地球のつぶやき
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Essay■ 206 物忌と直毘:心の切り替え
Letter ■ 無為も有為に・帰省


(2019.03.01)
 日常生活で、煮詰まる状態が生じることがあります。時間に追われていると、その間で完成度を上げることに最大限の努力をします。時間があれば新たな心になって、再度取り組むと、よりいいものになりそうなのですが。


Essay■ 206 物忌と直毘:心の切り替え

 人生において、生活が大きく変化する機会としては、人生の初期には幼・少・保・中・高・大学への入学と卒業、就職が大きなものでしょうか。成人後は、結婚、出産、転職、退職などがあるでしょう。1度ではなく何度も繰り返される転機もあるでしょう。人生の初期の転換は、ある時期が来たら、好むと好まざるかかわらず、必然的に起こってしまいます。日本中で、一斉にある年齢や階層の人に、その時期が訪れてしまいます。一種の風物詩ともいうべきものにもなります。人生における新天地は、その人の希望をどの程度叶えているかは不明ですが、新たな門出、転機であることには違いありません。3月から4月は、そのような時期でもあります。いずれも受動的です。自身が切り替えたい時に、切り替えることは難しいでしょう。
 しかし、成人し社会に出てからの転機は、自身の考え、思い、タイミングで迎えることが可能となるでしょうか。でも、多くの人は、なかなか自身の意思で転換するのは難しいかもしれません。特に会社などの組織に属していると、組織の意思による切り替えはあっても、自身で時期を選ぶことはなかなかできません。
 人には自身が望む時期に、切り替えをすることが必要ではないでしょうか。立場や身分などは、自身の都合で変えることは難しいのですが、自身の精神的な切り替えであれば、時期を選ばずに可能ではないでしょうか。一時的に非日常の世界に自身をおくことで、切り替える方法があります。
 その方法は、身体も常とは改まった状態、心も異なる状況に置いて非日常の中で過ごします。そのような非日常を受け入れて、一定期間過ごした後、日常の生活に戻れば、精神の切り替えができるというものです。自身の精神世界での行為であれば、時期や場所を選ぶことなく、心を切り替える機会がつくれるはずです。もし心の切り替えができれば、以前見ていたものが、新たな見えかたがするかもしれません。
 それに近い状況を、現在、私自身で意図的につくり出しています。最近まで、長い期間に渡って本の執筆をしていました。その間、頭は本のことで一杯になった状態が続きます。一通り素稿ができた時、安堵感とともに、頭の中に本の内容で一杯になった状態で、煮詰まった感じがします。続いて文言の修正や構成の見直しなど、校正作業に入っていくことになります。これまでも同じような状態で、執筆から推敲をしていました。それは、時間が限られていたからです。
 実は、執筆からすぐに推敲に入っていくと、頭の切り替えができていないので、なかなか大胆な修正、大規模な変更がしにくい状態になっています。ですから、完成度というより、少修正、誤字脱字などの推敲になっていきます。そんな時、まったく別の仕事を一時することで、頭が切り替えられれば、自分の書いた文章であっても、客観的に眺めることができます。このようなことは、多くの方が経験しているのではないでしょうか。
 昔、自分が書いた論文を時間がたってから読み返すと、客観的にみることができます。自身の論文ですから興味深く読めるのですが、文章や書き方に関しては修正が必要だと感じることが多々あります。このような発見ができるのは、時間をおいて、心を切り替えたため客観的な視点が持てるようになったからではないでしょうか。これは、私の独自の方法ではなく、多くの人が同じような経験をしているのではないでしょうか。昔から人は、そのような心の切り替えの方法を、意図的に用いてきました。
 例えば、物忌(ものいみ)という昔からの風習があります。神事として、あるいは凶事があったりすると、ある期間、つつしみをもって、身を浄めた生活をすることを物忌といいます。神官だけでなく、今でも市民も同じような物忌を行っています。親族が亡くなったときなど、喪中として賀状のやり取りを遠慮するというのは、この物忌の風習が残っているからでしょう。当事者以外にとっては形式的かもしれませんが、生活や習慣に根付いている物忌は、それなりの効用はあるようです。
 物忌の期間を過ぎて、普通の生活にもどることを「なおび」といいます。直毘、あるいは直日と書きます。古くから人は、物忌に入ったあと、直毘として戻ることで、心を切り替え、生活に区切りをつくっていたのでしょう。多分、精神的に大きな変化が起こった時の対処法として、物忌と直毘は用いられるようになってきたのでしょう。
 精神的に大きなダメージ、変化があったとき、一旦物忌として心身を非日常に置くことで、心を落ち着かせていきます。現代社会では、1年や数年に渡る物忌はできなくても、数日、数週間、数ヶ月の短い時間であれば、物忌の期間に精神を落ち着かせ、心を切り替えができるはずです。その後、新たな気持ちで直毘で日常にもどることで、意図的にダメージ回復、心の切り替えを行っていたのではないでしょうか。昔からの、いい方法心のリセット方法ではないでしょうか。
 直毘は、古事記や日本書紀にも、神の名前として登場しています。古事記では神直毘神(かみなほびのかみ)と大直毘神(おほなほびのかみ)として、日本書紀では神直日神(かみなほひのかみ)と大直日神(おほなほひのかみ)として登場しています。古事記では、黄泉の国で穢れたイザナギが禊(みそぎ)をして生まれた神となっています。直毘は、もともとは神道の考え方のようです。
 物忌や直毘は、宗教的な意味合いが濃いものですが、このような精神の切り替えの方法と考えれば、有効な方法に思えます。心や生活を非日常の期間を過ごし、再度もとの日常に戻ってくるという、一種の心の転換方法として使えます。論文の後日読み直すとより客観的に見れるようになったもの、この心の転換を行ってことになっているはずです。理にかなった方法ではないでしょうか。
 そのような考えから、先日、書き終わった文章を、一旦寝かすことにしました。2週間ほど別の論文の準備をすることにしました。その間、これまでの論文の整理と今後の方針、そして次の論文の位置付けに1週間、複雑な地質図を作成とソフトの習熟に1週間を費やしました。さらに、1週間ほど帰省も入りました。合わせると、3週間ほど全く別の状態に頭をもっていきました。この期間を物忌とすれば、これからいよいよ以前の文章の作成が直毘として、日常に戻ることになります。
 さてさて、本当に心のリセットはできているのでしょうか。推敲すべき文章に戻れば答えがでることでしょう。


Letter■ 無為も有為に・帰省 

・無為も有為に・
いやはや、もう3月です。
月日の流れは速いものです。
速い時間の流れに対抗する手段があります。
無駄をなくし、無為な時間をなくすことです。
さらに言えば無為の時間も有為な時間にすればいいのです。
常に何事かを目的を持って成し続けていればいいのです。
今回の物忌のように他のことを成していれば、
本の執筆におては、有為となります。
その間に遊びの時間を入れることも
心の切り替えという意味をもたせれば、
その間も有為となります。
なにやら屁理屈ぽく聞こえますが、
残された時間が減っていくことを感じると
そのような気持ちになってしまいます。

・帰省・
京都に帰省したのですが、
その間に暖かい日と寒い日があり、
まして京都の昔風の家にいたので
寝る場所も寒く体調を崩しそうでした。
でも、その間に咲き始めた梅をみることができ
久しぶりに家族や親族に会うことができました。
弟も久しぶりにあって一杯やることができました。
しかし、移動だけでなく、寒い実家と
いろいろ所用をしたので、疲れていたのでしょう
帰宅した日はぐっすりと寝ることができました。


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