地球のつぶやき
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Essay■ 176 エビデンスレベル:人為の排除
Letter ■ 熊野にて・メディアの魔力


(2016.09.01)
 医学界には、科学的根拠を明瞭にするために、エビデンスレベルという考えが、導入されて運用されいます。自然科学でも、人為を排除する考え方の導入が、必要になってきています。


Essay■ 176 エビデンスレベル:人為の排除

 エビデンスレベル(Evidence Level)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。日本語にすると「証拠の水準」となります。ある仮説を証明するために提示された証拠が、どのようなレベルのものかということです。自然科学の世界では、証拠の水準が話題になることはほとんどありません。証拠の、あるいはデータの精度については議論されますが、その証拠自体の水準が問題になることはありません。データの精度が、その水準を示していることになります。
 エビデンスレベルとは、医療の現場で使われだした言葉です。医療は自然科学とは違って、経験科学的な側面があります。自然科学では、因果関係が明瞭でないと、証拠能力を持ちません。しかし、経験科学では、なにかを為した時、大きな確率である結果が得られるのであれば、その手法は有効となり、利用されていきます。技術開発の現場では、そのようなことがよくにしておこなわれています。
 医学の現場では、治療の効果や副作用などを、臨床による結果を調べる場合には経験の集積がなされていきます。ある治療や、ある投薬をしたとき、その効果を調べようとしたら、人には多様な条件が介在していることと想定されます。あるひとりの患者の症状が好転したとしても、それの全ての人の治療に反映していいのでしょうか。たとえ10名、100名に効果があったとしても、その背後に効果がなかった患者がある比率でいるはずです。それをどのように評価するのかという問題があります。医療は人の生死にかかわることになります。
 医療では、1990年代から、「証拠に基づく医療(Evidence-based medicine、EBMと略されます)」という考えが導入されました。医療の効果を、科学的に示そうという考え方によるものです。
 それまで医療には、ある一人の医者の意見から、ひとつの症例の記載、医学界の合意、はじめての成功例、実験動物での成功例、人での臨床結果、大量の統計に基づく結果など、非常に多様な根拠に基づくものが含まれています。それらの結果は、同じレベルで採用したり、評価するのは問題があります。より精度の高い結果を用いていかなれば、よりよい治療、医療になっていきません。そのような思いで、EBMでのエビデンスレベルが想定されました。
 エビデンスレベルは、1から6の段階に分けて示されています。番号が小さいほど、より強力な証拠となります。
1 ランダム化比較試験
2 コントロールを伴うコホート研究
3 症例対象研究
4 処置前後の比較
5 症例報告
6 専門家個人の意見(専門家委員会報告を含む)
という区分です。少々、専門的な言葉が使われていますが、少し長くなりますが、紹介します。
 「ランダム化比較試験」とは、無作為に集団を選んでいくつかのグループに分け、他の要因による差がないようにしてから、比較していくものです。そこで差がでれば、効果があったとことを証明したことになります。このような比較試験を、多様な地域、民族などでおこない、同じ効果がでれば、その結果まもっと信頼でき、人類全体に拡張できることになります。どんなに2や3の証拠が出てきても、これに勝るものはありません。エビデンスレベル1が示されたら、決着をみたことになります。
 「コントロールを伴うコホート研究」とは、条件を制御しておこなう研究です。ある条件を与えた集団と与えていない集団を定めて(コントロールを伴うという)、一定期間追跡して調査するもの(コホート研究、Cohort Study)です。そこで、ある症例の発生率を比べていくことで、その条件の有効性を示す方法です。無作為でない点が、1と比べて劣る点です。
 「症例対象研究」とは、ある病気を発症した集団に固有の原因を調べていきます。このとき、発症していない集団と比べて、原因究明をしていきます。この研究では、すでに発症してい集団を対象にしているので、過去にさかのぼって調べていくことになります。そこには、先入観や因果関係のない要因が入り込む可能性があります。そして十分に条件がコントロールされず、長期の検証もなされていない点で、1や2に劣ります。
 「処置前後の比較」は、もっともわかりやすものです。処置の前後を比較して効果があったかどうをみるものです。ただし、処置をしてない集団と比較しているわけでないので、本当にその治療による効果かどうかは不明です。
 「症例報告」は、ある症状があっという実例を報告するもので、治療にむすびつくものでありません。
 「専門家個人の意見」というのは、市民にとっては、一見もっとも意義があるように見えますが、その専門家が、エビデンスレベルを承知して語っているのであれば、上で述べたいずれかのものに該当します。権威を持った人が語ると、説得力があるのですが、もしそれが主観に基づくものであれば、根拠がなく逆に危険性でもあります。
 実は、権威をもって人が主観的に述べた意見が、往々にしてメディアにでることがあります。○○医科学博士が語った治療法、○○病院の○○科部長推薦による健康薬など、世間には権威を利用した報道、広告が多数みられます。大手の新聞の医療系の広告欄をみれば、いかにこのようなものが多いかは、一目瞭然です。
 医療では、証拠に基づく医療(EBM)やエビデンスレベルの導入で、科学的正当性を確保しようという方針が定まって、20年近くなります。しかしメディアや現実の医者の対応をみていくと、現状ではまだ普及にいたっていないようです。実際に定着するのは、まだまだ先のようです。
 自然科学でも、このような証拠の水準について考えていく必要があるかもしれません。
 自然科学では、きっちりとしたデータに基づく研究は、ランダムな対象でコントロールされた比較研究になっていることが多くなります。特別な場合を除いて、長期にわたる追跡調査はあまりなされません。
 「症例対象研究」や「処置前後の比較」は、因果関係が定かでないが、有効な方法、いわゆるノーハウのようなものが使用されることはあります。科学技術では、このような場面が生じています。実用化のために、エビデンスレベルにこだわることなく、ただ有効な、効率的なものが証明されていなくても、応用面ではすぐに使われていきます。やがては原因究明がなされ、より定かなものになっていくはずですが。医療とは違って、対人間でない場面が主となります。また実用化するために、いろいろな安全基準という関門があります。
 自然科学において、「症例報告」に相当するのは、最初の記載、発見にあたるものです。存在を確認したという意味で、非常に重要ですが、科学のスタートでもあります。
 「専門家個人の意見」は、自然科学でも存在します。自然災害の発生、例えば地震の予知、火山噴火予知などで、専門家、あるいは似非専門家がよく登場します。それが自分の経験や、いくつかの「症例報告」から、あたかも高いエビデンスレベルをもった理論かのように、「専門家個人の意見」を述べる人がいます。これは、大きな問題です。科学の信頼を損なうだけでなく、不要な不安を社会に及ぼすことになるからです。
 エビデンスレベルの導入で医療から主観は不確かさを除こうという試みは大切です。科学の世界でも導入すべきでしょう。しかし、医療も科学も人が為すものなので、心情や心、主観など、どうしても人為が混在するようですね。


Letter■ 熊野にて・メディアの魔力

・熊野にて・
このエッセイが届く頃、
私は、和歌山で野外調査をしています。
予約による発行となります。
多分熊野のあたりをウロウロしているはずです。
まあ、天候によりますが。
天候ばかりは、どうしようもありませんが。
1週間ほどの調査ですが、
順調に進んでいることを願っています。

・メディアの魔力・
メディアに出て、科学のことをわかりやすく紹介する
サイエンスコミュニケーターと名乗る人たちが、最近でてきました。
科学をよりわかりやすく伝える役割を持っている人たちです。
それなりの訓練を受けたり、特技として説明が上手な人がいます。
そんな適材適所で科学を伝える人も必要です。
これは、いいことだと思います。
中には、メディアが持たらす栄誉や自尊心をくすぐるような場で
空気や与えられた役割を果たすために
必要以上、専門以外、能力以上のことを語っている人を見かけます。
最初は社会的責任としてメディアにでていたのが
気づいたらコメンテーターの役割を担っている人がいます。
もし、そうならその人の本心はどうなているのでしょうかね。


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