地球のつぶやき
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Essay■ 201 非決定論の世界に生きる
Letter ■ 秋めいて・議員たるもの


(2018.10.01)
 いつおこるかわからない自然現象の前には、対応不能に思え、無力さを感じます。自然現象は、非決定論的だからなのでしょうか。非決定論的への対処は、ひとりでも行動することです。カオスで大きなうねりになるもしれません。


Essay■ 201 非決定論の世界に生きる

 世界の情勢の不安定さの荒波を受けて、日本の世情も激しく揺れ動いています。IS、イスラエル、トルコ、北朝鮮、トランプ大統領など、さまざまな要因ですが、予測不能な変動が起こっています。
 日本の舵取り役も、安定政権といいますが、市民感覚とはかけ離れた、人事られないことを次々とおこなっています。だれのための政府なのか、どこに向かっているのか、国民としても不安が募ります。
 そこに天変地異ともいうべき、地震、台風、洪水なども繰り返し日本列島を襲っています。大きな自然現象の不安定を抱えた状況になっています。政治も迷走しているので、予測不能な国際的な危機もありそうです。そんな世の中で暮らす一市民は、どうすればいいのかわからなくなります。
 社会や政治は予測不能ですが、科学、数学や論理の世界は、もっと厳密であるはずで、予測も成り立ちそうな気がします。未来が予測できる世界は安心感があります。
 例えば次のような方程式があるとしましょう。
  y=ax+b
aとbは定数で値が決まっているとします。もしxが与えられれば、必然的にyは決まっていきます。xにどんな値を入れても、yを求めることができます。このような数学的な方程式は、xが与えられればyも必然的に決まってしまいます。この方程式で示され直線上につねにあるので、何度計算しても、予測できます。このような数学の世界は、決定論の代表ともいうべきものでしょう。
 小学校の算数、中学校の数学には答えがあり、答えにたどり着く筋道はいろいろあったとしても、答えは決定論として存在することになります。算数や数学は、そのような正しい、間違いが決定論的に存在する世界であることを、教えていくことにもなります。このような数学、論理の学問こそが、信頼の拠り所になることも、理解していくことになります。
 物理学も決定論の世界になのでしょう。特にニュートンの打ち立てた力学の世界は、今でも多くの運動を記述する上で、自然科学の基本法則となっている決定論となります。
 ただし、自然科学では、法則が確定するまでは、測定値などの事実を集積し、それらの事実をもっと説明できる近似として、方程式をつくっていきます。その方程式が正しいかどうかは、検証を経なければなりません。近似や方程式とは「仮説」です。仮説は、決定論にはまだなりません。
 仮説に基づき、多くの検証作業がなされていき、正しさが判明してくると、信頼性をもった法則や理論へと昇格していきます。法則や理論があれば、そこから出される予想は、決定論として信頼できます。
 しかし、法則も理論も自然現象を扱っている限り、決して決定論とはなりません。なぜなら、物理学は自然現象を記述するものなので、自然界からその法則に反する事例がひとつでも見つかれば、その法則は破綻します。これが、自然科学には、自己修正機能を内蔵している強かさと、現状の非決定論的危うさとが、混在しています。このような危うさは、「帰納法の限界」として理解されています。
 法則であっても、たとえ大科学者の主張であっても、事実の前には、謙虚でなければなりません。ただ、科学者も人間ですから、ついつい自分の信じているものは、守りたくなります。そんな例が、アインシュタインという大科学者にもありました。
 数学の中で、統計学は不確かさを確率で見ていく手法を編み出しました。その結果、不確かさを決定論として記述するという分野を作り上げられました。確率的な世界でしか記述できない世界を受け入れた自然科学の分野が、量子力学でした。量子力学に対して、アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と抵抗を示しました。これは自然界の現象は、確率ではなく決定論的に起こると考えたのです。
 アインシュタインも学問の進歩には勝てませんでした。微小の世界で、神様はサイコロを振り続けたのです。その後も、量子力学は、大きく成長し、微小の世界を探るには、かかせない重要な学問分野となりました。ただし、偉大なアインシュタインが量子力学に投げかけたいくつもの疑問は、真摯に対応され、量子力学を発展させると契機になるという皮肉もありました。
 数学的世界でも、「不確かさ」が発見されています。統計ではなく、方程式で記述できる純粋な理論の世界においてです。ロジスティック写像と呼ばれるものがあります。例えば、
  y=ax(1-x)
という方程式があります。
 この方程式は、aが定数で、xに値を入れれば、yが決まります。そのyの値をxに入れて再度計算します。その作業を繰り返していくと、例えば100回目の値は、99回目の値がわかれば決まります。99回目は98回目が・・・となります。単純方程式ですから、予測可能なある値が出てくるような決定論的な世界に見えます。
 ところが、この方程式で、0<a≦1の時はx=0に集まって(収斂といいます)いきます。また、1<a≦2の時は、(a-1)/aに収斂します。2<a≦3の時は、(a-1)/aに振動しながら収斂します。ところが、aが3.5699456より大きくなると、突然、その値は、予測不能の振る舞いをします。前の値を得てからでなかいと、次に出てくる値が予測できないのです。99回目がわからないと100回目が予測できないものを、カオスと呼んでいます。
 こんな単純な方程式の中に、非決定論的なカオスが紛れ込んでいたのです。20世紀中頃から、不思議な振る舞いが、数学だけでなく、いろいろな方程式に紛れ込んでいうことがわかってきました。決定論だと思われていた数学の方程式に、ある日から非決定論が紛れ込んでいることがわかってしまったのです。これまで信頼を置いていた数学の理論体系が、予測という点で一気に信頼性に疑問が生まれることになったのです。
 今ではこのようなカオスを含めて非決定論的な振る舞いは、「複雑系」と呼ばれる学問になってきました。予測不可能な方程式が、自然現象の中には、あちこちにあることがわかってきました。その結果、天体運動などニュートン力学で大きな信頼を勝ち得ていたものにも、複雑系が紛れていることがわかってきました。気象現象や天気予報にもカオスはありました。
 人の行動などは自由に振る舞っているはずなので、その集合である社会や経済などは、非決定論的になっているはずです。しかし、大きな影響力や強い権力が加わっていくと、少しずつその力の方向に向かっていくように見えます。つまり力をかけ続ければ、その方向に向かう傾向が強いのです。その力をもっているのは、冒頭で紹介した一部の強国や権力者たちでしょうか。しかし、そんな国も人も、非決定論的な振る舞いの集合体なので、ほんの少しの変動や行動から、大きな変化が起こることもありえます。たった一言の発言、たった一人の行動が、もしかするとカオスを発生し、大きな変化へと向かうこともあるかもしれません。そんな意志を一人でも持ち、行動を続けることが、予測不能の時代には重要なのかもしれません。もちろん、その結果は予測不能ですが。


Letter■ 秋めいて・議員たるもの 

・秋めいて・
北海道は今年の秋は少々遅めのようです。
しかし、着実に秋は迫ってきています。
日が短くなるとともに、
朝夕の冷え込みの強くなってきます。
朝夕で冷え込んでいる時は
コートを着てちょうどいい気候です。
まだ被災している人もいるので、
冬の到来は、もう少し遅めがいいのですが。

・議員たるもの・
現代社会での生活は、
グローバル化、盛んな国際交流、
円高・円安による原油価格、観光への影響など
日本だけの挙動で左右できない事態にもなっています。
なかなか一国の舵取りの難しい時代だと思います。
しかし、国選議員は、少なくとも国民の幸福を
最大限に考えるべきだと思いますが、
どうも別の方に目が向いているように見えるのですが。


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