用)のタイプのものを、講義のタイプに合わせて使っています。大学の会議や打ち合わせも、リモート会議となっています。
 先日、リモート授業でトラブルがありました。その講義は大人数の講義なので、講義資料を公開して、学生はそれを読んで、与えられた課題を調べてレポートにして提出するという講義にしています。公開した授業資料が間違ったものをアップロードしてしまいました。すると複数の学生が、すぐにミスに反応しました。私のミスですが、実際の授業なら、その資料をプリンターから打ち出した時、配布用にプリントを印刷する時、学生に配布する時など、ミスに気づくチャンスは何度もあり、間違った資料の配布には、どこから私自身が気づけます。しかし、リモート講義では、そのようなチェックが経ることなく、資料をリモートのサイトに公開してしました。複数の学生がすぐにミスに気づき、反応したのは、当たり前なのですが、見えない学生の存在を感じることができました。今後、気をつけなければと猛省しました。
 学生もそれぞれの目的、目標をもって、大学で学んでいるはずです。遠隔での学び方は、誰も望んでいるわけでも、吟味して選ばれた形式でもありません。新型コロナウイルスの流行によって、仕方なし、待ったなしに取られた手段です。講義の形態も、現状の大学がもっているリソースと能力に合わせておこなわれています。学生も教員も、このような遠隔授業の形式を選ぶことも、準備することもなくはじまりました。
 現在、私も学びを継続しています。例えば、遠隔授業の方法や使い方など、まだまだ不慣れで、未だに「こんなことができるのか」という驚きもあります。しかし、記憶力の低下、効率、集中力の衰えは、如何ともしようはありません。興味、好奇心があるかぎり、学び続けていきたいと、日々励んでいます。
 学ぶ形式、方法は、人それぞれで、向き不向きがあります。また、学びの効率もさまざまでしょう。大学の講義も終盤を迎えて、「学び」について考えました。
 学びについて、本居宣長が「うひ山ぶみ」で大切なことを述べています。「うひ山ぶみ」とは、宣長が門人に対する入門書として著したものです。宣長の代表的な著作である「古事記伝」は、「古事記伝」は1764年(明和元年)に起稿して1798年(寛政10年)に脱稿するまで、書き続けられました。自身の学びの大きな目標を成就したあと、書かれた学びのための書です。
 「うひ山ぶみ」の最初に、「詮(セン)ずるところ学問は、ただ年月長く倦(ウマ)ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要」と述べています。学びの姿勢をいっています。多分、自身が「古事記伝」の執筆に35年間を要し、その間、学び続けてきた経験からいえることでしょう。
 加えて「学びやうは、いかやうにてもよかるべく」としています。方法は問わない、ただ「止(ヤム)ることなかれ」といっています。同感です。現在の学生たちも、学ぶことを止めてはいません。どんな形式、様式の学びであろうと、学び続けることが重要です。私も学びを止めないように、日々心がけたいと思っています。
 学びの成果は、才能のある人、ない人など、人の能力を問いません。自分には才能や能力がないと思って、諦めた時点で、その人の学びは終わり、成果も止まってしまいます。「不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有ル物也」ということです。学べば、必ずや「功」が得られるのです。
 そして、「晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり」ともいっています。宣長自身、35年間継続して「古事記伝」の執筆続け、68歳になって完成しています。当時の68歳はかなりの高齢でしょう。宣長はそれでも、完成を目指して学びを続けていました。重みのある言葉です。
 さらに「暇(イトマ)のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也」ともいいます。目的をもって学べは、時間がなくても、それなりの成果が挙げられはずです。忙しさを口実にして、学びを止めることで「功」が挙げられなくなります。自分が、どんな状況にあって、学びたい時が学べる時、身につく時です。自分の置かれている条件、環境、状況などに阻害されることなく、才能や能力などに考え悩むことなく、学んでいくことです。
 皆さん、形や場所、自身の状況や能力などを問うことなく学んでください。親の収入や、自身の境遇などが、世間では格差が問題にされています。学生の皆さん、そのような外力や外圧、世論で、学びが止まってしまうことこそが、一番の問題です。自身に必要と考えられる学び、自分が興味をもっている学びは、「とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし」です。


Letter■ 学び続けること・大学生の発症 

・学び続けること・
前期の遠隔授業も終盤になりました。
成績評価も、通常とは異なっていきいます。
出席という概念もどう適用するかが
難しい講義もあります。
また、サーバー上に、学生のアクセス記録が
どのような形で残っているのか。
学生の学びの記録をどう評価に反映するのか。
よくわからないこともまだまだあります。
すべてがはじめてのことなので、
戸惑いながら、試行錯誤しています。
これも新しい学びでしょう。
「とてもかくても、つとめだにすれば、
出来るものと心得べし」

・大学生の発症・
いくつかの大学で、発病者が続いています。
検査をすれば、大学生には
無症状の感染者もいるような気がします。
生活のための復活してきた
飲食で働いている大学生も多くいます。
彼らも感染の危険性を考えながらも
生活のために働いています。
それまで、アルバイトがストップして、
苦しい生活を強いられていた学生にとっては、
背に腹は変えられない状況でしょう。
治療薬やワクチンができるしか
解決策がありません。
一日も早い開発を願うしかありませんね。


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