地球のつぶやき
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Essay■ 154 まつろわぬ心
Letter ■ エール・冬到来?


(2014.11.01)
 例外は、稀なものであまりないものです。多数の現象が起これば、時として例外に接することがあります。その多くは、何らかのミスによるものでしょう。しかしその中に、真実を含む例外もあるかもしれません。それを見抜きアウトプットするには、「まつろわぬ」心が必要なのかもしれません。


Essay■ 154 まつろわぬ心

 自然の事物や現象を調べるときに、計測、計量などの測定をして数値化していきます。得られたデータは、いろいろな単位を用いて示されます。この単位ですが、いろいろなものをはかるとなれば、多数の単位が必要になります。でも、すべての単位が必須ではなく、基本となる単位を組み合わせることで、できる単位もあります。例えば密度は、質量を体積、つまり長さの三乗で割れば求められるので、より基本の単位として、質量と長さがあればいいわけです。そのような単位を基本単位、基本単位からできているものを組み立て単位と呼びます。
 自然界の規則性でも、同じようなことが起こっています。いろいろな規則、法則がありますが、それらの規則を導き出せる、あるいはより基本的な、原則、原理ともいうべきものもあります。基本原則を見つけ出すことも、自然科学、いや人類の知的活動で、大きな目標ではないでしょうか。
 そこには大きな落とし穴があります。
 多数の法則や基本的な原則があったとしても、そこには少数の例外が存在することがあります。そのような例外は、単純に測定ミス、装置の欠陥、人的ミスなど、さまざまな要因があるはずです。そのようなミスは、どんなに科学技術が進んでも起こりえます。
 最近の有名な例として、CERN(欧州合同原子核研究所)で観測され、2011年9月23日に発表された、光速より速いニュートリノが見つかったというニュースです。OPERAという研究者グループから実験によって光より速いニュートリノが見つかったと発表されました。これは相対性理論、つまり科学の常識を覆す結果なので、OPERAの多数の共同研究者で慎重に議論して、検証も繰り返して公表に至りました。ところが、再度チェックをしところ、GPS(衛星利用測位システム)時計をつなぐ光ケーブルに接続不良があることがわかりました。その結果、時間同期に問題が発生していたため、測定精度が不十分だったことが判明しました。研究者たちは、2012年6月に結果を取り下げました。この例外の発見は、人為的ミスによるものでした。
 とろが、自然は面白いもので、人為的ミスではない、本当に存在する例外からみつかることがままあります。その例外は、当然、従来の説を変更して説明すべきです。時には、基本的原理や原則が覆ることもあります。これは、科学革命やパラダイム転換などと呼ばれるものです。古くは天動説から地動説への転換、ニュートン力学から相対性理論への転換、地向斜論からプレートテクトニクスへの転換などが、パラダイム転換に当たります。
 パラダイム転換のような大発見は、天才、秀才、偉大な者によってなされることのように思えますが、その発端は、予想外、想定外の出来事、ときにはささやかな出来事の発見からです。重要なことは、そのようなささやかな規則性の破れを見つけられるかどうか。そしてその例外を信じられるかどうか。その疑問を口にし、真摯に取り組めるかどうかが重要になります。先ほどの例に出したOPERAの人たちのことは、残念な結果に終わりましたが、謙虚に事実を受け入れ、勇気を持って発表をしました。これは、科学者として素晴らしい姿勢であったと思います。
 原則を信じている人たち、原則から生まれる研究の牽引者、つまりはバリバリと研究をしている多くの主流派の研究者は、原理、原則に反するささやかな規則の破れを、例外と無視したり、失敗と見なしたりして、取り上げないことも多いでしょう。これは先入観、あるいは常識というべきもので、だれもが陥ってしまう大きな罠でもあります。そんな罠から逃れるのは、たやすいことではありません。
 ここで話は全く変わります。
 「まつろわぬもの」という言葉をご存知でしょうか。「まつろわぬもの」とは、漢字表記すると「服わぬ者」あるいは「奉ろわぬ者」と書きます。「服従しないもの」という意味です。「まつろわぬ」は、もともとは大和時代や奈良時代の上代の言葉で、第二次大戦中にも使われていたようですが、今ではほとんど聞かない言葉です。
 大和時代には、各地の地域国家の中で、近畿地方の奈良盆地を中心として、いくつかの有力氏族が連合して大和朝廷が成立しました。渡来系の人たちも朝廷側に加わっていきました。ところがまだ日本が完全に統一されていたわけではないので、大和朝廷に従わない者や批判的な勢力がありました。例えば、地方の豪族や迫害され大和を追われた出雲にいった一族などは、「まつろわぬもの」なりました。また、東北や北海道など大和朝廷の勢力が届かない地域に住んでいた人たちも、「まつろわぬもの」となりました。
 特に、年貢や税金など利害がにかかわる政策、もともと持っていた自分たち固有の風習や習慣を否定しされて中央集権的な仕組みを押し付けられる、などがあれば、反感を持つ人は少なからずいたはずです。
 「まつろわぬ」とは、中心勢力や主流派に対抗するときに用いられる言葉です。このような変化は、大和時代だけでなく、大きな政変、変革、価値観の転換などがあると、いつでも起こることなのかもしれません。ところが、時間がたち、主流派が勢力を増し続け、支配が継続すると、「まつろわぬもの」たちは、反対勢力、批判派から、時間とともに傍流、少数派になっていきます。やがて「まつろわぬもの」も、強制的にあるいは無意識に「まつろうもの」たち ですから、そして殆どの人たちが「まつろう」ものなっています。
 主流派は、それなりの知力(学力、学歴)、地位(職、栄誉)、財力(給与、研究資金、先端の研究装置)をもって、成果を上げ続けられるプラスのスパイラスを形成します。そして、その立場から、ものごとをみていくことになります。主流派は常識をつくり続け、常識の中核をなします。
 大きな変革、改革の芽は、常識の破れ、つまりささやかな例外からはじまります。そんな例外を「まつろわぬもの」は、見ぬくことができるはずです。そんなささやかな「まつろわぬ」ことを見ぬく眼力を備えること。「まつろわぬ」現象を見つけた時、「まつろわぬもの」となり、常識に反することにも真摯に取り組み、アウトプットする勇気を持つことが、人類の大きな一歩になるでしょう。それは、大きな転換につながるでしょう。
 「まつろわぬ」心もつことは、大変ですが、大切でもあります。そんなことをふと考えました。


Letter■ エール・冬到来?

・エール・
今回のエッセイの裏話を。
もともと「まつろわぬもの」については
いつか書く予定がありました。
もうひとつ、私は、以前から、政府の原子力政策への
方針、姿勢に疑問を感じていました。
そこに、先日、原子力政策の中心に位置するポストへ就いた
人から挨拶状がきました。
古くから付き合いのある知人で、
何度か共著論文を書いたこともあります。
人格的にも信頼している人物ですし、
反骨、批判精神のある人でもあります。
挨拶状をみて、その人の今後、
そのポストでの大変さを思っていました。
その思いと、今回のエッセイは、
間接的、あるいは隠喩的ですが
私の心のなかで大きく連動しました。
これは、その知人への私からの
エールになればと思っています。
届かないかもしれませんが。

・冬到来?・
先週末は暑かったのですが、
一気に寒くなりました。
そして、近郊の山々が白くなりました。
初冠雪でした。
里にもミゾレやアラレが降りました。
また、積雪まで至っていませんでが。
もう、寒い日には当たり前にストーブをたいています。
里の積雪も、いつあってもおかしくないほどの寒さです。


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