地球のつぶやき
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Essay■ 222 生命は概念か科学的現象か
Letter ■ シュレーディンガー・はや7月


(2060.07.01)
 生物と生命についです。生命の意味するところを、深く考えることは少ないと思います。今回は生命について考えていきます。少々ややこしい話になりますが、読んでいただければと思います。


Essay■ 222 生命は概念か科学的現象か

 前回はウイルスについて考えたのですが、ウイルスを考えるとき、生物が満たすべき必要条件として、代謝、個体、複製、進化の4つのキーワードで示しました。これらの条件は、多くの生物が満たしていますが、ウイルスは代謝の機能を持っていないので、生物の定義からはずれるので、生物と無生物の間に位置するような存在でした。
 生物がもっているべき必要条件とは、それさえ満たしていれば生物といえることかいうと十分ではありません。なぜなら、生物ならばこれら4つの条件を満たしていなければならないという、帰納的な考えて抽象された概念を集約したものです。これらの条件を満たしていたとしても、生物とは限りません。それが必要条件の限界、帰納法的限界でもあります。
 例えば、この4つの必要条件では、生と死の境界が曖昧になっています。死ねば生物ではなくなるはずですが、その境界をこの条件では定めていません。ではその条件を加える必要があります。では、生の側である「生きている」というとはどのようなものでしょうか。
 「生きている」を「生命」という視点で捉えることができます。これが、今回のテーマです。
 岩波生物学辞典では、「生物」の定義は、「生命現象を営むもの」としています。生物学辞典でも、生物における「生命現象」の重要性を指摘しているので、この検討方向はよさそうです。ところが、同じ生物学辞典に、「生命」の項では「生物の本質的属性として抽象されるもの」となっています。なるほど、生命の定義を考えると、生物の属性のなかもで、すべての生物が持っている(抽象される)本質的なものが「生命」だとしています。
 しかし、よく考えてみると、なんだかよくわからない定義になっています。それは、トートロジーになっているからでしょう。生物は生命という用語を用いて、生命は生物という用語を用いて定義しています。トートロジーとして、同語反覆の構造を含んでいます。「ただし生命は生物の本質的属性と定義されるので、両者の関係はトートロジーとなり、この問題は古くからの論議がある。」と生物学辞典にもトートロジーであることが記されています。わかっていても、あえてそう記述しているのは、生命や生物の定義が難しいことの現れで、苦肉の策でもあるのでしょう。
 定義がはっきりしなくても、「生きているもの」と「生きていないもの」の境界、つまり生と死の境界が、なんとなくわかるような気がします。例えば、ペットの犬や猫などが死ぬとき、なんとなくその瞬間がわかります。道端に動かない鳥がいたら、死んでいるように見えます。「なんとなく、死んでいる」と感じるのは、同じ生物同士、生命を宿しているもの同士、相通じる「なにか」があるためでしょう。それは生命を有しているもの同士が、何かを共感しているのかもしれません。
 しかし、植物や地衣類など、私達とは、生き方が大きく異なっている存在の生死がわかるでしょうか。木の枝の枯れた部分があれば、そこは死んでいるとわかります。しかし、ある木や苔で、今、枯れた部分や時期を指摘できるでしょうか。わからないと思います。
 生きているもの同士の共感は、生き方が似ているもの同士でおこるものであって、異なるものへは共感が生じないようです。となれば、その共感は、生物としての類似性への共感であって、生死への共感ではないのかしれません。
 さらに問題は、その共感を定義し、客観的に示すことができない点です。これは、生命の定義ができないという、振り出しに戻ります。もっとも自身に身近な「生きている」ということの定義ができないのです。
 さて、ここまで述べてきた生命に関する議論は、実は哲学における大問題でもありました。アリストテレス以来、「生命とは何か」を解き明かすために、多くの哲学者がこの問題に挑んできました。
 例えば、ドイツの哲学者ヘーゲルは、生命とは「この物質は存在する物ではなく、普遍的なものとしての存在、あるいは概念というあり方をしている存在である」としています。つまり、生命とは概念であり、概念であるから私たちは生命を認識できるのだ、といっているわけです。逆説的にみると、概念の認識であって、生命は見えるものではなく、科学的検証が及ばないものだともみなせます。
 自然科学の進歩によって、いくつかの状況変化がありました。ひとは生命が神がつくったものではないということを、ダーウィンが進化論の導入から推定されてきました。また、20世紀には科学の発展により、生物に関する微細の組織の観察、生物や細胞内の各種の化学組成の分析やその働きの理解で、生命現象を科学的に検証する手段が生まれました。その結果、情報が膨大に蓄積されてきました。
 医学から科学哲学へと進んだフランスのカンギレムは、1966年の講演「概念と生命」で、「概念はわたしたちが生命に近づくことを可能にすることができるのだろうか、あるいはそれはどのようにしてなのだろうか。ここで問われているのは概念の本性と価値であり、生命の本性と意味である」という問いを発しています。その答え、あるいは探求のための方法論として、シュレーディンガーの仕事があります。
 量子力学を作り上げた中心の物理学者でもあったシュレーディンガーは、1943年には、「生命とは何か」で、「今日の物理学と化学とが、このような事象を説明する力を明らかに持っていないからといって、これらの科学がそれを説明できないのではないか、と考えてはならない」と述べています。実際に彼は物理学者でありながら、生命の謎に挑んでいきました。翌年には、「生命とは何か 物理的に見た生細胞」を著して、分子生物学で生物現象を追求できる可能性を説きました。
 シュレーディンガーは、生命現象は、無秩序から秩序、さらにはその秩序を維持する仕組みあることを指摘しています。生命現象は、エントロピー増大の法則から逸脱しています。そのため、生物はまわりから「負エントロピー(ネゲントロピーと呼んでいます)」を摂取することで、エントロピーの増大を抑えていると説明しました。現在では、物質やエネルギーとしての負エントロピーの実在は否定されていますが、この考えは重要です。生命現象を科学的客観性を導入しようとした試みでもあります。
 さて、現在生物の詳細に関する研究は生物学の重要なテーマですが、単純に「生きている」あるいは「生命」に対する取り組みは、生物学だけでは解明できない、大きなテーマなのでしょう。そして、あまりに曖昧な概念でもあります。しかし、生物学の進歩から、生物の必要条件である代謝、個体、複製、進化の4つの実態が解明されてきました。生物の仕組みを解明から生命の外堀を埋めていく努力、さらなる概念の帰納を、怠ってはならないでしょう。


Letter■ シュレーディンガー・はや7月 

・シュレーディンガー・
このエッセイではシュレーディンガーとカタカナしましたが
私はこれまでシュレディンガーと発音していました。
調べるとシュレディンガーの記述しているものも見かけます。
名前としては、ドイツ語で、
Schro(o ウムラウト oe とも表記)dingersと表記されています。
これは、以前大学でドイツ語を習ったとき、
oウムラウトは「エ」と発音するように覚えました。
そのため、シュレディンガーと発音し、
他の文献もそう書いているものがありました。
ところが、いろいろ見ていると、現在では、
シュレーディンガーと表記するようになっているようです。
このような外国語の発音、表記にも時代変化があるようですね。

・はや7月・
はや7月です。
年度末から新年度にかけて、
大学のリモートによるゼミナールや講義、
会議もリモートになっています。
初めてのことに追われていうちに、気づいたら7月です。
北海道は6月上旬くらいまでは
夏めいてきていたのですが
6月中旬からは天候不順で寒い日が続いたので
夏の気分がすっかり抜けてしまいました。
昨年冬から異常気象と新型コロナウイルスへと
異変に振る舞わされていますね。


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