地球のつぶやき
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Essay■ 151 演繹時代での理念の崩壊
Letter ■ 忙しい夏休み・校務で気分転換


(2014.08.01)
 科学の世界では、理念は帰納により構築されます。理念は尊重され、理念に沿った法則の体系が構築されていきます。演繹の時代になり、時が進むと、最初の基本理念は忘れられ、乱用がはじまります。そんな姿を日本の政治に見ました。


Essay■ 151 演繹時代での理念の崩壊

 現行憲法は、占領国であったアメリカが、日本のそれまでの天皇制のもとの軍国主義を、新たに象徴天皇と民主主義という体制に変えるために生まれたものです。憲法を順守して、為政者を規制しながら主権者である国民の権利を守ることが、立憲的民主主義の本来の姿といえます。
 憲法自身には、改定する方法も内包されていました。それに則ることで変更も可能だったのですが、日本では、憲法を変更することなく使ってきました。70年近く修正することなく使ってきたためでしょうか、改憲を望む声はいつもあるのですが、改憲することがタブーになっているかのようです。
 改憲がタブーなのでしょうか、憲法の解釈を変えてきました。そして2014年7月1日には、集団的自衛権が行使できるという解釈を、内閣の方針して決定されました。今後、国の方針になっていきそうです。将来、ことがあった時、違憲判決がでそうですが。
 この解釈で考え方を変更するという方法は、だれがみても憲法9条に反するものであることはわかります。憲法9条の改憲論者も、この解釈には反対する人も多いようです。何より問題は、書かれていないことは、自由に解釈していいという姿勢です。憲法の基本理念を踏みにじり、逸脱しているのではないでしょうか。一部の権力者によって憲法を自由に解釈していくことを「外見的立憲主義」といいます。明治憲法(大日本帝国憲法)やドイツのビスマルク憲法などがその典型です。現行憲法もそうなっていきそうです。
 さて、ここから科学の世界の話になります。考えたいのは、ある原則や理念が導かれる時と、時間が経過して、その原則や理念がさまざまな場面で運用されになっていくときの、原則や理念の変容についてです。
 まずは、原則や理念が導き出される時の話からです。多数の事実、データがあるとき、そこから何らかの規則性、法則を導くことを、帰納といいます。帰納といっても、見方、解釈によって、いくつもの法則が生まれることもあるでしょう。
 帰納したばかりの法則は、すべてのデータを上手く説明できず、例外もいろいろ出てくることもあります。初期の法則は、いずれも未成熟で、いろいろ不備な点も多々あるでしょう。法則ごとに長所、短所もあるでしょう。しかし最終的に、ある法則に収斂したり、選択されていきます。選択にあたっては、よりよいもの、あるいはより使いやすいものなど、いろいろな理由があるでしょうが、最終的にその法則の根底にある基本的な考え方である原則や理念が、受け入れられるかどうかにかかっています。
 受け入れやすい法則とは、シンプルでわかりやすい、そして美しいものではないでしょうか。複雑で難しいものもなかにはありますが、やはり人にとってわかりやすさが一番でしょう。複雑なものは、一部の専門家しか利用できなくなるでしょう。
 より多くの賛同者に選択された法則は、その基本的な考え方である理念を受け入れられたことになります。短所や不備は、理念に基づいて、修正、補正されていくことになります。このような状態に達すると、その法則は発展していくことになります。多くの賛同者や初学者も、この理念を学ぶようになります。
 その分野の全体が理念を受け入れ、利用するようになります。理念を構成しているいくつもの法則が、色々なとろこで演繹的に利用、応用されていくことになります。条件や場合にあわせて、法則も幾通りの方程式や規則、条件が付随してくることもあります。理念は、より厳密に、より精密に、より使いやすく、そして強固なものへとなっていきます。
 やがて、その理念は他分野にも利用され、研究され、広い分野での常識となっていくことになります。ここで示したような基本的な考え方である原則や理念を、トーマス・クーンはパラダイムと呼びました。
 パラダイムの初期であれば、例外的なデータも、法則や条件を修正、変更することで吸収することができ、より良い法則をつくるための助けとなっていきます。しかしパラダイムの晩年には、法則の修正の効かないほどの例外がでてくることになります。やがて科学者たちは、辻褄の合わない法則がひねり出したり、例外には目をつぶったり、パラダイムへの反論を力でねじ伏せたりすることがあります。
 時代が進むと、より多くの例外的なデータや事実がでてきます。中には理念を否定しかねないような、重要な例外も出てきます。そんな時に、トーマス・クーンによれば、パラダイム・シフトが起こるとされています。パラダイム・シフトとは、今までのパラダイムとはまったく違った新しい考え方が出現して、従来のものでは説明できない致命的な例外をすっきりと説明できるものです。それが次なるパラダイムへと成長していくことになります。
 このようなパラダイム・シフトを含む科学の変革を、クーンは科学革命と呼びました。パラダイムを転換していくことが、科学の健全な姿ではないかと思えます。
 地質学でも科学革命がありました。地向斜造山運動論からプレートテクトニクスへの変更がその例となります。ただし、地向斜造山運動は、核となるような論理体系がないため、パラダイムとみなしにくく、パラダイム・シフトが適用できないという人もいます。でもわかりやすいので、ここでは地質学のパラダイム・シフトの例とします。
 地向斜造山運動論は、主に地上の情報によって構築されていました。ところが第二次大戦後、海洋調査が進み、海底の地形や海底の試料の入手、地磁気データなど、今までにないデータが大量にでてくるようになりました。すると、膨大な例外データがあり、地向斜論は説明できなくなりました。やがて海底が移動しているという事実も見つかりました。そして、一気にパラダイム・シフトが起こりました。
 1970年代以降、プレートテクトニクスは成長していき、完成度を増していきました。ところが、プレート運動の重要な要素であるマントル対流の実態が不明であったため、表層部の運動が精緻になったのですが、地球深部に不安を抱えていました。
 地震波トモグラフィの出現によって、地下深部の温度分布が推定できるようになり、プルームテクトニクスが生まれました。プレートテクトニクスが、より広義のプルームテクトニクスに取り込まれ、それまでの不備が解消されるようになりました。
 これはパラダイム・シフトではありませんでした。プレートテクトニクスを否定するのではなく、今まで不明であった深部を加えた、もと理念が拡大し発展させた、大きな帰納が起こったことになります。プルームテクトニクスは、若い理論で、まだ不明な部分もあります。現在構築中のパラダイムだといえます。
 ここまで見てきたように、パラダイムが演繹の時代になると、もともとの理念が変容していくことが起こります。注意しないと、パラダイムに反しない解釈をいろいろおこない、都合のいいように法則をつくっていくということも起こるかもしれません。そこでは、基本精神は消えて、辻褄合わせののみが横行していきます。これは、パラダイム崩壊の予兆となるでしょう。
 科学は事実と論理に基づくフェアーな世界に見えますが、人が行なう営みでもあるので、そうではないこともよくあります。感情や利害がからむと、人の行動には、科学的でない振る舞いが当たり前におこります。捏造、剽窃などはその現れです。
 帰納から生まれた理念がパラダイムとして成立し発展します。パラダイムが演繹の時代になると形骸化して理念がどこかにいってしまいます。この理念の崩壊が、日本の憲法にも起こっているように見えます。一票の格差に対する違憲判決、立法の暴走は、三権分立を蔑(ないがし)ろにしているようにみえます。三権を監視するはずのメディアが、権力に擦り寄っているいるように見えます。これは、憲法というパラダイムが終末にむかっているように見えるのは、私だけでしょうか。もしパラダイムの末期であれば、次に来るのは、革命になります。それが無血革命であればいいのですが・・・・


Letter■ 忙しい夏休み・校務で気分転換

・忙しい夏休み・
いよいよ8月です。
暑い夏がになっていますか。
7月下旬には、北海道も暑かったり、涼しかったり、
はたまた蒸し暑かったりと
めまぐるしく天候の変わる日々が続いています。
大学は8月上旬まで前期があります。
教員はお盆明けまで仕事が続きます。
本来は暑いから夏休みがあるはずなのに
一番暑いときに重要な試験や採点などがあります。
もう少し、のんびりとしたいのですが、
なかなか難しいものでしょうね。

・校務で気分転換・
今年の夏休みも家族での予定はありません。
子ども達が、中・高校生でクラブや遠征で忙しいのと、
私の校務が多いためであります。
夏休みは講義がないぶん、
気持ちの上では開放感があります。
今までやりたくてできなかったこともいろいろあります。
それをやりたいのですが、
疲れてできなくなりそうなのが心配です。
また8月下旬からは、毎週土・日曜日に、
地方への大学のキャラバンがあります。
調査や家族旅行なら楽しいのですが、
校務だと、なかなか落ち着きません。
それでも気分転換と思うことにしましょう。


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