地球のつぶやき
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Essay■ 90 類似性と同一性の迷宮:差異の言語化
Letter ■ 迷宮への誘い・北海道の初夏


(2009.07.01)
  雨の日に葉の上にできている多数の雫を眺めると、類似性ばかりに目がいきます。どんなに似ている雫でも、どれも別物で、似て非なるものです。累々とした地層があるとき、そこに類似性をみるのは簡単ですが、そこに差異を見出し記録することは、なかなか大変です。なぜなら、人はものごとに類似性を見出すようにできるからではないでしょうか。差異は言語化して、はじめて記録され、そして記憶となります。類似性と同一性の迷宮は、なかなか抜け出せないもののようです。


Essay■ 90 類似性と同一性の迷宮:差異の言語化

 私は、自宅から大学まで、毎日、徒歩で通っています。朝、写真を撮りながら歩るいています。晴れの日はもちろん、雨の日も、雪の日も、歩いています。雨の日や雨上がりのとき、葉や草についている雫を、ついつい撮ってしまいます。
  雫は、丸く幾何学的に見えますが、多様性があり、さまざまな表情を持っています。葉の先端から垂れ下がっていたり、葉の上で多数の玉となっていたり、葉の茎に雫が並んでいたりするのが、不思議で魅力を感じてしまいます。それぞれの雫は、真球ではないのですが、水の表面張力よって丸くなっています。それが光を浴びて輝いていると、ついつい写真を撮りたくなってしまいます。
  先日も、雨の中を傘をさして歩いていたのですが、雫の写真を撮りながら、考えてしまいました。
  コブシの葉っぱの上にできた雫が、多数の球になっています。そこに、光があたり、反射して白く輝きます。私が歩いているとき、いつも見ている葉っぱなので、朝はいつもある角度で反射していることも知っていました。ところが、その日は、雨で光量が足りなったのでしょうか。光のさす角度が違っているためでしょうか、それとも傘の陰になっていたためでしょうか、雫が輝いていませんでした。雫は、こぶしの葉っぱの上で、いつも「同じ」ように光っているはずのところが、その日の雫は、いつもと「同じ」雫ではありませんでした。
  そこで、ふと気づきました。そもそも、前に見た雫と今回の雫は、別のものであることを。
  以前見ていた雫と目の前の雫は、まったく別のものです。詳細に見れば、大きさ、形、水の微量成分も、水の由来も違っているはずです。このコブシの葉っぱだって、毎年のようにこの木に茂っていますが、去年のものとは全く違っています。そう、すべて「同じ」ようにみえても、別のところから由来した物質によって、世代を交代していて、時間を経過してここに至った異質なものなのです。あらゆる点、いろいろな階層において、「同じ」ものではないのです。つまり、似て非なるもの、今だけここだけに存在する特異性をもったもののはずなのです。
  ところが、別の時間であっても、「同じ」ような条件で、「同じ」ような場所で、「同じ」ようなものを見せられると、以前見た既視感でしょうか、「似た」ではなく、ついつい「同じ」、同一と判断してしまいます。抽象化された以前の記憶と、今、目の前にあるものの類似点が多数あれば、「同じ」と判断してしまいます。記憶と実在との対比は、類似性を強調してしまうのではないでしょうか。
  そのような類似性の強調は、記憶と実在の対比においてだけでなく、記録における実在間の識別においても起こっているようです。
  土石流や海底地すべりなどによって生じたタービダイト(混濁流とも呼ばれます)によって、土砂が運ばれ、海底に堆積します。タービダイトによって、土砂が堆積するとき、粒径の大きなものから小さいもの、つまり砂岩から泥岩へと粒度変化したものが、ひとつのセットとなって堆積します。これが地層のでき方となります。そのようなタービダイトが頻繁に起こる環境の海底があれば、砂岩から泥岩のセットが、同じような周期で繰り返される地層の並び(互層と呼ばれています)が形成されることがよくあります。日本列島でみられる多くの地層は、このようなでき方で形成されています。
  互層は、遠目でみると、「同じ」地層が累々と連なり重なっているように見えます。しかし、近づいて見ると、それぞれの地層は、厚さも、砂岩や泥岩の割合も、中の構造も、二つとして「同じ」ものはありません。もちろんできた時期、条件、物質も、地層ごとにまったく異質のものです。やはり、似て非なるもの、類似してはいますが同一のものではないのです。
  そもそも人の目によるものの識別能力は、非常に優れています。特に並べて比較するときには、その威力を発揮します。高性能の分析装置に匹敵するほどの能力を持っています。それが、いつでも、どこでも使えます。目は、その識別能力の高さゆえに、比較することによって、類似性よりも、特異性や差異が強調されるはずです。なのに、人は、なぜか、対象間に類似性を見出してしまいます。
  これが、先ほどの雫の話と対応します。昨日の雫と今日の雫は、「同じ」ものではありません。これは、隣り合った2枚の地層が、全く時間も由来も素材も、別物で「同じ」ものではないのと通じます。2つの似たものに類似性を見出すという点において、共通するものがあります。昨日の雫は実体のない記憶なのですが、地層は実体として実在するものです。
  ところが、記憶であろうが、記録であろうが、実在しようがしまいが、そこに類似性を見出すことに違いはないようです。高度の識別能力があるのにかかわらず、類似性ばかりを見つけてしまいます。人は、簡単に見分けられる差異を持つ類似物が多数あると、そこに差異より類似性を、特異性より普遍性を見出してしまうようです。そこには、人の抽象化能力が働いているのではないでしょうか。
  差異は、個性につながり、固有性や独創性につながるはずです。ですから、類似性を探るより、本来なら特異性や差異に注目すべきはずです。しかし、漠然とものごとを見てしまうと、抽象化が行われて、記憶や記録がなされます。そもそも抽象化とは、そのものごとの特徴を抽出すること、特異性を取り除き共通性を見出したものです。その作業過程で、かならず自分の記憶との比較をしています。つまり類似性を探るという作業を脳内で無意識におこなっていることになります。個性や特性性を記録しているつもりが、記憶の中の類似物との対比がなされていき、最終的に類似性のひとつとして処理されてしまいます。そして、その類似性の記憶は蓄積され、次なる類似性の対比へと利用されていきます。
  特異性や差異を見出すためには、時間をかけて、言語化し、記録していかないと、差異として後の対比に使われるような記憶になりません。差異を言語化することです。それがなかなか困難な作業になります。その困難さを克服するために、意図や目的を持つことが重要になります。意図や目的がないと、特異性や差異を言語化できないかもしれません。なぜなら、人には強力なる識別能力があるので、非常に些細な差異さえ見分けてしまうからです。その膨大な差異から言語化すべき順位付けが、意図や目的があれば、可能となります。差異は意図しなければ生み出せないのです。
  私は、今日も漠然と雫を眺めます。上で述べたようなことを考えても、また、類似性と同一性への迷宮へと入り込んでしまいます。そこに言語化すべき意図や目的もないし、必要性もないからでしょう。雫の類似性と同一性の迷宮は、私にとってこれからも心地よい所となっていきそうです。


Letter■ 迷宮への誘い・北海道の初夏

・迷宮への誘い・
繰り返される地層に、私は魅力を感じます。
そこには、雫に魅力を感じるのと
共通したものがあるのかもしれません。
地層は見れば、それぞれの個性、差異は見分けられます。
しかし、目的がないために、
繰り返される地層として記憶に残されています。
そんな地層の各地の記憶が、私の中に残されています。
そして、新しい地層の情報があると、
ついついそこを見てみたくなります。
類似性の迷宮への誘いでしょうか。

・北海道の初夏・
いよいよ7月です。
本州は梅雨の真っ只中でしょうか。
北海道も6月下旬からやっと、
晴れ間がのぞくようになりました。
6月は、日照率も低く、曇りの日が多くなりました。
でも、下旬から晴れ間がのぞきだし、
やっと夏らしい日が訪れるようになりました。
梅雨のような蒸し暑い日もありますが、
からりとした北海道らしい初夏かきました。
北海道で私が一番好きな季節がきました。


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