地球のつぶやき
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Essay■ 146 一次資料と心
Letter ■ 資料属性・移動の季節


(2014.03.01)
 一次資料は、人が創作したり、自然から読み取った最初のものです。生み出した作家、抽出した研究者にとって、もっと密接な存在になります。そこに思い入れが生まれます。その思い入れは、本人のみにあるのですが、時には周辺にまで伝わることもがあるようです。


Essay■ 146 一次資料と心

 小説家、特に文豪とよばれる作家の未発見の直筆原稿が見つかったとき、大きなニュースになることがあります。あるいは、有名な作家の生原稿が、紛失、破損した時などは、大きな喪失感を持たれます。しかし、多くの無名作家の原稿は、出版後、著者に戻ることなく、行方不明になっていることもあるでしょう。私も以前書いた本の原稿は、戻ってきていません。でも、あまり気しなりませんでした。本ができた達成感を優先していましたので。
 生原稿のような資料の貴重さとは、いったいどのようなものでしょうか。唯一無二の資料という貴重さは、理解できます。しかし、唯一無二の貴重さは、絵画や彫刻などの芸術作品のような一点しかないものに存在する属性です。生原稿は、少々違った側面をもっているようにみえます。
 生原稿は、熱烈なファンや一部の好事家、収集家、あるいは研究者にとって、重要性を持つでしょう。しかし一般の人にとっては、そのような資料を目にすることはほとんどないでしょう。あったとしても、作家の特集記事や資料館でみるくらいでしょう。こんな字を書いていたのか、などという感想を持つ程度ではないでしょうか。生原稿は本と比べれば読みにくく、読むためものではなく、あくまでも本をつくるための原稿なのです。生原稿は、「唯一の存在」という貴重さ以外の何ものかがあるのではないでしょうか。
 作家にとって、印刷物の本として出版されたものが最終的な完成形のはずです。編集やレイアウトにも、作家として指示を出すことがあるでしょう。校正段階で、文章にもいろいろと修正も入ります。したがって、本が最終的な形であって、原稿は最初の段階であるはずです。生原稿を大切にしている作家もいるかもしれませんが、多くの人が最終的な本が重要になるはずです。なぜなら、原稿ができてから本が出版されるまで、多くの時間と手間をかけているからです。
 地質学者が研究論文を書く時、基礎となるのは野外調査のデータです。地図に歩いたルートを記入し露頭の位置と最小限の記録をして、フィールドノートに詳しい情報を記載していきます。地質学者にとって、地図とフィールドノートは、生データの詰まった一次資料として非常に貴重なものになります。
 私も、卒業論文や修士論文、博士論文の調査や国内外の調査で使った地図やフィールドノートは、捨てることなく手元においています。重要な一次情報でもあるのですが、それらのデータは、清書され、整理され、限りなく一次資料に近い二次資料に加工されていきます。そこでは取捨選択が起こります。地図やフィールドノートのデータは、地質図や柱状図、ときには重要な露頭はスケッチとして論文に掲載されることもあります。それらも、加工され清書された二次的なものになっています。
 論文を作成したのちは、継続的に使用することもあるでしょうが、一次資料にあたることはめったになく、せいぜい二次資料です。ただし、研究の根拠になるデータですから、一次資料や実物試料は可能な限り残しておくという義務もあるのかもしれません。
 本も論文も、印刷物ですから、唯一無二のものではなく、多数の複製が存在します。それこそが本や論文を出版する目的でもあります。その背景にある一次資料は、著者にとっては、重要なものであっても、第三者にとっては必要ないものとなります。
 近年は、多くの原稿がコンピュータで書かれ、出版社や学会に添付ファイル、あるいはプリンターで印刷して送付されます。オリジナル自体が、紙ではなくデジタルになってきています。写真や図表でさえもデジタル化されています。他の研究者も作家者も、紙の原稿そのものに愛着はなくなってきているはずです。
 電子書籍での出版も進んできました。出版社が時間をかけて作成する書籍が今も主流ではありますが、ものによっては個人が手軽に電子出版をして、ヒットしたものが印刷物になっていく例もあります。
 先日、地質学の専門書を購入しました。分厚い2分冊の本ですが、印刷版は115$もします。この本には電子書籍版もあり、価格はどちらも同じく115$です。ところが、出版社の販売サイトをよくみると、印刷版とデジタイル版を合わせて購入すると、セット割引で138$となります。両方欲しかったので、これを購入しました。手続き後、書籍はアメリカからやっと配送されてきたのですが、電子版はすぐにダウンロードでき、パソコンで見ることができました。非常に便利になりました。しかし、やはり私は本の方がしっくりします。
 さて、一次資料です。研究者として、論文の根拠となるので、保存する義務があるといいましたが、これは非常に重要な論文の場合のみでしょう。多数の論文では、根拠を問われるような場面、特に古い科学論文では、そのようなことはないでしょう。ですから、保存義務は、大義名分にすぎないのかもしれません。
 私自身の論文は、手書き論文(卒業研究と修士論文)や印刷物だけしかないものも、すべてデジタル化しました。紙でしかない論文も、自分のパソコンで見れるようなっています。最近の論文は、紙の別刷りだけでなく、多くはPDFファイルでももらえ、大学や学会のホームページでも閲覧可能になっています。
 私の場合、一次資料も自分の過去の紙の論文もデジタル化したので、ほとんど出番はないでしょう。でも私は、一次資料を保存しておくでしょう。自分が苦労して調査した記憶が、一次資料には色濃く残っています。その思いが、私にとって一次資料を貴重にさせているのではないでしょうか。多分、私が研究者でいる限り、この資料は手元においておくでしょう。二度と使用することはなくても。
 著名な作家の生原稿は、著者以外の第三者にも、地質学者が一次資料にもっている愛着に似た思いが生じているのかもしれません。第三者にも、その作家を敬愛するあまり、一次資料にも価値を見出すのかもしません。これは、作家への深い思い入れという心の問題なのでしょうね。


Letter■ 資料属性・移動の季節

・資料属性・
ある小説で、昔の著名な作家の生原稿を燃やす、
燃やさないというやりとりがありました。
作家にとって、原稿は本に至る通過点に過ぎず、
このようなやりとりが、どの程度意味をもつのかを
我が身の場合に置き換えて考えました。
すると、私にとって、失くしたくない重要なものは、
心に関する資料であることに思い至りました。
ただし残念ながら実物資料である岩石については、
移動のたびに廃棄してきました。
なぜなら、重くて搬送が大変で、置き場所もないからです。
仕方がありませんが、
これも資料の属性が生み出す、宿命なのでしょう。

・移動の季節・
3月は年度末で、学校は卒業、組織は退職など
人が移動する季節です。
3月は、出ていくための移動です。
我が大学でも卒業式があり、
退職される方もいます。
残る側にとっては、寂しさがありますが、
出て行く側には、寂しさのほかに、
新天地での期待感もあるでしょう。
そんなことを思う季節になりました。


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