地球のつぶやき
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Essay■ 81 生命の宿るもの:生命論
Letter ■ 授業スタート・秋


(2008.10.01)
  生命という言葉、なにか生物の違ったニュアンスがあります。生物が実体があるのに対して、生命は生物の中に宿っている目に見えない何かのような意味合いに使っています。生命という不思議なものについて考えていきましょう。


Essay■ 81 生命の宿るもの:生命論

 生物の定義は、なかなか難しいものです。前回のエッセイでも取り上げたように、生物なら満たすべき条件を示すことは可能で、多くの生物はその条件を満たしています。たとえば、個体、代謝、複製、進化というキーワードを、必要条件としてして挙げることはできます。
  しかし、本当にそれで生物の定義を完全にできたかどうかは、怪しいものです。なぜなら、生物の十分条件を挙げることができていないからです。「生きている」ということは、先にあげた必要条件でだけではすまない、やはり神秘的な部分があります。その神秘的なものを「生命を宿す」などと表現しているのではないでしょうか。生物は「生命を宿す」ものといえます。「生命を宿す」かどうか、つまり生きているかどうかは、直感的にわかるようなものもあるのですが、生死の境界があやふやな生物もいます。
  生物も生命と呼ぶと、とたんに曖昧模糊としたものになりそうです。このような疑問は、私だけのものではなく、昔から悩んできたものです。たとえば、「霊魂」という言葉があります。霊魂とは、「身体内にあってその精神・生命を支配すると考えられている人格的・非肉体的な存在」(広辞苑)として、生きているものにあり、死ぬと肉体から抜けていくものと捉えられていました。人間だけに霊魂があるのではなく、生物全部にあるという考え方もあります。
  このような生命について考えることを、生命論(あるいは生命観)と呼ばれてきました。もちろん、生命をどう考えるかは、科学の発展によって変わってきます。
  西洋では、そのような霊魂の存在を認める立場で、生気論(活力論ともいう)という考え方がありました。生気論は、古くからある考え方で、生物に非物質的な「生命力」と呼べるようなものが存在していて、無機物とは異なった現象をおこすという考え方です。
  生命論には、三大問題がありました。
1 無機物からの生物の発生が可能か
2 個体発生は前成か後成か
3 生物の種は不変か、それとも進化するか
の3つです。今では、これら3つの問題は、生物学の問題として解くことになります。かつては、この3つの問題でどの考えをとるかは、キリスト教の教義にかかわる重要な問題でした。キリスト教では、神が生物をつくり(1は生物の発生はない)、個体発生は前成説で、種の不変という立場でした。
  1の問題には、2つの側面があります。ひとつは生物の起源と、もうひとつは個々の個体の発生の問題です。
  個体発生において、無機物から生物が発生することを自然発生といいます。生物の自然発生については、L.パスツールが1862年におこなった有名な「白鳥のくびフラスコ」の実験によって否定されています。空気だけが出入りする長く細いフラスコを使って行われた巧みな実験です。フラスコの中に生命が自然発生しそうな条件(栄養や環境条件)を与えたのですが、生物は発生しないという実験でした。この実験によって、個体の自然発生がないという決着がつきました。
  では、生物は自然発生をしないのなら、神がつくったのかということになります。現代の科学は、それは否定してます。しかし、残念ながら生物の起源について完全な答えは、まだ出ていません。ただ、1936年、オパーリンによって科学的研究の方向性が示され、1953年におこなわれたユーリーとミラーの原始生物の誕生に関する実験によって、生物起源も科学的に探究できる可能性が示されました。以来、いろいろな実験が行われ、生物起源に迫ろうとしています。しかし残念ながら、科学的に生物起源のシナリオは、まだ完成していません。
  2の問題の中にあった前成と後成というのは、聴きなれない言葉です。生物の個体発生のときに、成体の原型が卵・精子あるいは受精卵にすでにあるというのが前成で、もともと特別は構造はなく受精後いろいろな器官ができて最後に成体になるというのが後成です。
  2に関しては、キリスト教の重要な論理的指針をつくったアリストテレスは、後成説をとっていました。顕微鏡ができて、受精卵の観察ができるようになると、後成説を示す証拠が見つかってきました。ですから、現在の科学では、前成説は否定され、後成説となっています。
  3の問題については、ダーウィンの「種の起原」(1859年)よって進化の考えが提示されて以来、科学は多数の化石などの証拠から進化が起こっていることを示しました。
  でも、よく考えると、これら3つの問題も、実は生物の必要条件を検討していることになります。科学とは、必要条件を求める行為なのかもしれません。
  科学の発展にともなって、17世紀ころの西洋では、生物は一種の機械とみなす「生命機械論」が生まれてきました。生命機械論とは、生物の現象を最終的に物質現象として理解していこうという立場で、今の科学のアプローチと同じものです。
  デカルトは、「人間論(1633年に書かれたのですが、この年のガリレイ宗教裁判を知ってその発表を断念しています)」や「方法序説(1637年)」の中で、生命機械論を展開しています。「方法序説」では、動物を「ゼンマイをまいた自動機械」と書いています。ですから、霊魂の存在を議論することなく、生物を機械として解明していこうという考え方でした。魂(アニマ)の存在は認めながら、植物も動物も人体も機械と同様の物体であるとしました。そして、最終的には、科学と宗教を分離しようという主張になります。
  その後も、生命機械論は受け継がれ、ラ・メトリーの「人間機械論」(1748年)では人間の霊魂をも否定し、生命機械論を徹底していく立場のありました。当時、このような生命機械論は、少数意見で、反キリスト教の危険思想でもありあまり受け入れませんでした。
  18世紀後半から現在まで、生命機械論は還元主義的機械論となっていきます。生命現象は、究極には物理的、化学的現象であり、物理的、化学的法則によってすべて解明できるという考え方です。そこでは、特殊な生命力や霊魂などというものは認めていません。
  さらに、F.ウェーラーは1828年に無機化合物から尿素を、A.W.H.コルベは1845年に酢酸を合成しました。それまで生物しかつくりえないと考えられてきた有機物が化学的に合成されたのです。これらの実験によって、ますます、生命力や霊魂などが必要でないということになりました。
  19世紀後半に、エンゲルスが弁証法的唯物論の立場での生命観を論じ、その考え方が、20世紀の唯物論者に引きつがれた。そして今の科学へとつながります。
  もちろん、そのような考え方に批判的な立場もあります。たとえば、デュ・ボア・レーモンは、機械論的立場を取りながらも、宇宙の究極には不可知の問題が残るはずだとして、単純な唯物論的理解を批判した。20世紀初頭になると、各種の現代的な生命論が現れました。H.ドリーシュは、1899年に生気論に立つことを表明し、「有機体の哲学」(1909年)で新生気論を展開し、動物の調和した現象を成り立たせる超物質的原理が存在するとしました。ほかにも、J.C.スマッツやJ.S.ホールデンの全体論(holism)、ベルタランフィの有機体論などが現代の生命論としてあります。
  20世紀後半には情報理論の分野が発展してきて、生物学にも広く適用されてきました。そのから、生物の個体を自動制御機械とみなすような考えもできてきました。たとえば、ウィーナーによる生体を自動制御のシステムと見なすサイバネティックスや、ベルタランフィの一般システム理論、人間を一種の有限自動機械(ファイナイト・オートマトン)とする見方などが、広がってきました。
  今後も、生物に関する現象は、科学の進歩によってますます詳しくわかっていくはずです。しかし、やはりどうしても解けない、理解しがたい存在して「生命」は残るような気がします。生物を生物たらしめるなんらかの存在、まさに生命力や霊魂のような存在を認めるか否かの選択に、最終的になりそうです。


Letter■ 授業スタート・秋

・授業スタート・
わが大学も、いよいよ後期の講義が始まりました。
またあわただしい日々が続きます。
わが大学は、他の大学に比べて、
後期のスタートが1週間遅くなっています。
でも、いよいよ講義が始まります。
これが大学の日常といいうべきものでしょうが、
やはり長い休みから講義が始まるときは、
つらいものがあります。
これが重要な本務ですから手を抜くことができません。

・秋・
今年の夏は例年なみの気温でしたが、
9月の中旬から北海道は、
急に冷え込みだしました。
朝夕は寒く、上着がないとすごせないほどです。
まだストーブはつけていませんが、
寒がりの人たちは、もうつけているかもしれません。
ところが、我が家の次男は、まだ半袖でいます。
家内がいくら言っても半袖を着ようとします。
風呂上りには、暑いといって、上半身裸です。
とうとう家内が半袖をすべてしまってしまいました。
本当に暑いのかもしれませんが、
いくらなんでも、半袖はみるからに寒そうです。
風邪をひかなければいいのですが。


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