地球のつぶやき
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Essay■ 118 不便さの中の一貫性:経験の断絶
Letter ■ 象徴の事件・冬間近


(2011.11.01)
  ひとつのことを、最初から最後まですることは、今ではあまりないのかもしれません。ことが複雑になればなるほど一貫した経験は、減ってくるのだと思います。ものづくりだけでなく、実験や研究でも起こっています。最初から最後までの一貫した経験は、ばらばらの経験では得られない何かを与えれくれるのではないでしょうか。途絶する経験の問題を考えていきます。


Essay■ 118 不便さの中の一貫性:経験の断絶

 肉体的な経験、リアルな経験は、人間が生きていく上で重要な素養です。しかし、時代が進み技術が発展してくると、機械やコンピュータに任せることが多く、実体験が減少してきます。その結果、どのような問題が起こるのでしょうか。会社や教育現場での問題は、多くの識者がすでに指摘するところでしょうが、あまり顕在化していませんが、研究の場で起こりつつあるのでないかと危惧しています。はっきりとした統計は示せないのですが、感じていることを紹介します。
  もう、30年ほど前になりますが、私が学生や修士課程の大学院の時代の話です。映画に出てくるような昔風の怪しい実験室のごくと、ビーカーやフラスコ、ガスバーナーなどが並んでいるところで、実際に実験をしていました。今では研究室も綺麗になったのですが、一昔まえの実験室は昔の映画のセットそのままのようでした。また、地質学特有の作業ですが、グラインダーや岩石用カッターなどが並んだ作業場で薄片製作をすることも、重要な研究の一環でした。昼間は、そのような場で肉体的作業をして、夜になるとデータから考えたり、薄片の記載をしました。研究にかかる時間が長く、研究室や大学にこもる時間が生活の体部分を占めることになりました。それが研究にのめり込む環境にもなっていました。
  研究者を目指す学生や大学院生は、その分野特有の手法、あるいはその研究室の保有する各種装置の操作法や実験方法を身につけることが、重要な基礎素養となります。それらの素養は、研究者になるための手順として必要なのですが、実験プロセス自体は研究成果には直接関係があるものではありません。欲しいのは、実験結果というべきデータなのです。
  私は、昔ながらの実験室で分析の仕方、薄片の作り方を、習いました。授業でもざっとはやりますが、自分の研究としてデータが欲しいときは、先輩の大学院生に手取り足取り教えてもらっていました。厳しい先輩、優しい先輩、頼りになる先輩、それぞれの特技と共に個性を持っておられました。先輩を選り好みできることなく、ある技量はある先輩に習うことになります。そして気の合う先輩とは、親しい付き合っていくことになります。
  自然科学のデータは、技術や熟練を要することが多く、肉体的にも疲れる修練を積まなければ、精度の良いデータを出すことはできませんでした。多数の薄片を短時間で失敗することなく作成したり、精度のいい分析値を出したりする先輩は、尊敬に値するものでした。自分自身が熟練する頃には、後輩ができて、彼らにその技術を伝承することになります。こんな繰り返しが伝統として、それぞれの大学にはありました。多分、今もあるのでしょう。
  時代と共に実験室も変化してきました。大学院生の頃当たりから、高価な分析装置が急速に導入されはじめます。分析装置も、当初は手動で操作するものが多く、それなりの熟練を要するものでした。分析装置の精度や操作性は著しく向上し、コンピュータの進歩や普及と相まってコンピュータ・コントロールされた分析装置につぎつぎと改良されていきました。
  大学院からOD(博士の学位取得後にまだ職がなく研究生として大学に滞在している人たちのこと)、学術振興会の特別研究員の時代へと、そのような革新的な進歩が次々と起こりました。時代はバブル景気で、高価な分析装置も大学に多数導入できるようになりました。その変化は、激しいものでした。
  多くの大学の研究室に分析装置が普及し、操作さえ間違わなければ、だれでも同じ精度のデータを大量に出せるようになったのです。若手の頃の私は、そのような変化の渦中にいて、激動を目の当たりにしました。私より若い世代の研究者は、苦労した時代を知ることなく、分析装置の出す結果やデータを、簡単に手にすることになります。一方、年配の教授たちは装置の進歩やコンピュータには適応しきれませんでした。しかし、能力ある教授たちは、大学院生や若手研究者と組んで、実績を積み上げていました。時には若手を手足のごとく使いこなす人もいます。教授のデータを出すことに専念する若手研究者、コンピュータやそのプログラミングにのめりこ込んでいく若手研究者もいました。
  理想からいえば、研究者は、装置の操作を知らなくても、必要なデータを手に入れれば、研究自体は成立します。私が駆け出しの頃、欧米の恵まれた研究室で修行された先輩の話を聴きました。設備の整った欧米の研究室では、テクニシャン(技術補佐員)が多数いて、装置の維持管理、時にはデータも出してくれることもあるということなどを聞いて、羨ましく思ったことがありました。研究者は、試料の採取、吟味をして、必要なデータは指示すれば得られる環境があるというのです。それなら、研究者は簡単に論文を多産できるだろうと思っていました。
  時代と共に、分析装置や実験装置の完成度が上がり、高機能化、高精度になりながらも操作性は良くなってきます。データも昔と比べれば、大量にそれも熟練度に関係なく精度の保証されたもの、精度も格段に上がったデータが得られるようになります。もちろんプログラムも進化していて、初心者でも簡便に操作でき、精度のいいデータが出せるようになってきました。それなりの訓練も必要でしょうが、マニュアルを読めば、だれでも操作が可能になりました。
  かつてデータを得る作業自体が大変だったころは、試料を渡したらデータがでてくればどんなに楽だろうと思っていました。それが技術の進歩のお陰で達成されつつあります。古い時代の研究風景を知るものからみると、データの理想郷の出現です。
  では、今の若手の研究者は、大量のデータを出して、良質の論文を量産しているでしょうか。どうもそうではなさそうです。確かに論文一編当たりに使用されるデータは大量です。そして、一人あたりの論文数も増えました。論文数の増加は、社会状況からの要請によるもので、質の低下は否めないでしょう。さらに、データの理想郷が出現したから、成果が増えたわけでもなさそうです。
  多分、一流と呼ばれる研究者は、データの桃源郷の住民になることは可能だと思います。彼らも一流になるために、さまざまな修行や経験をしてきたはずです。調査、試料採集、試料選択、分析、考察という一連の経験によって、得たデータの重要性や有用性を体感できるから、データの桃源郷で論文が書けるのではないでしょうか。彼らも生まれながら住人ではないから、データの桃源郷のありがたさや危なさも知っているのだと思います。
  現在の科学は、何十人もメンバーによる巨大な実験装置や複雑な分析装置の開発や運用をすることも増えました。地質学でも、専用の調査船や先端施設に付属する分析装置なども利用します。先端で研究している人は、装置の開発やプログラム自体の作成もおこなっているので、創造性は遺憾なく発揮できるでしょう。
  一方、普及した装置を使って分析をしているその他多数の研究者は、データを出すことが簡単になった分、それ以外の部分に創造性を発揮しなければなりません。創造性は、どのようなデータを出すか、何のためにデータが必要かなどの分析以前の場に求めるか、データをどう使うのか、データで何を証明、検証するのかなど、分析後に発揮することになります。しかし、創造性の発揮は、だんだん困難になってきているのではないかと思えます。簡便化が、経験の断絶を生み、生産性を妨げているのではないかと感じています。
  データをだす作業は簡便にこしたことはありません。しかし、ブラックボックスのような簡便な分析装置を導入することになります。本来データを得るためにすべき経験が欠如していきます。このような経験の断絶が、研究の生産性に影響を与えているのではないでしょうか。もし、野外調査とき見えている試料から欲しいデータが取り出せたら、あるいは試料を入れて欲しいデータのキーを押せばデータが出てくるとすると、どうでしょう。ベテランの熟練した研究者にとっては、それは桃源郷になるでしょう。しかし、初学者にとって、それは経験を奪い、試行錯誤を繰り返しを奪い、苦労の末結果を得る喜びを奪い、データの貴重さの実感を奪うことになります。データの桃源郷はこんなチャンスをすべて奪ってしまったのです。便利さを追求していった究極にたどり着いたデータの桃源郷は、不毛の地になりかねません。
  これは、私がいた地質学のだけの世界の話ではありません。経験の断絶だけではなく、経験自体の不足が警告不足を招くこともあるのではないでしょうか。人類が快適さ便利さを求める本能と、それを満たしてきた文明が、時間と共に創り上げた桃源郷なのです。桃源郷では消えてしまった、快適さや便利さの背景にある危険、不安、不便から学ぶことがあったはずです。いや、それらのマイナス面からこそ、私達人類は学んできたはずです。昔の戻れとはいいません。不便になれとはいいません。でも、手作業やゆっくりさ、不安定さなど、マイナス面をもったものを愛し、大切にする心が、そしてなによりもそれを経験することが必要ではないでしょうか。そのような経験こそが、桃源郷を味うために必要なものではないでしょうか。
  地質学では、幸いながら今もまだ、泥臭い野外調査、非効率な試料収集や、手間のかかる試料の前処理が、分析にいたるまで必要です。まだまだ手作業で修行のような繰り返しがあります。そこでは経験を積み上げています。ところが、データを得た後の処理は、昔は手作業でしたが、今ではすべてコンピュータでおこないます。データを十分吟味していく経験が途絶しそうです。特に初学者には危険な落とし穴になりそうです。考えるという作業は継続してありますが、あちこちで経験の途絶が進行しています。このような経験は、論文に書かれない、研究者自身の心に関わる問題ですが、それが致命傷にならないことを願っています。


Letter■ 象徴の事件・冬間近

・象徴の事件・
地質学は野外調査をしながらも、
研究室では高度の分析装置を駆使して
データを得て論文を書きます。
しかし、最近では一人の人間が
あれもこれもすることがだんだん大変になってきました。
野外で調査をして論文を書く研究者。
野外では試料採取だけをして
分析に主眼を置く研究者。
それぞれの得意な面を持ちながら
研究を分業していかねばならない時代になったのかもしれません。
しかし、人からもらった試料を高精度の分析をして、
最古の生命の痕跡を発見をしたという論文が書かれ、
話題になったことがありました。
しかし、その試料はマグマが固まった
火山岩であったことが後に判明して、
その結果が否定されたことがありました。
どのような経緯があったかは知りませんが、
分析の複雑化、高度化などがあり、
一人の研究者があれもこれも出来ない時代になったことを
象徴する事件なのかもしれません。
しかし、その背景に経験の断絶があるのかもしれません。

・冬間近・
いよいよ11月になりました。
今年の残すところ2ヶ月なりました。
とはいっても、大学では後期が始まって
1月少々しかたっていません。
ですから、まだまだ後期はこれからという思いです。
でも、北国では、もう冬が間近にせまっています。
里でもいつ初雪があっても不思議ではありません。
北国の短い秋が終わろうとしています。


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