地球のつぶやき
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Essay■ 80 生きているとは:生命の定義
Letter ■ 生命論・調査行


(2008.09.01)
  生きているということについては、哲学的な問題として取り上げられますが、今回は、生物学的な見方をしていきます。生きていることについて考えるとき、いたるところに落とし穴がありますから、注意して考えなければなりません。


Essay■ 80 生きているとは:生命の定義

 「生きている」ということは、どういうことでしょうか。なかなかの難問です。多くの哲学者が、その答えを求めて悩んできました。悩んだ末に出された答えは、難解です。だれでもがわかるようには、提示されていません。そんな難問に、気軽に取り組むと、迷路に入り込んでしまいます。そこで、「生きている」目的を問うのではなく、「生きている」ことを定義してみることにしましょう。
  「生きている」ということは、いろいろな考え方ができるでしょう。ここでは、生物が無生物とは違う点として、共通に持っている特性のことにます。生物共通の特性には、いろいろなものがありそうですが、「生命」をもっているということと言い換えられそうです。
  ここでは、「生きている」ことを考えのですが、それを「生命」の定義と置き換えて考えていきましょう。では、その「生命」とは何か。
  私たちが知っている生命は、地球の生命だけです。地球の生命でも、その営みは炭素を中心としておこなわれ、なおかつ私たちが生命とみなせるものだけです。もしかすると、地球には私たちが知らない、あるいは知り得ない生命がいるやも知れません。
  生命の中で私たちが扱うことができるのは、「(地球)生物」だけです。これ以外の「ガイア(地球生命)」や「地球外生物」、「デジタル(人工)生命」などは、生物学の対象となりません。なぜなら、実体が不明で、実証的な科学では扱えないからです。
  それでは、「生命」の定義をみていきましょう。
  生物学辞典では、生命とは、「生物の本質的属性」で、それは「すべての生物がもっている共通の性質」となっています。これは、このエッセイの前提としてていることですが、答えにはなっていません。
  上の文章でも、生物学辞典の定義でも、「生物」という言葉がでてきました。「生物」は、当たり前に使っている言葉ですが、この言葉も調べておきましょう。生物学辞典で、生物とは、「生命現象を営むもの」とあります。
  この「生命現象」の生命は、上の定義では、「生物の本質的属性」となっていました。「生命」と「生物」は、お互いに相手が定義に依存していて、独自に定義ができていません。つまり、両者が一種の循環論法を用いていることになります。これは、生命および生物の定義が、完全なものではないこと、あるいは非常に難しい問題であることを反映しています。この問題は、長く人類を悩ましてきたことを反映しています。しかし今や、その答えを、不完全ながら出すことが可能になってきました。
  定義を述べる前に、少し考えておくべきことがあります。それは、私たちは、生命というものをなんとなく見分けることができるのではないかということです。定義などできなくても、私たちは、なんとなく直感的に生命を感じとることができます。もしそうなら、わざわざ定義などする必要はありません。
  たとえば、じっとしている茶色い犬と、その犬にそっくりな置物があるとします。両者には、共通点がたくさんあります。茶色い、動かない、4つ足があるなどというようなものを、多数挙げることができるでしょう。両者の決定的違いは、遠目ではわからないかもしれませんが、近づいて見るとわかります。小さな違いは探せばいくらでもでてくるでしょうが、その違いの中には本質あるいは生命にかかわるものが混じっているはずです。それが、私たちには直感的にわかるようなのです。私たちには、犬は生きていて、置物は生きていないという決定的で本質的な違いがわかるのです。
  次の例です。寝ている猫と死んでいる猫がいるとします。これらの違いも、よく見ればわかります。その違いは、探せばいくらでも出てくるでしょうが、私たちには、生きているか死んでいるかが、直感的にわかります。「生きている」、つまり生命があるかないかは、定義など知らなくても、私たちには、直感的にわかるのです。
  実はそこに、落とし穴があります。犬や猫のように、私たちに身近な、あるいは近縁な生物の「生命」のあるなしは見分けやすいのですが、縁の遠い生物では見分けづらくなっていきます。
  植物の枝を切ったします。その枝を生育できる環境に挿せば、挿し木として生命活動をします。しかし、ほったらかしにしたらその枝は枯れてしまいます。では、この枝の、生きていると死んでいるの境界はどこにあるのでしょうか。なかなか難しい問題です。
  タバコやトマトの葉に斑点ができ、奇形でよじれ、成長が悪くなるタバコモザイク病というものがあります。その原因は、現在では、タバコモザイクウイルスであることがわかっています。そのウイルスは、1935年アメリカの生化学者スタンレーが化学的に抽出しました。抽出したものは、なんと高分子の「結晶」となりました。「結晶」というものは、無生物の特徴でもあります。この一見、無生物にしか見えない結晶を、タバコの葉にすりこむと、結晶が溶けて生命活動をはじめ、増殖していきます。そして、葉にタバコモザイク病を起こします。
  ウイルスには、DNAやRNAだけを持ち、タンパク質の外皮に包まれているだけというタイプのものもいます。他の生物などとは、全く違ったシステムで「生きて」います。ウイルスは、他の生物に寄生するまで、生命活動をすることなく、変化することもなく、無生物のような振る舞いをします。ところが、他の生物に寄生し、いい環境が与えられると、活動を開始し、栄養を摂取し、子孫をつくるという生命現象が見られます。
  ウイルスがあまりに異質ですから、生物ではないというウイルス学者もいます。しかし、ウイルスが活動しているときは、明らかに生物としての働きをしています。そのメカニズムは、生物に共通する仕組みによって解明されています。ですから、ウイルスも、特殊な様式を持った生物と考えるべきでしょう。なんといっても、ウイルスを研究しているのは、生物学者なのですから。
  では、改めて生物の定義をしていきましょう。
  生物は、思っている以上に多様です。生物と呼ぶからには、多様性の中にも、何らかの共通する機能や仕組み、方法などをもっているはずです。その共通する働きの総体を「生命」と呼んでいるはずです。すべての生物に適用できる定義はできそうにありませんが、大部分の生物に適用できそうなものならば可能です。
  生物の定義としては、いろいろな表現のしかたがありますが、
・入れ物にはいっている
・食べる
・コピーをつくる
・変化する
という4つの項目をすべて満たすものということになりそうです。
  生物は、「入れ物にはいっている」とは、外界と隔壁をもって区分されているということです。外界との隔壁は、生体膜とよばれるものからできており、材料は脂質です。生物学では、個体と呼ばれます。この個体が定義できることによって、実体が存在できます。実体があれば、科学の対象となります。じつは、個体という概念は、生物の定義に含まれていないことがあります。しかし、生物を語るときに、最初に個体を確立しておくべきだと思います。
  「食べる」とは、「代謝」とよばれます。栄養を摂取し、いらくなくなったものを排出するところまでを含みます。代謝を考えるとき、個体の内外の物質の出入りが基準となります。代謝とは、物理的な言いかたをすると、外から個体内に物質を取り入れ、エネルギー変換をし、外に不要な物質を排出する能力ともいえます。代謝の結果、個体は恒常性(ホメオスタシスと呼ばれます)を維持ことができます。代謝では、限られた種類のアミノ酸からできている多様なタンパク質が働いています。タンパク質は、DNAに書き込まれている遺伝情報を元に合成されます。
  「コピーをつくる」とは、自分と同じ個体のコピーができるということです。つまり、人間的にいうと子供を作るということです。人間のようにオスメスの2種がいなくても、生物によっては、1つの個体が2つに分かれることで、複製をつくることもあります。複製の材料は、4種のヌクレオチドからできているDNA(デオキシリボ核酸)とその部分的コピーであるRNA(リボ核酸)が担っています。
  「変化する」とは、環境の変化に応じてゆっくりとですが、世代を重ねるとともに個体の特性が変わっていくことです。適応とも呼ばれています。どんなに環境が変化しても、いずれかの生物が、その環境に適応していきます。一連の個体が、適応を続けて、DNAにその特性が記録されていくようなメカニズムを、進化といいます。進化があることによって、多様な生物種が形成され、地球の変化に対応して現在まで生物が生き延びてこれたのです。
  これら生物の4つの定義は、完全なものではありません。すべての生物が、4つの条件を必ずしも満たしているわけではありません。生育環境が整わないと代謝をまったくしない種や、複製の仕組みを個体の中に持たないウイルスは、活動していないとき、生物の定義を満たしていません。しかし、彼らも、生物の仲間です。
  一方、生物の定義をいくつか満たす無生物もあります。たとえば、鉄サビは、鉄という「食料」に、水と酸素という「環境」が整えば、自己触媒作用という「代謝」によって、酸化鉄という仲間が「増殖」していきます。もしそれが鉄サビであることを知らなければ、まるで代謝をして複製をおこなっている生物かのようにみえます。でも、これは、無機的な化学反応であって、生命活動ではありません。
  多くの生物は、この4つの条件を満たしています。ですから、生物とは、これら4つの条件を「ほぼ」満たしている物質の総称となります。条件の総称を生命と呼べばいいのです。生物の厳密な定義ができないので、それを反映して、生命も厳密に定義できないのです。生物と生命は循環論法の関係にあるのではなく、生物の定義が不完全なために、それに依存すべき生命が定義できないのです。なぜなら、実態のある生物だけが、科学の対象となるからです。
  生物とは、ある物質に特有の性質を持っているものをいいます。その特性こそが、生命と総称されるものです。物質という実態を伴う性質の解明から生物の定義ができれば、その定義の総体を生命と呼べばいいのです。これが科学的なアプローチといえます。でも、その道は遠そうです。


Letter■ 生命論・調査行

・生命論・
生命とは、なかなか一筋縄ではいかない厄介なテーマです。
非常に抽象的、概念的なものでもあります。
その抽象的、概念的な生命を宿している状態を
「生きている」といってるわけです。
だから完全な定義もできないのです。
生命に対する科学的なアプローチは古くからなされてきました。
生気論や生命論などと呼ばれています。
機会があれば、それについても紹介してきます。

・調査行・
北海道は、8月上旬は暑かったのですが、
お盆ころから涼しくなってきました。
8月下旬には、秋の気配が漂うような
気候となってきました。
今年の北海道は、ここ数年の暑い夏と比べれば、
非常に快適な日々となりました。
私は、例年のように9月になったら1週間ほど調査に出かけます。
今回は能登半島から飛騨の方に抜けていくコースになります。
一人旅で、いろいろ地質を見てきたと思っています。


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