地球のつぶやき
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Essay■ 172 ポパーのサーチライト
Letter ■ サクラ・熊本地震


(2016.05.01)
 科学的に考えることは、科学だけでなく、いろいろな場面で重要な役割を果たします。科学的考え方で科学は営まれています。しかし、科学の実験や観察は、本当に科学的に考え方にもとづいているのでしょうか。そこには、人間的な主観や感情は入っていないでしょうか。


Essay■ 172 ポパーのサーチライト

 現代社会に生きていくためには、科学的な考え方は、重要です。科学的な考え方は、日本のような経済大国、技術立国では不可欠な能力です。科学的考え方が身につけられるように、教育システムに組み込まれています。小学校でも理科だけでなく、いろいろな教科で科学的考え方を学びます。教育機関では、科学的に考える重要性を常に伝えています。
 学びの場から、社会に出て、日々の業務や生活に追われはじめると、科学的な考え方をしていないことが、多くなるような気がします。しかし、長年学んできた科学的な考え方の重要性は、理解してるはずです。でも、学びの場から離れて長い年月がたつと、ついつい科学的な考え方を忘れてしまい、感覚的、常識的な考え方で済ましてしまうことが、多くなってはいないでしょうか。
 私のように科学の世界に長くいると、普通の人とは違って、科学的な考え方が日常を完全に侵略しています。これは、いいことか、悪いことかはわかりません。私の家族からすると、日常的な考え方からすると、私は少々常識はずれの意見を述べているようです。家内や子どもたちと話していても、私は科学的に考えで対処しようとしますが、彼らは常識的な対処をしようとします。場合にはよっては、相反する考えになることがあります。そんな時、馴れでしょうか、家族は常識的対処を各自で選択することになっています。つまり私の考えは無視されます。なぜなら、そのほうが社会生活で波風を立てないからです。ただし、家族が経験したことがない場面、常識ができていない状況では、私の科学的考え方が役に立つことがあります。
 私も、家族との間に波風を立てるつもりはありません。だから家族の選択は尊重します。私の場合においても、論理的には正しいことや正論でも、社会や日常、常識では、通らないことがごく普通にある経験を一杯しているからです。これが世の習いでもあります。日本の政治を見ていると、その例に枚挙の暇がないでしょう。
 ところで、科学的な考え方とは、どういうものでしょうか。証拠に基づき論理的な結論を得ること、だと私は思っています。証拠と論理に基づいた考え方が、科学的な考え方といえます。簡単にいえば、もっともらしい証拠に基づいて、筋道をたてて考える、といえるでしょう。
 証拠は、自然科学の世界では、実験、観察、観測、シミュレーションなど誰もが再現できるような方法で集められた客観的な情報です。その情報は定量値であったり、定性的なものであったりすることがあります。通常は、再現性があるものが証拠となります。ただし、一度しかない起こらない現象(隕石による大絶滅)、1つしかない証拠(最古の化石、稀な化石)など、再現性のないものも科学の対象にされています。
 論理とは、論理学的に正しいことだけでなく、単に筋道が納得できかどうか、証拠があるかどうか、証拠の強力さなどで優劣が付けられています。したがって、論理には、正しいものだけでなく、現状で一番有力なもの、もっともらしいという人間的の判断に基づくものもあります。そのような確定してない論理では、ある日、全く新しい強力な証拠がでてくると、否定されたり、別の論理に入れ替わることがあります。
 科学的方法は、証拠と論理によるといいましたが、実はこれがなかなか一筋縄ではいかない代物です。自然科学における証拠とは、観察や実験によってえられるデータです。その観察、実験をどう捉えるかということが、実は難しい問題をはらんでいるのです。
 観察や実験をするとき、先入観をもたず、客観的な姿勢でおこなうべきだというのは、だれものが教わり、必要と認めている考え方です。自然が存在し、それを私たちが観察や実験を通じて調べていきます。まずは自然を素直に見よう、先入観を持たずに観察、実験をしようという考えです。存在している自然が、ア・プリオリにもっている属性や情報を、私たちは読み取るだけなのです。まるで、バケツに水が入るようには、私たちは受け入れるだけの存在である、と考えます。これは、よくある考え方です。実験や観察で受け入れたもの(知識)の他にも、理論、法則もバケツに中に入っている、自然に中に組み込まれていると考えます。それを見つけられるかどうかは、私たち側の問題となります。
 カール・ポパーは「客観的知識―進化論的アプローチ」の中で、このような考え方を、「バケツ理論」と呼びました。ポパーは、観察、実験をするためには、「つねに特殊な関心、問い、問題が先行する」といいます。つまり、観察、実験には、観察にいたるまでに問題意識を生み出すための「理論」(なんらかの考え)が、事前に存在するはずだというのです。一種の先入観にあたるものがあるというのです。いいかえると、純粋に客観的な観察、実験などできない、何らかの「理論」が前提としてあるはずだというのです。観察する前に存在する「理論」を、ポパーは「サーチライト理論」と呼びました。
 「サーチライト理論」の「理論」は、ここでは先入観や、仮説というべきでしょう。「いかなる観察をなすべきかをわれわれが学びとるのは、もっぱら仮説からだけである」とポパーはいいます。
 確かに、私たちが観察や実験をするときには、当然何らかの目的をもって、何らかの条件を設定しておこないます。無目的に無条件に観察、実験をすることはありません。観察や実験とは、何か知りたいことがあり、それを解明するためにおこなわれるものですから、「何か」がサーチライトとして利用しているはずです。それがポパーのいう「サーチライト理論」です。
 ポパーの考えが出てくるまで、最初に述べたように、観察、実験は客観的におこなうものとして、客観性を重視していました。ところが、観察、実験には仮説が介在していることが、いわれはじめたのです。仮説には、当然、研究者の主観が混入します。客観性を重視するあまり、観察、実験に主観が混入していることに、今まで気づか振りをしていたのです。「科学は仮定から自由であるとは決していえない」のです。
 ポパーのいうように、すべての科学の実験、観察が、サーチライトが先行しているかというと、私は必ずしも、そうでもない気がします。特に現在の私の研究手法では、そう感じています。私が野外調査にでかけるとき、ある目的をもって、ある地域のある露頭である岩石を観察しに行きます。しかし、時には魅力的な露頭をみつけると、何度もそこを訪れたくなり、実際に何度も通っている露頭がいくつかあります。これは、仮説、理論などなく、感性がそこに行きたいという衝動に生み出すのです。そんなとき、サーチライトではない、バケツの中の何かからの思念が、私に呼びかけている気がします。
 私だけでなく、失敗した実験、予想外の観察結果、予定外の現象、予期せぬ発見など、いろいろなサーチライトの当てていないものがあります。それをうまく捉えることで、思わぬ大発見があります。セレンディピティ(serendipity)と呼ばれているものです。セレンディピティで、思わぬ発見があり、大きな成果が生まれることは、よく知られています。
 科学をおこなうのは人間で、科学的方法は理性的な行為です。そしてすべての分野で、確かに「今日の科学は昨日の科学の上に築かれ」ています。それでも、人間は理性だけで振る舞うものではなく、感性に基づく止むに止まれない行動、振る舞いも、そこには含まれています。
 人間としての科学者のおこなっている科学は、バケツとサーチライトのいずれでしょうか。人間が複雑な思考をするように、科学も複雑な側面をもっているような気がします。いかがでしょうか。


Letter■ サクラ・熊本地震

・サクラ・
ゴールデンウィークになりました。
北海道はこれからが桜の見頃となります。
少々寒い日が繰り返しくるのですが、
順調に花の芽が成長しているようです。
桜の満開が今年はゴールデンウィークの最中になりそうです。
少々見られることが少ないときですが、
私は、大学に来ていますので、見ることができそうです。

・熊本地震・
当初、このゴールデンウィーク中に
私は野外調査にでかける予定を組んで、
研究予算を確保し、チケット、宿泊の準備を
すべて終わらせていいました。
その調査地は、熊本から大分にかけての中央構造線で
その周辺に分布する地層を観察する予定でした。
今回に地震で当然それは中止としました。
飛行機とレンタカーはキャンセルできました。
一軒だけは、電話がつながったのですが、
被害を受け宿泊は受けられないということでした。
他のホテルは、電話がつながらずに、
キャンセルができませんでした。
地震から10日ほどたって時、
やっとその他のホテルも電話ができ、キャンセルできました。
すべてのホテルは被害はあったが、
宿泊できる状態にあるとのことでした。
なによりでした。
今は、位置にも早い復興を願っています。


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