地球のつぶやき
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Essay■ 120 時間の淘汰
Letter ■ 今年の年頭は・快適さと意味・雪の違い


(2012.01.01)
  明けましておめでとうございます。本年もご愛読をいただければ幸いです。毎年、年頭には、それぞれ希望や決意を新たにすることがあるでしょう。ただ、私のように齢を重ねると、「正月や年頭がそれほど特別なものではなく、ただ人為的区切りとして過ぎ去る時間境界にすぎない」などという無常な思いを抱いてしまいます。そんな時間区切りであっても、ついつい淡い希望を抱いてしまうのが、風習として身についている正月なかもしれません。ただし、今年は少々違う思いをもった年頭になりました。前置きが長くなりました。私の年頭の思いのエッセイです。


Essay■ 120 時間の淘汰

 新たな年がはじまりました。新年が新しい年のはじまりであるがゆえに、新たなスタートラインに立って、すべてをリセットできるかのように思えてしまいます。日本にとって過酷な年であった2011年が終わり、2012年のはじまりに、私の年頭の思いを伝えたいと思っています。
  2011年のあまりに大きな出来事は、いまだに暗い影を残しています。この思いは、私だけではないでしょう。被災された方はより以上に、被災しなかった人たちも晴れ晴れした気持ちになれないでしょう。
  時間はめぐり、とどまることはありません。社会生活をする人は、時間に遅れないように、急かされて生きなければなりません。つらいけれども、それが社会人としての生き方でもあります。
  でも、時間に流されることなく、忘れてはいけないことや教訓として心に留めておくべきことがあります。今年の正月は、そんな思いを特に強く感じます。時間に流されながらも、人として、科学の発信、好奇心の発露をどのように持つべきかを考えていきます。
  人の行動において、好奇は、大きなモチベーションを生みます。好奇心がなければ、やる気も起きず、長続きがしません。一方、好奇心さえあれば、幾多の困難も乗り越えられます。科学でも、好奇心は不可欠な動機となります。ところが、実際の科学には、好奇心以外にも、いろいろなモチベーションがあります。
  例えば、社会の要請によって、科学や技術が果たすべき課題があります。そんな使命感によって科学が営まれることがあります。1950年代から60年代にかけての発生した公害によって環境問題解決のための技術が、1970年代のオイルショックにより省エネの家電製品が大きく発展し、社会的課題を果たしました。あるいは、時代や政治や軍事の要請もあるでしょう。権力の強い主導によって、科学者もその行動が左右されます。武器となりうる数々の技術は戦争や軍事が牽引してきました。コンピュータやインターネット、原子力、宇宙技術などは、軍事や政治がらみの創世記をもっています。企業としての要請もあるでしょう。営利を目的とする企業は、他者との熾烈な競争があり、それに勝ち抜かなければなりません。企業内の科学者や技術者は、営利を最終目標とし凌ぎを削ります。卓上電子計算機(電卓)や携帯電話、パソコンの発展は、ライバル会社との激しい競争があり、経済原理に基づいた要請がありました。時には、富や名誉などの利己的な欲もあるでしょう。一歩でも先に自分の成果を公表したい、人より良い成果を知らしめたいなどの要求は、純粋な好奇心とは少々違うものです。科学論文における同じ結果に対する優先権の激しい争いは、明らかに利己的な欲でしょう。科学の推進にもいろいろな動機があります。
  幸いなことに、科学の成果や結果には、研究動機による色はついていません。いい結果、役に立つで成果あれば、多くの人が利用し、広まります。悪い結果、役に立たない成果であれば、無視され、消えていきます。不純な動機、目的であっても、結果さえ有用なら、受け入れられるのです。研究動機ではなく、時間が科学の結果を淘汰するのです。
  科学の成果だけでなく、ありとあらゆるものに、時間の淘汰は働きます。時間の淘汰は、地質学を学ぶとよくわかります。時間の淘汰に打ち勝てるかどうかは、人知を越えています。時間の淘汰への人としての対応策は、ただひたすら結果を公開して、蓄積していくしかありません。多数の記録を残せば、そのうち一部のいいものが、時間の淘汰に耐えることがあります。そう、成果を公開し、残すことだけが、人としてなせることになります。
  もしそうであるなら、多様な場面で、多様な立場からの、多様な意見や成果を、できるだけ公開したほうがいいはずです。量が質を生むことになるはずです。多様性があれば、健全な選択ができる可能性が上がります。幸い、現代は、だれでも、意見を公開する場がインターネットと通じて各種あります。こんな便利な道具を利用しない手はありません。
  突然ですが、話は私事になります。私は、大学生、大学院生(修士課程と博士課程)、研究生、特別研究員、そして博物館学芸員、大学教員して、30年以上の長きにわたって、地質学を専門としてきました。しかし、博物館では、専門外のことでしたが、必要に迫られて科学教育の研究をはじめました。大学に移ってからは、さらに地質にかかわる哲学的思索(私は地質哲学と呼んでいます)を進めています。私は、地質学を常に中心に据えてはいますが、専門外の領域にも興味を持ち、研究を進めてきました。私がいくつもの分野に転身してきたのは、それに好奇心をもったからです。
  10年もその分野で研究を継続していれば、専門家の末席に入ることができることも体験できました。私の地質学以外の科学教育や地質哲学の成果も、学会や研究雑誌などで公表してきました。ある程度実績をつめばもともとの専門以外のことについては、それなりの専門性を持てることを体験しました。
  ただ、これは、専門家のコミュニティにおいての話です。その専門性を、外(市民)に対して公開するのには、慎重になるべきです。多くの専門家も同じように考えていると思います。不用意に専門外の問題に対して、意見を述べるべきでないと思っています。それが社会的に影響を持つことであれば、なおさら慎重であるべきだと考えています。専門分野であってもそうなのですから、自分の専門外の分野において、市民への意見の表出は、科学者の多くはしないはずです。
  今まで、専門外の地球温暖化問題、地震や異常気象などの自然災害などでも、深入りすることなく、意見もほとんど述べてきませんでした。もちろん、私にも、他の人たちと同様に、それなりの考え方や意見はあります。多くの人の目に触れる場で、意見を述べるのは、混乱を招く恐れがあります。私は、地質学や科学教育、地質哲学などいろいろ専門を持っています。ですから、専門ではない立場での意見であっても、知らない人にとっては、専門家の意見にみえるかもしれないからです。慎重にならざるえませんでした。
  では、専門家なら、本当に公平な、正確で、正当な判断かできているのでしょうか。専門の知識、経験、データをもっているのが専門家ですから、その意見は誰より説得力のあるものでしょう。しかし、専門家の意見だから、正当な判断、社会的に健全な意見であるとは限りません。人は、そのような過ちを繰り返しています。
  記憶に新しいものでは、裁判員制度でしょう。裁判の判決が社会常識に大きく反することがあり、それを是正するために導入された制度です。司法(裁判所)は、立法、行政、そして社会からも独立しなければならないという宿命をもっていました。ゆえに、裁判所という専門家集団のコミュニティが狭くなり、生じた問題でしょう。
  科学の世界には、社会制度に組み込まれた組織がないため、そのような制度を導入することはできません。そんなことをしなくとも、時間の淘汰が十分な役割を果してきました。
  科学も複雑化して、分野や専門が細分化されてきています。必然的に小さなコミュニティが多数形成されてしまいます。そこに、危うさが生じます。例えば原子力のように、小さなコミュニティとして、明らかに政治や社会制度に組み込まれているような科学もあります。そのような科学のコミュニティが、不全に陥ったとき、誰が諌めるのでしょうか。本来であれば、コミュニティ外の原子力の専門家が意見すべきでしょう。ただ、原子力のようにコミュニティが小さい場合、コミュニティ外の専門家はあまりに少数派です。
  コミュニティ外のその他多数が、意見を述べるべきではないでしょうか。たとえトンチンカンでも非常識でも、多様性が必要なのではないでしょうか。どうでもいい意見は、科学の成果のように、時間が淘汰してくれます。インターネット上の情報は、時間淘汰のスピードが速いです。まずは、だれでもいいから、人目に触れるところで意見を自由に述べ、それが誰かが見て、考え、必要なら関連した議論を発信すればいいのです。そんな自由さがインターネットの世界にはあります。
  ところで私ですが、科学者として結果への責任をどう果たすべきか、まだ判断できていません。発信者の個人責任で済むのであればいいのですが、一人の出した結果が、インターネットなどの早い媒体によって、被害が大きく、多くの人に影響をあたえるものであったとしたら、個人の責任では済まない問題になります。重要な内容ほど、発言を控えたくなります。専門性を持つほど慎重にならざるえません。意見があるのに言わないのは、奥ゆかしさ、謙虚さなのでしょうか。それとも、責任の放棄でしょうか。極端な例はわかりやすいのですが、その境界は不明瞭です。判断に迷うところです。
  今のところ、まだ自分の確たる立ち位置は決まっていませんが、自分の専門外のことでも、立場を示しながら、慎重に意見を述べるようにしていきたいと思っています。多様性の一翼を担っていきたと思います。それが、思わぬ議論を湧き起こすこともあるでしょう。それが、人々への刺激となれば、いいと思います。少しずつでもいいから、3.11からの教訓を活かしていけばと思っています。
  以上が、私の今年のいつもと違う年頭の決意です。


Letter■ 今年の年頭は・快適さと意味・雪の違い

・今年の年頭は・
新年における私の決意を述べました。
多分、見かけ上はほとんど変わらないでしょう。
ただ、今後のエッセイで扱う内容も深め方も
少々変わってくるはずです。
今まで、東日本大震災に関してエッセイの話題にするのを
意図的に避けてきました。
私自身がまだ消化しきれないこともあったのですが、
専門が近傍なので、無責任な発言は、
関係者に迷惑をかけるかもしれないという配慮がありました。
今後は、慎重にではありますが、
専門の近傍、あるいは専門外でも
発言をしていきたいと思っています。
今年の年頭は、こんなことを思いました。

・快適さと意味・
別のエッセイでも書きましたが、
年末に自宅の書棚をすべて壁付けにする改修をしました。
もちろん専門の大工さんに入っていただいて、
1週間かけての作業をしていただきました。
収納ではあるのですが、耐震性を出すためのことでした。
しかし、一番重要なことは、棚を見るたびに、
家族全員が地震の怖さを忘れないためでもあります。
大人だけでなく、子どもたちにも、
なぜ、あちこちにあった棚を
壁付けにしたのをかを話しています。
それを覚えていれば、いくつになっても、
棚をみれば、3.11の記憶に結びつくはずです。
我が家の2011年の総括として棚があります。
もちろん、改修ですので、いい棚で、収納力もアップしました。
快適さも増しました。
快適さと棚の意味を忘れることなく、
よくよく味わって、これからも記憶していこうと思います。

・雪の違い・
今年の冬は雪が多いです。
昨年は正月は自宅で過ごしましたが、
ほとんどは愛媛での冬でした。
愛媛も山奥だったので、雪が結構降りました。
しかし、北海道の雪は、愛媛と違います。
雪の質から、北国を感じます。
今年の冬は雪が多いので、
除雪の大変さを痛感させられます。
そんな北国での越冬をかみしめています。


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