地球のつぶやき
目次に戻る

Essay■ 202 縁とやりあて
Letter ■ 空海の景色・老後に


(2018.11.01)
 南方熊楠の世界は、非常に広いものです。まだまだその広さは、私には理解できません。でも、そのうちのほんの少しのキーワードですが、縁とやりあて、tactの3つが、理解できた気がしました。これら3つについて考えていきます。


Essay■ 202 縁とやりあて

 私は、ここ数年、南方熊楠に興味をもっています。破天荒な生き方だけでなく、彼の哲学的世界観に、いろいろ学ぶところがあると思っています。ですが、文献を読むのが、なかなか進みません。
 進まない理由は、最近はデジタル書籍の便利さを謳歌しているため、空き時間で紙の本を読む機会が減ってきためです。紙の本でしか出版されていないものも、いっぱいあります。日本の専門書や特定作家、古い書物などは、紙でしか出版されていません。南方熊楠に関するものは、紙の書籍が多いのですが、少しはデジタルになっているものもあるので、ついついてそちらを優先して読んでいます。本来の優先順とは異なっているので、読むべき文献がなかなかこなせなくなっています。
 さて、熊楠の思想的背景に密教があることは、知られています。日本での密教の始祖は空海です。熊楠と密教の関連で、空海に関する本も読み出しました。やはり紙媒体が多いのですが、デジタル版のものを主として読んでいます。まずは、空海の小説や入門書を読み、現在は熊楠の小説に移っています。ただ、熊楠に関する短い文献であれば、忙しくても目を通すことができるので、気分転換に読んでいます。
 熊楠の思想に惹かれているのは、私が考えている科学的方法や科学哲学の考え方に、合い通じるものを見いだせるからです。
 熊楠の思想的背景は、大乗仏教の密教なので、大日の森羅万象の理(真理)を説く胎蔵と、大日の真理や悟りを智慧として説く金剛を用いて説明しています。その考えを図示しています。図では、大日がすべての中心です。大日の胎蔵の部分は、因と果が関係し、因と起が関係し、因と起の間に縁があると示しています。もうひとつの大日の金剛には、心が中心で、心と物、心と事、事の物が三角の関係を持っています。そして、事は名と関連します。名は印と弱い関係があります。そして印は心を意味する。そんな図があります。
 その意味するところは、なかなか難しいので、私はまだ十分理解できません。それぞれの語の意味がわからないと、熊楠の思想を理解できません。熊楠の自身の思想を、土宜法竜への手紙で伝えています。これを理解することが、熊楠の重要な思想を理解することになると考えています。
 そのような熊楠の思想の一部を、「縁」や「やりあて」、「tact」というキーワードを使って説明しています。
 「やりあて」という言葉は、辞書にはなく、熊楠の造語のようで「やりあてる」の名詞となっているようです。「発見ということは、予期よりやりあての方が多いなり」と熊楠はいっています。「やりあて」というより「tact」と呼んだほうがよいともいっています。「tact」は、分別、思慮、気配りなどの意味で、異なるものを同士を結びつける力、臨機応変の結合力のようなものなのでしょう。つまり、因果のずっと奥に存在するものであるようです。異なるものを結びつける力が、「やりあて」や「tact」で、その結びつきのことを、縁と呼んでいます。縁とは、「諸因果総体の一層上の因果」と熊楠はいっています。これは、「メタ因果」を意味しているようです。
 私は科学的方法について考えています。一般的な科学的方法として、帰納法と演繹法があります。帰納法は、多数のデータから規則性を導くもので、演繹法は既存の規則を適用することです。帰納法は新たな規則性を創造でき、演繹法は規則の適用範囲を決めたり、確かさの検証に使えます。
 ところが、帰納法は用いたデータ内でつくられた法則ですから、そのデータの範囲での確かさは保証されますが、その範囲外では確かさの保証はなくなります。また範囲内であっても、例外が一つでも見つかれば、その規則の正しさは否定されます。「カラスは黒い」や「白鳥は白い」という規則が、たったひとつの白いカラスや黒い白鳥の発見で、否定されてしまいます。これは、自然の帰納法の限界となっています。
 演繹法は、規則の正しさを検証できます。調べられる範囲で、正しさをいくらでも精密に検証することができます。ところが、規則を検証するだけで、新しい規則性を生み出す創造性がありません。
 現状の科学では、帰納法と演繹法を、ぐるぐる回しながら科学は進められています。これが科学的方法であり、そこから逸脱することは、科学的な正確さを満たさず、科学的論証とな見なされません。しかし、そこには反例一個の出現で、いつ何時、否定されるかという不安や、不確かさが存在し続けます。
 私が考えている方法として、昔からあったのですが、「アブダクション(abduction)」が重要ではないかと考えています。アブダクションとは、帰納法のようはデータがそろってからはじめるのではなく、事前に「やりあて」や「tact」のように根拠はなくてもいいから、とりあえず考えて試してみようすることです。じつは、仮説や見通しとして、科学をおこなうときに、多くの研究者が無意識にしているものでもあります。「カン」とも呼ばれているものですが、それが熊楠のいう「やりあて」や「tact」でしょう。
 統計学では、このようなやり方としてベイズ統計学があります。ベイズ統計では、データがその後でてくることで、統計学上の検証できます。でも取り合えず何らかの「やりあて」の値を入れて、考えていこうとするものです。検証は、統計データを得たら、その仮定を修正していきます。後からデータが出てくることで、成り立つ方法です。データがないと、科学的には成立しません。
 アブダクションやベイズ統計の方法の重要性を、100年以上も前に、熊楠が「やりあて」や「tact」として見抜いていました。さらに、因果の先にある、因果のより上の因果、メタ因果を、「縁」という考えがあることを示しています。それらの考えを密教として、中国で短期間に集大成したのが、空海です。
 先哲の頭脳は、すごいものだと思います。空海の本も読みたくなりますが、深入りはしないようにしにないと・・・。


Letter■ 空海の景色・老後に 

・空海の景色・
空海の小説といえば
司馬遼太郎の「空海の景色」が有名です。
私は、かつて紙の本を読み出して
挫折した経験があります。
それまで司馬遼太郎氏の小説は多数読んでいたのですが、
この本だけは異質に感じました。
「空海の景色」にはデジタル版があるので、
ダウンロードしているので
再挑戦をしてみたいと考えています。

・老後に・
熊楠や空海、密教などの哲学的考察は
私には、まだまだ先のテーマになると考えています。
まずは、地質学的な概念で思索を深めていくことが先決です。
地質哲学が最優先のテーマで、
それだけでも現役中のライフワークになります。
熊楠の文献はかなり集めているのですが、
小説を読むことで、お茶を濁しておきます。
熊楠は、退職後に楽しにとっておきましょうかね。


目次に戻る