地球のつぶやき
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Essay■ 203 不可知の肩に立って
Letter ■ 厳冬期仕様・授業体制


(2018.12.01)
 巨人の肩の上に立って眺めると、遠くの景色が見えます。そこからは、実は言語化できる景色だけが、見えているのではないかもしれません。言語化できない不可知の肩からは、どんな景色が見えるのでしょうか。


Essay■ 203 不可知の肩に立って

 Google Scholar という学術論文を探すサイトがあるのですが、検索の窓の下に「巨人の肩の上に立つ」という一文が、さり気なく添えられています。「巨人の肩の上に立つ」という文は、ニュートンがフックに宛てた手紙で、
 If I have seen further it is by standing on the shoulders of giants.
(もし私が遠くを見れならば、それは巨人の肩の上に立っているからだ)
(ニュートンの英語表記は、古いもので、If I have seen further it is by standing on ye sholders of Giants. となっています)
と書いたものだそうです。1676年のことでした。
 この一文は、先人の知識の上に新たな発見をしていくことをいったものです。先人の業績なくしては、新しい発見はなし得ないということです。私たちは、これまで多大な先人の知的資産を受け継いできました。そのような先人からの学びを土台として、新たにささやかな知見を発見し、付け加えてきました。しかし、多数のささやかな知見が、大きな知的体系へと成長してきました。
 先人の知的資産は、論文や書籍など文章して残されてきました。現在でも、科学の成果は、学会誌や専門書の文章、もしくは学会の講演やポスターなどで発表され、言語化され報告されます。現在では、インターネットを通じたデジタルでの報告も多くなりましたが、そこでも文字や言葉が使われています。
 現代の科学の成果は、媒体はいろいろと変化してきましたが、古くから文字での、報告、公開がされてきました。知は、いずれかの手段、なんらかの媒体で報告、公開しないと、科学の成果とはなりえません。知として残るためには、時間の風化にたえる媒体(たとえば石や紙)に記録され、保存されなければなりません。それらの媒体に文字として記録されてきました。最近ではデジタル化された情報として多くは文字として保存されています。はたしてデジタル情報は、時間の風化にどの程度耐えられるでしょうか。
 もうひとつ知を伝承する方法があります。それは人を介したものです。現代社会では、先人の知的資産を、教育として教師が伝えることができます。教師は、先人の知的資産を教科書、専門書、論文など文字もあるでしょうが、先輩の教師からの言葉を通じて教わってきました。このような知的資産の文字と言葉による連鎖が続いてきました。言葉は消えますが、ものに転写された文字は残ります。
 これまで、言葉と文字は、知の伝承には不可欠の存在でした。しかし、知というものは、文字や言葉に変換できたものがすべてでしょうか。もし、できない知があったとして、それが非常に重要なものだとしたら、その知はどうなうでしょうか。その知は、伝承されることなく、その人のみ一代で、その存在は継承することができないものになるのでしょうか。技術の極意、芸術などの表現方法などは、その例の最たるものでしょう。その人固有の高度な技術や表現は、言葉や文字では、伝えることができないものもあるかもしれません。
 さらに、思考にも言葉にできないものがあるかもしれません。インドでは、概念的思索、あるは単なる現象や出来事も、言葉では捉えきれない、「不可知」ものがあると考えられていたそうです。不可知の概念を知るために、修行法や真言を唱えるなどの手段は、いろいろ考案され、不可知へ至るルートだけは示されてきました。得られた知は、悟りや大日などとして、大乗仏教として体系化されてきました。ただし、その知は言語化できないものでした。宗教的な概念だけでなく、深い思索には言葉にできない不可知のものもあるかもしれません。
 言語化不能の知があったとして、ある人の得た知と、他の人の知とは、比較することはできないでしょう。知の差異や変化・変遷、進化なども、客観的に示すことはできません。そのような知は、積み上げていくことはできないものでしょう。ひとりひとりの知の高みがわかりません。知の高みと人間性、人徳と比例するということも判別できません。肩の高さは、巨人なのか、子どもなのか、普通の人なのか、比べることはできません。ひとりで、ただただより高みを目指すし、景色を変化を感じるしかありません。
 知には、不可知の部分もあるという考え方は、不可知論と呼ぶのですが、英語では、agnostic、あるいは agnosticism と呼びます。agnostic は、gnostic に a をつけているので否定の意味となります。gnostic は、ギリシア語を語源として、知恵や知識という意味です。その否定なので、知識にできない、理解できないという意味合いになり、上で述べたのと一致しています。
 人が認識できるのは、ある限られた領域(実証可能な現象の世界や経験可能な世界)であり、それ以上の超越的、超経験的な世界は、認識不可能だとされていました。キリスト教的社会では、神は超越者で、神が司る世界は超経験的世界であるとされています。
 科学者が、神の存在について考えた時、科学的に証明できそうもないので、証明不能、不可知という立場を表明することになります。そのような立場を不可知論、不可知論者といいます。不可知論(者)を英語では、agnostic といい、ダーウィンの進化論を弁護したハクスリーが、自分の宗教上の立場を表明するのに初めて用いたとされています。以降、不可知論とは、神の存在は不可知である、という宗教上の立場を表明するために持ちられるようになりました。
 一方、神の存在を否定する、無神論の立場もあります。無神論、atheist 呼ばれています。theist が有神論ですので、a がついて否定となる言葉になります。有神論と無神論は、神が存在するかしないかを証明できれば、決着を見ます。現状の科学では検証不可能です。ですから、不可知論という立場が生じるわけです。
 もし上述したように、言語化できない領域があり、そのでの存在(例えば神)が、悟れる人のみが知り得るものとすると、他人には真偽のわからない存在となります。不可知の領域で、無神か有神の決着をしても、それを検証することはできません。悩ましいものです。
 さて、ここまで、不可知の事柄について、言語化、文章化してきたのですが、本当に私の考えている概念が、完全に文章化できたとな思えません。また私の伝えたい内容が、私の本当に考えた通りに、あなたに伝わったでしょうか。それが、非言語的不可知の領域です。その肩の高さは、そこに立って見ている人にしかわかりません。


Letter■ 厳冬期仕様・授業体制に 

・厳冬期仕様・
わが町では、何度か雪が降りました。
時には激しい吹雪となった日もありました。
いよいよ冬が本番となってきました。
車のタイヤは、早めに冬用にしています。
着るもの、履くものも、厳冬期仕様にしました。
そして、季節は、師走を迎えることになります。

・授業体制・
大学の後期の講義も終盤となってきました。
1月下旬まで講義はあるのですが、
冬休みを挟むので、集中が途切れます。
また、教員はセンター試験も含めて
各種の入試が進行しています。
教員も講義への集中が途切れそうになります。
この授業体制の集中を途切れさせることは、
多くの大学での問題と思います。
常々思っているのですが、この学期と、
長期休み、月曜び振替休日、大学行事(主に入試)は、
なんとかならないものでしょうかね。


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