地球のつぶやき
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Essay■ 117 科学の再現性と歴史性:因果律の尻尾
Letter ■ 本来の姿に・北国の秋


(2011.10.01)
  科学では、いいえ人間の考え方において、因果律は当たり前の前提として受け入れられています。ところが、因果律は、科学的に検証もされていませんし、論理的にも正しさを証明することは、なかなか困難なようです。科学は、そんな因果律の尻尾を捕まえる挑戦をしています。


Essay■ 117 科学の再現性と歴史性:因果律の尻尾

 先日、光速を越えたニュートリノが観測されたというのニュースが流れました。その真偽のほどは、今後検討されていくでしょうが、もしこれが本当であれば、物理学だけに留まらない大きな課題を提供することになります。因果律が敗れる可能性があるのです。
  このニュースを聞いて、因果律と科学の方法について考えが及びました。
  因果律とは、過去の原因によって結果が生じるという因果関係が成り立つという考え方です。当たり前すぎてだれも疑問を感じないほどのことです。因果律とは、非常に一般化された概念で、常識ですし、一種の信念ともいうべきものになっているのかもしれません。ところが、少なくとも科学の世界では、因果律は検証された論理ではありません。今のところ、因果律を破るものはないという経験則によってのみ、保証されているものです。今回の実験によって、覆される可能性があというのが、このニュースの重要性です。
  以下のエッセイでは、因果律は一般的な概念に対して用い、因果関係は個々の事象に起こっている原因と結果を関係を示すものとして、区別して記述していきます。
  人は、因果律を前提にしてすべての物事を考え、生活しています。逆に、因果律を破るような考え方は、できないようになってます。それほど、因果律は、私たちの考え方において不可分で絶対性をもつものです。自然科学の研究も、因果律のもとに営まれています。
  自然科学とは、個々の事象に見え隠れする因果律を、それぞれの因果関係として方程式や法則、規則などに、個別に定式化することといえます。
  科学のある分野では、実験が非常に重要になります。今回のニュースも実験によるものです。実験にもいろいろなものがありますが、その目的は、ある事象間における因果関係を、定性あるいは定量的に実証することだといえます。あくまでも個々の事象の因果関係であって、因果律総体を検証、論証するものではありません。
  自然現象には、固有の時間に制限を受けない因果関係もあります。物理現象や化学現象の多くは、それにあたります。物理学や化学では、ある因果関係を見出した実験結果が提示されると、その検証のために、別の実験装置(場)、別の研究者(人)、別の条件(環境)による再現実験が非常に重要な役割を持っています。ある時、ある所で、ある人だけが見出した因果関係は、普遍化できません。もしかしたら、その研究者の思い違いやミスかもしれません。そのような誤謬が混入することを、再現性の確認実験によって排除できます。再現実験によって検証された現象は、時空を越えた因果関係によるものと保証されます。このような自然科学を、このエッセイでは再現的自然科学と呼びましょう。
  抽象的な話しばかりですから、例を上げておきましょう。
  振り子を考えましょう。だれもが小学校や中学校の実験でやった思いますが、振り子の周期(一往復の時間)は、振り子の長さだけに依存しています。正確には長さの平方根だけに比例(周期=2π√(長さ/重力加速度)という公式)します。振り子時計を思いうかべていただければ、理解できるのではないでしょうか。
  ある再現性が、ある因果関係によって「実証」されれば、原因を人為的に変化させ、さまざまな条件でその因果関係が成り立つことを「検証」できます。二番煎じではありますが、科学における「検証」という重要な役割となります。再現的自然科学では、因果関係の「実証」が重要な目的となります。
  振り子の例でいえば、振り子の錘の重さや、振れ幅を変化させても周期は一定であることがわかります。振り子の等時性と呼ばれているものです。一見常識に反するようにみえますが、実験すれば、だれもが同じ結果を得られます。
  因果関係の証拠をいくら大量にそろえても、因果律の正しさを証明することは、残念ながらできません。そこには、帰納法の論証と同じ困難さがあるのです。因果律を証明するためには、すべての事象における因果関係を調べていき、因果律が破られていないことを検証するしかありません。現実的には不可能な検証です。因果律の破綻は、たった一個、確実な反例が示せればいいのです。今回の光速を越えるニュートリノの発見は、その因果律の反証になりえるのです。重要な報告なので、再現性を検討する必要があるのです。
  一方、歴史性のある現象では、因果律に則ってはいるのでしょうが、再現性が原理的に検証できません。例えば、生物の進化や地球の歴史などは、実験不可能ですから、因果関係を抽出することは困難でしょう。このような不可逆な時間の流れよる事象における科学を、ここでは歴史的自然科学と呼びましょう。
  歴史的自然科学では、どのような研究手法がとられているのでしょうか。いくつかのアプローチがありますが、最近、高速のコンピュータを用いた計算機実験(シミュレーション)がいろいろおこなわれています。要素還元的に抽出した初期条件を前提に、デジタル空間での擬似的な計算機実験を行うことになります。まさに仮想実験です。要素還元的ではありますが、因果関係を推定するには、有効な研究手法であります。しかし、シミュレーションでは、現実の現象を再現しているわけでもなく、「検証」したわけでもありません。あくまでも、仮想です。
  もう一つの歴史的自然科学のアプローチとして、過去の生物起源物質や岩石や鉱物を分析や記載する方法があります。特別な化学成分の分析をすれば、形成年代や変化を受けた年代などを調べることも可能です。歴史的自然科学では、時間ラベルは非常に重要です。時間ラベルは因果関係の前提となるものだからです。ところが現実には、時間分解能はそれほど高くなく、古い時代(地質時代)の因果関係の時間差を示すほどの精度はありません。
  ただ、地層の上下関係で、順序を読み取ることができます。それにより、順序に基づいた事象の配列ができます。順序は、因果関係を保証するものではありませんが。
  さらに、分析データから、その物質の属性を詳細に記載することができます。それらの属性から、因果関係を限定したり、推測することになります。しかし、その物質を形成した事象を、再現して再構成することは不可能です。
  振り子と同じように、貝化石を例としましょう。
  ある種類の貝の化石がたくさん産出する地層があるとしましょう。地層の上下関係が判明したら、下位ほど古い時代に形成され、上位ほど新しくなります。地層ごとに出た化石を並べていけば、順序に基づいた配列になります。似た化石で形態に系統的変化が見られたら、そこに因果関係があった可能性があります。もし同時代の近隣地域でも、同じよな結果がみられたとすれば、因果関係があるという傍証になりそうです。
  歴史的自然科学では、真実は藪の中です。もし別種なのに、たまたま似たものが混じっていたとすれば、誤認が必然的に生じます。意地悪に考えれば、別種が混入する条件が常に存在するというようなことがあれば、決して取り除けない間違いが出現します。極端な例かもしれませんが、歴史的自然科学では、そんな不確かさは常につきまといます。
  因果関係の保証されない事象における規則性は、論理的に正しいという保証はありません。これは、いくら記載データを増やしても、正さにはたどり着けませ。時間は不可逆な流れなので、その流れの中で起こった現象は、再現することができないからです。簡単にいえば、過去の事象は二度と繰り返されない、ということです。
  今まで述べてきたことから、歴史的自然科学が目指すべきものは、「再現性のある因果関係」の追求ではなさそうです。では、何を目指しているのでしょうか。
  歴史的自然科学のどの結果も、因果律や因果関係を否定するものではありません。再現的自然科学では因果関係が検証できますが、歴史的自然科学では検証できません。歴史的自然科学では、因果関係を保証するものすらほとんどありません。時には、因果関係がない似た事象が混入しているかもという不安もあります。ただ順序だけが確かな事象があるだけです。
  徹底した分析、順序のある膨大な記載によって、「見かけの因果関係の連続」が見出せるでしょう。「見かけの因果関係の連続」から、あわよくば「因果律の尻尾」が発見ができるかもしれないという希望です。
  うまいいい方はできませんが、ぱたぱたマンガを高速でみると、動くアニメーションとして連続的な動きに見えるように、長く延びる破線も遠くから見れば実線にみえるように、因果関係が浮き出るのではないでしょうか。多数の記載を並べ、遠目でみると、過去の一連の事象にストーリー(見かけの因果関係の連続)があるかように見えるのではないでしょうか。そのストーリーを確認するのが、シミュレーションです。
  さまざまな時代、さまざまな地域のストーリーに乱れがないのなら、その歴史絵巻(因果律の尻尾)は成立していると見なせるかもしれません。そのストーリーを読み取り、シミュレーションによって仮想検証を振り返すことが、歴史的自然科学の役割ではないでしょうか。順序だった大量の事象を、今よりもっともっと大局的に眺めると、歴史の必然性と偶然性、そして因果律の尻尾が見えるのではないでしょうか。
  ニュートリノの超光速のニュースから、こんなことを考えてしまいました。


Letter■ 本来の姿に・北国の秋

・本来の姿に・
もう10月です。
大学の夏休みもの終わり、
校内に若者のざわめきが復活してきました。
大学の後期の授業のスタートです。
同じよう見える学生群も
個々にみれば言動に違いがあり、
個性があることがわかります。
一方、学生の経年変化を教員は語りがちです。
それも、上の例でいうと歴史的事象の大局になるのでしょうか。
それとも、因果律の外のことでしょうか。
まあ、いずれにしても学生で賑わうキャンパスが
本来の姿なのです。

・北国の秋・
いよいよ北海道の秋も深まってきました。
初雪の便りも聞きます。
里の木々も少しずつ色づいてきました。
深まる秋の中で、北海道では
今年最後の収穫の季節を迎えます。
東北の被害を補えるような収穫があのでしょうか。
そんな不安要素を伴う秋です。


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