地球のつぶやき
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Essay■ 119 独学者
Letter ■ 現代風の学び・師走


(2011.12.01)
  autodidactという単語をご存知でしょうか。多分、知っている方は少ないと思います。独学あるいは独学者という意味です。大学では、学問を身につけるために、多くの教員がいます。しかし、教えてくれる先生がいなくても、独学はある程度は可能だと思います。近年ほど、独学のチャンスは増えているように思えます。私の体験を交えて紹介していきます。


Essay■ 119 独学者

 先日、旧友と飲んだ時のことです。ある友人が、「もし戻れるなら、大学生時代に戻りたい」といいました。その時私は、「いまさら大学で学びたいことはない」といいました。話が噛み合っていないのは、友人と私の考えている立場の違いだと思います。友人は、大学時代のノスタルジーにかられて、そのような発言をしたと思います。現在大学の教員をしていますから、私にとって大学は身近な存在です。しかし、学問や学ぶことにおいて、大学だけがすべてではなく、自力で学ぶことは可能だということを主張したかったのです。酔っぱらい同士の会話ですから、たわいもないことなのですが、それをふと思いだして、エッセイをしました。
  新しい技術や学問などの知的体系を習得するには、学校で先生(師匠)について学ぶのが普通です。時には、それが最短コースにもなります。習得にかかる時間はいろいろですが、学校教育では、所定のプログラムに基づいて、所定で年月をかけておこなれていきます。小学校6年、中学校3年、高等学校3年、大学4年、16年間という学びの期間を経ることが普通になりました。研究者を目指す人は、さらに大学院(博士課程まで)5年が追加されます。なんと長い学びの期間なのでしょうか。
  現在の若者は、9割以上が高校へ進学します。そして5割ほどが大学へと進学します。高校卒業までの12年、大学卒業までの16年という期間をかけて学ばなければ、現代生活が営めないのでしょうか。そんなことはないと思います。大学で学んだスキルを活かしている卒業生は、果たしてどれくらいの比率になるでしょうか。案外少ないような気がします。
  現代社会において、新しいことを学びたいときは、学び方さえ身に付けていれば、案外独学をすることは可能です。そのために、高等学校や大学の学びが必要なのかもしれません。技術や道具を要するものは別として、基礎を学ぶのには、入門書のたぐいは多数ありますし、専門書も出まわっています。今では専門書もネットを使えば、高価ではありますが、簡単に入手でききるようになっています。時には、ネットに存在する情報だけでも、基礎から専門的内容まで学ぶことも可能かもしません。
  一人で学ぶことを「独学」といいますが、独学をする人を独学者といいます。英語で独学あるいは独学者は、autodidact(autodidacticismともいいます)といいます。autoとは「自身の」、「独自の」、「自己の」という意味で、didactとはギリシャ語を語源とする「教えるのが上手な」という意味の名詞「didactics」に由来する言葉で「教える」ということです。自分自身で教える、つまり先生なしに学ぶということから、独学や独学者になります。
  独学には、2つレベルがあると思います。先人の知識とまったく交わることなく、まったく独自に体系だったものを構築する場合です。これのレベルを「第一レベル独学」と呼びましょう。稀ですが、前例はあります。古代の思想家や芸術家には、独学者というべき人は何人か思いつきます。まったく新しい学問体系、思想体系、芸術体系などを構築した人たちも、このレベルの独学者というべきでしょう。
  大多数の人は、先人の知恵や知識、技術に依存して、新しい分野を開拓していきます。それが次のレベルで、先生につくことなく、独力で学問体系を身につけて、一人前になっていく独学です。もちろん、その時、先人の知識の体系である書籍は利用しています。このような先達から教わることにない独学は「第二レベル独学」となります。「第二レベル独学」は、多くの人が経験していることでしょう。
  いろいろな独学があるでしょうが、体系を身につけることから、それを活用してモノになるレベルに達し、やがては先生として人に教えることができるでしょう。なかなかそこにまで達するのは難しいでしょうが。なかりそのようなことを達成されている人もいます。
  私にも独学の経験があります。現在専門としている科学教育や科学哲学は、先生について学んだことはありません。私は、理学部で、地質学の専門教育を受けたのみで、「教育学」や「哲学」を教養科目として学んだことはありますが、その時の内容は、まったく頭に残っていません。ですから、後年、そのような分野に転身するときは、学問体系は独学で身につけることとなりました。
  また、一時的に取り組んだ廃棄物に関わった研究での独学もそうでした。あることがきっかけで、廃棄物処理の関係者から焼却灰を高温にして溶融したものができたので、調べて欲しいという依頼がきました。固まったものは、石のように固く、結晶が多数形成されています。その石と結晶の化学分析をしました。まったく知らない世界ですが、溶融と固結は、マグマと岩石の関係に類似しています。岩石学の知識を利用すれば、焼却灰の溶融から結晶の過程を復元することが可能であることがわかりました。相図というものを示しながら廃棄物学会で発表をして、論文も投稿して査読も通過しました。引用している文献も、廃棄物関連のものは少なく、岩石学や冶金などの文献です。しかし、発表ではそれなりの反応もあり、手応えを感じました。非常に面白い経験でした。ただ、その後は廃棄物に関わることはなさそうなので、論文を公表して1年で脱会しましたが。
  私が独学をする時、多数の入門書、教科書、専門書、データなどは、利用しました。今では、多数の本や情報があるため、なんらかの学問体系を独自に学ぶことは、昔よりずっと楽になりました。そして必要に迫られて学ぶ時が、一番身につくときでもあることを身をもって体験しました。そしてなにより大事なことは、独学が可能であるという自信を持ったことかもしれません。
  科学教育も科学哲学も人文科学です。もちろんそれぞれに深みある学問内容がありますが、私が今まで専門としてきた地質学をバックボーンとして取り組んでいけば、新しい視点が導入できることも体験しました。独りよがりではなく、廃棄物や科学教育の学会での発表や査読のある論文公表を通じて、それなりの成果があげられることがわかってきました。
  地質学という独自のアプローチだからかもしれませんが、他分野からの独学での参入もできることを体験的に知ることができました。ただし、学問の正統派としての参入は、なかなか難しいでしょうが。私以外の研究者でも、一つの学問に専念しているつもりでも、他の分野との交流、境界領域への参入は当たり前に行なうようになっていると思います。そんなとき、独学をしながら境界領域へ歩んでいきます。
  現代の多様化、高度化した科学技術に立脚した社会では、本当の意味の「第一レベル独学」は、もはやありえないかもしれません。でも、「第二レベル独学」の可能性は、広がっているようにみえます。むしろ必要に迫られているのではないでしょうか。飲み屋のたわいのない会話から、独学について考えました。


Letter■ 現代風の学び・師走

・現代風の学び・
私のような世代になると
師事した先生が
他界されることも多くなります。
直接の師弟関係であれば
どこからか連絡が届きます。
しかし、師弟関係が薄い時や
こちらが恩師だと思っているだけだと、
訃報が遅れて届くこともあります。
そんなときは、離れた地で恩師のことを
一人追悼することになります。
独学には、そのような心の通った師弟関係が欠如します。
独学とは、もしかするとドライな
現代風の学びの様式なのかもしれませんね。

・師走・
今年も残すところあと1月となりました。
大学の講義も半分を終えました。
まだまだ先は長いのですが、
大学での通常のペースを保って
過ごせるようになって来ました。
とはいっても、12月にはひとつの区切りなので
締め切りに追われていきます。
これも師走の風物詩と言いたいところですが、
12ヶ月間、いつもで走り回っているような気がするのは
私だけでしょうか。


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