地球のつぶやき
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Essay■ 152 そゞろ神と柵
Letter ■ 旅を終えても・天気ばかりは


(2014.09.01)
 人の心には、旅に誘うそゞろ神が住んでいるようです。いつもで自由に旅にでられる人は、そうそういないでしょう。それなりの「しがらみ」もあり、簡単に旅には出れないようです。そゞろ神としがらみの話題です。


Essay■ 152 そゞろ神と柵

 私は、例年9月上、中旬には野外調査にでています。場所はさまざまですが、自分の研究の一環として、野外で岩石を観察するような調査を毎年計画しては出かけています。北海道ではお盆が過ぎて、秋風が吹く季節になると、旅に出たくなる気持ちが強く湧いてきます。私にとっては、野外調査が旅にあたります。
 さて、「柵」は「さく」と読むことが一般的ですが、「しがらみ」という読み方もります。「しがらみ」とは、流れを堰き止めておくための杭で竹や木をを渡したもので、そこから「さく」という意味も生まれたようです。もともとは堰き止めるためのものという意味のようです。
 「さく」は外から入るものを拒むように思えますが、外に出ようということを制限するという機能もあります。その機能に着目すれば、「しがらみ」という意味も理解できそうです。
 ここで、また話はかわり、柵から奥の細道へと話題は移ります。
 松尾芭蕉の「奥の細道」では「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」という出だしの文章は、有名です。「奥の細道」は、松尾芭蕉が、元禄2(1689)年3月27日に江戸を出発して、東北から北陸をまわり、9月6日に美濃の大垣を出るまでの約150日間の紀行文を俳句をまじえて記したものです。その後も、芭蕉は旅を続け、元禄4年(1691年)に江戸に帰ってきました。
 「奥の細道」の冒頭から少し後段にあたることに「そゞろ神の物につきて心をくるはせ・・・」という文章がありますが、ご存知でしょうか。ここの「そゞろ神」とは、心を惑わし、誘惑する神様のことです。「物につきて」とは、そゞろ神が自分にとり憑いて「心をくるわせ」るのです。そゞろ神が誘惑するのは、旅へのいざないです。旅にでるように、芭蕉にとり憑いてきたのです。そして芭蕉は「片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」といって旅にでるのです。
 人は、同じ所にじっとしていると、体を動かしたいとか、外に出たいとか、自然の中に出たいという気持ちが、ふと湧くことがあるようです。このような不思議な気持ちを、昔の人は、そゞろ神に憑かれたといったようです。うまい喩えです。芭蕉だけでなく、私にも旅に出たくなるような気持ちになることがあるよくあります。そんな時は、私もそゞろ神に憑かれたのでしょう。
 そゞろ神に取り憑かれることはあったとしても、実際に旅に出るという行動に移れるかどうかは別です。置かれている社会的条件、人間関係などによって、旅にでたい気持ちがあったとしても動けない人もいると思います。いや多くの人が、思い立って旅にでれるような状態ではないでしょうか。そんな現状に縛ることを「しがらみ」というのでしょう。
 でも、そゞろ神の力が強ければ、そんな「しがらみ」すらも断ち切って、旅立つ人もいるのでしょう。芭蕉もそんな一人だったのかもしれません。要領のいい人は、「しがらみ」の目をくぐり抜けて、旅に出ても、同じ居場所に何事もなく戻ってくるのでしょう。私も、後者を心がけています。そのため事前に根回しや準備をして、「しがらみ」をくぐり抜けて出かけます。でも、こんな準備を整えているようでは、そゞろ神が入り込む余地がないのではと思ってしますが。
 科学技術が進み、大抵のことは、ネットで知ることができるようになりました。テレビ、スマートフォーン、パソコンなどでみる世界は、あくまでも間引かれた情報であって、二次元の画面を通じての間接的体験にしかなりません。そこには実体験が欠如しています。生(なま)や実物、現実などによる実体験は、何事にも代えがたいもであることは、誰もが知っています。ですから、いつか、どこかでリアルな実体験をしなければな、精神のバランスが取れなくなります。
 私は、研究のために石や砂を系統的に収集し、日々の通勤路でも自然を記録し自然回帰を心がけています。これも、リアルへの渇望を埋めるための行為なのかもしれません。そのようなリアルへの接触を心がけている私のところにも、そゞろ神は現れます。リアルへの接触体験だけでは満たされない気持ちが強くわき起こる時、そゞろ神が出てくるのです。
 最近、校務で泊りがけの旅もよくします。与えられた仕事の旅では、そゞろ神は納得しません。そのような「しがらみ」にまみれた旅ではなく、心から自然に入り込める自発的な旅をしなければ、そゞろ神は治まりません。現代のそゞろ神とは、バーチャルからリアルへの離脱では決して埋められない、旅による実体験を促す神なのかもしれません。
 ですから、私は、少なくとも一年に一度は「旅」に出るようにしてます。調査と称して、石や露頭を見ながら、自然の中へ非日常への旅をするのです。今年も、9月3日から1週間、野外調査にでます。この旅に早く行きたいと、私のそゞろ神は強く誘います。そゞろ神は、日常の実体験では得られない非日常の「旅」での体験を要求するのです。「そゞろ神の物につきて心をくるはせ」て旅に出ます。


Letter■ 旅を終えても・天気ばかりは

・旅を終えても・
旅に出たらで出たで、それなりの苦労はあります。
芭蕉も「奥の細道」の最後の「大垣」の段でも述べているように
「旅の物うさもいまだやまざる」という気分になり、
早く帰りたくなったりします。
ところがです、旅から疲れて戻っててき、
自宅でほっとすると、またそゞろ神が顔を出して、
別の旅に出たくなります。困ったものです。
これも含めて旅の楽しみなのでしょうね。

・天気ばかりは・
月はじめの台風に
先週からの低気圧と、
日本各地で大雨の被害がでました。
幸い私はいろいろ行事があったのですが、
雨には降られたのですが、
大過なく雨をやり過ごすことができました。
問題は9月の調査なのですが、
天気ばかりは、
そゞろ神も頼みにもできませんからね。


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