地球のつぶやき
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Essay■ 213 森鴎外とナウマンの論争
Letter ■ 安野光雅・季節は秋へ


(2019.10.01)
 津和野は小さな谷間の町です。古い町並みはきれいに整備されています。地質調査の途上、豪雨だったので、津和野の博物館を見学しました。その時、鴎外とナウマンという地質学者に、接点があることを知りました。


Essay■ 213 森鴎外とナウマンの論争

 8月下旬に山陰東部を調査しました。津和野で調査したい露頭がありました。九州北部に洪水を起こした前線が、島根西部にも伸びており、激しい雨が降っていました。豪雨で野外調査はできず、雨でも見学できる観光施設へ行くことにしました。森鴎外博物館があったので、見学することにしました。博物館の見学者は私一人でした。時間があったのでのんびりと見学することができました。
 そこで思わぬものを見つけてしまい、驚きました。森鴎外とナウマンが論争をしていたという記述でした。その様子を福元圭太(2004)「国家と個人のはざまで:一「鴎外・ナウマン論争」をてがかりに一」という論文を参考に紹介していきます。
 森鴎外(1862-1922)は、文学者として有名です。しかし、本業は軍医で、軍人としても明治政府に奉職していたこともよく知られています。鴎外は、津和野に生まれ、父とともに弱冠10歳で上京しました。親戚の西周宅に寄宿しながら、ドイツ語を学び、13歳のとき年齢を2歳ごまかし東大医学部の予科、そして15歳で東大医学部の本科に入学しました。4年で卒業したとき弱冠19歳6ヶ月の若さでした。秀才だったようです。卒業後、陸軍省に入り陸軍病院に勤務しました。その時、ドイツの陸軍衛生制度を調査して、政府から陸軍の衛生制度調査と軍陣衛生学の研究のために、ドイツ留学を命じられました。その時まだ22歳でした。
 ドイツ語を学んでいたのですが、ドイツに入った時、ドイツ語が十分理解できていたそうです。1884年(明治17年)10月から1888年(明治21年)9月まで、4年間にドイツに留学していましたが、ライプチッヒ(1年)、ドレスデン(5ヶ月)、ミュンヘン(1年1ヶ月)、ベルリン(5ヶ月)と、ドイツの国内を移動しながら、何人かの師について学んできいきました。26歳で帰国しています。
 一方、ナウマン(1854-1927)は、ドイツで地質学を学び、1875年(明治8年)、20歳で来日し、10年間、日本の地質学に貢献し、地質調査をしました。東大の地質学教室の初代教授、地質調査所の設立、調査責任者などに就き、帰国後も、1887年には日本の地質図を作成したり、「日本列島の構造と起源について(Über den Bau und die Entstehung japanischen Inseln)」の出版し、フォッサ・マグナ説を提案したりして、日本の地質学の研究を進めました。日本の地質の基礎を築きました。後に関東大震災で東大図書館が消失したとき、自分の蔵書を寄贈しています。
 鴎外はドレスデンに1885年10月11日から1886年3月7日まで滞在していましたが、移動する前日の6日に、ドレスデン東亜博物学・民俗学協会の年次講演会に出席しました。その時、ナウマンと顔を合わせています。その邂逅が、鴎外とナウマンの論争に発展していきます。
 ナウマンは、発展途上の日本で、10年間の仕事を終え帰国してすぐの頃の講演でした。大仕事を終えて意気揚々の頃で、自身が心血を注いで貢献してきた国への親心もあったと思います。ただしナウマンは血の気も多かったようで、来日中の1882年に、部下が妻と浮気したとして白昼に乱闘をし、罰金を払っています、
 一方、鴎外はナウマンより8歳年下でした。ライプツィヒで過ごした後、2つ目の都市としてドレスデンで5か月ほど生活した最後の日でした。留学から1年半がたっているので、ドイツの生活にも馴れ、自己主張もできるようになってきたのでしょう。日本陸軍からの大きな期待、日本の将来への大きな抱負をもっていたのでしょう。
 ナウマンは、講演会で日本を批判するような発表をおこなっています。批判の内容は、日本の開化は自発的な行為ではなく、外国の圧力によるというものというものだったそうです。ナウマンは講演後も、雑談で日本を批判するような冗談をいくつもいっていたそうです。鴎外はナウマンのこのような発言に対して、その場で反論の演説したと「独逸日記」に書いています。
 社交的な場だったので、その場は論争は収まったようですが、論争は舞台をミュンヘンの新聞「Allgemeine Zeitung」に移し、再開されました。まだまだ小国日本に関する論争が、大新聞での取り上げられ、国民に知らせるというジャーナリズム、そして論争を受けれたドイツの知識人の度量の広さには、感服します。
 小堀桂一郎「若き日の森鴎外」によると、鴎外とナウマンの論争の論点は、日本人の起源およびアイヌ人の待遇、衣食生活の粗末さ、健康状態、風俗習慣、油絵技法の日本画への影響、仏教と伝説、旧態の近代化運動の是非、日本の将来の8つだったそうです。中でも、「日本の近代化運動の是非」と「日本の将来」が大きな争点となっていたようです。
 ナウマンの日本批判は、外圧によって開国した日本が、西洋文明を安易に表層的に受け入れている点、伝統文化を日本人自身が否定している点でした。鴎外は、西洋文明の導入が自然で合理的で自然なものであり、重要なことは、何を西洋化し、何を日本の伝統文化として評価するか、という点にあるとしました。
 日本に近代化や将来について、ドイツの紙上で議論したのは、両者とも日本を思ってのことでしょう。ナウマンは、模倣だけでは日本はやがて衰退すると憂います。鴎外は西洋文明の導入が合理的で自然であったことを主張します。ナウマンの指摘はもっともなところがあります。しかし、講演や宴席での乱暴な発言には問題があったのかもしれません。また、鴎外の反論は必ずしも的を得たところばかりではないようです。学ぶべきこととして自由と美と主張しましたが、それ以外にも当時の日本は多くのことを西洋から学びました。
 両者の思いが一日だけの邂逅で衝突したのです。鴎外は早熟の秀才でしたが、その才能は晩年まで衰えることなく、国家のために、そして文学へと活用されました。若きナウマンは、日本を広く精力的に歩き回り日本の地質の基礎を築きました。
 明治の若き知性のぶつかりも、いずれも日本の思っての論争でした。このような明治の日本を憂慮しての公開の場での論争は活かされたのでしょうか。両者の思いとは裏腹に、日本は富国強兵を強く進め、やがて1894年から日清戦争に入っていきました。このような時代の流れは悲しいものです。現在の日本には、健全なジャーナリズム、知的な論争土壌は育ったのでしょうか。少々が不安があります。


Letter■ 安野光雅・季節は秋へ 

・安野光雅・
津和野は小さな町です。
こじんまりとまとまっていて、なかなかいい街です。
実は、翌日、別の美術館があることを知りました。
安野光雅美術館でした。
彼の絵本は、若い時、よく見ていて、
何冊も集めていました。
その美術館が津和野にあることを、
出発の日に知りました。
チャンスがあれば、趣味として
安野光雅美術館を見学したいものです。

・季節は秋へ・
北海道は、9月中旬から急激に秋めいてきました。
9月には早くも大雪の方で初雪のニュースも流れました。
木々も少しずつ色づいてきました。
朝晩の寒いときは、何度かストーブをたきました。
通勤中のコートは、インナー付のものになりました。
北海道は、早くも夏も終わり秋へと向かいます。
まだ私の北海道の調査が残っています。
峠道に雪が降らないように願っています。
もう少し夏タイヤで走りたいものです。


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