地球のつぶやき
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Essay■ 76 高邁なる知の落とし穴:ソーカル事件
Letter ■ 日本では・ゴールデンウィーク


(2008.05.01)
  自分にはわからないような難解なこと、良く理解できないが著名人の言っていることを、知ったかぶりで人に言うことはないでしょうか。人には、知的にみせたいという見栄もあるし、顕示欲もあります。しかし、高邁にみえるような知に、実は落とし穴が待ちかまえているかもしれません。


Essay■ 76 高邁なる知の落とし穴:ソーカル事件

 人が文章や本を書くとき、研究者なら専門書や教科書を書いたりするとき、ついつい背伸びしてしまうことがあります。例えば、自然科学の内容なのに、古典の一節を引用したり、哲学者の言葉を引用したりすることがあります。引用だけでなく、専門の違う分野の術語、科学的な内容なのに文学的な表現を用いたり、哲学的な術語を用いたりすることがあります。本当の教養として身につけているのであればいいのですが、付け焼刃の知識であれば問題です。文章を高尚に、あるいは高邁にみせるためにとった、無意識な演出かもしれません。しかし、それが行き過ぎると、とんでもないことになってしまいます。今回は、そんな話題です。
  私は、地質学や科学教育を専門としています。しかし、最近は地質学の対象である地層や岩石、それらを研究する方法論、地質学固有の思考方法をより深く考えるために、哲学的に踏み込んでいます。ですから、哲学や論理学などの今までとは違う分野の学問をかじっているわけです。そうすると、地質学の論文の内容であっても、ついつい哲学的な内容や術語の使用して書いてしまいます。自分がしっかりと身につけた範疇で行っている分には、何も問題がありません。しかし、「背伸び」をしたり、「生半可な」知識を振り回すと、そこには思わぬ落とし穴が待ち構えています。これは、心しなければなりません。
  「ソーカル事件」というのを聞いたことがあるでしょうか。欧米では大きなニュースになったのですが、日本ではあまり知られていない事件のようです。ソーカル事件は、ある分野の哲学界や思想界を根底から覆す大事件だったのです。
  ニューヨーク大学の素粒子理論を専門とするアラン・ソーカル教授(Alan Sokal)の論文が、1996年の「ソーシャル・テキスト」という雑誌に掲載されました。その論文が、「ソーカル事件」とよばれるものの発端でした。
  「ソーシャル・テキスト」誌は、当時、人気が高く、著名で、査読者もついている人文学系の雑誌でした。ソーカルの論文は、「境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて」(Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity)というもので、タイトルからも、内容は難解そうにみえます。
  ソーカルは、1994年11月に「ソーシャル・テキスト」に、その論文を投稿しました。彼の論文は、ポストモダンやポスト構造主義と呼ばれる研究者たちによって査読され、多少の修正の後、1995年5月には受理されました。受理とは、内容に精通した研究者が、その論文を読んで、学術的価値があり、その雑誌への掲載にふさわしいという判断が下されることです。つまり、その論文は、学界がある意味で内容保障したということになります。そして、1996年春に、ソーカルの論文は「サイエンス・ウォーズ」という特集号に掲載されました。
  論文の内容は、ポストモダン哲学を批判した論説に対する反論を展開するものでした。彼の論文は、200以上の文献を引用し、大量の注をつけ、本文でも多くの著名な哲学者や思想家の先行研究を引用しています。ソーカルは、ポストモダンに属する高名な哲学者や社会学者の研究を支持しながら、数学や物理学の理論と関連付けて論じました。このような書き方や論文の形式は、他の哲学者、思想家たちもよく行っているものでもありました。つまり、形式的には充分論文の態をなしていました。
  以上は、一般の学術論文が作成され、関連の雑誌に投稿され、掲載されるまでの経緯と同じです。しかし、ソーカルの論文が掲載された3週間後、彼はリンガ・フランカ誌に、その論文がパロディによるいたずらだと暴露したのです。これが「ソーカル事件」と呼ばれるものの核心部です。
  実は、彼が書いた論文の内容は、多数の先人の研究者の論文を引用しながらも、科学的にはまったくでたらめな論理で構成されていました。理数系の専門課程の学生ならだれでもわかるような数学的、物理学的な間違いを含み、でたらめな論理展開、いい加減な科学知識などを、ジグソーパズルのように組み合わせただけのものでした。
  ソーカルは、パロディだと暴露してすぐ、「境界を侵犯すること:あとがき」(Transgressing the Boundaries: An Afterword、これは前の論文と韻を踏んでいます)という論文を、「ソーシャル・テキスト」誌に投稿したのですが当たり前の結果ですが、掲載を拒否されました。その論文では、なぜパロディを書いたのかを詳しく説明するものでした。それで、別の雑誌に投稿され、1996年秋に掲載されました。これらの時間の経過をみると、ソーカルは充分な準備をして、この事件に臨んでいたことが伺えます。
  その翌年の1997年10月に、ソーカルは、ベルギー人の数理物理学者ジャン・ブリクモンとの共著で、「知的詐欺」(Impostures Intellectuelles、『「知」の欺瞞』というタイトルで翻訳されています)という本を書きました。その本では、ポストモダン、ポスト構造主義で中心的な役割を果たしていた思想家たちが、自然科学用語をいかに、いいかげんに使っているかということを、ひとつひとつ引用しながら、具体的に、そして詳細に批判していきました。
  この事件は、舞台となったフランス、パリを中心に、アメリカやイギリスの学界を巻き込んで、世界中で話題になりました。しかし、残念ながら日本で一部の研究者には取り上げられましたが、大きな騒ぎとはなりませんでした。
  ソーカル事件は、なぜ起こったのでしょうか。それは、一つには、ある分野で、その専門を越えた内容にそれなりの形式で言及した論文は、もしかするとわかりにくさゆえに、高尚あるいは高邁な内容に見えるということです。まして、他の専門分野の人が、自分の得意とする分野(例えば物理学)の内容を用いて、別の分野(例えば哲学)の先行研究を充分理解して、形式を満たしていれば、査読者すら、いとも簡単にその罠にはまってしまうということです。
  ソーカルは、自分のパロディによって「無意味な主張や馬鹿げた意見、知ったかぶり、まがい物の教養をひけらかすこと」や「ずさんなものの考え方と薄っぺらい哲学」を「馬鹿馬鹿しい」ことだと示したといっています(田崎晴明氏のホームページより http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fn/)。
  そこまでひどくなくても、私が「背伸び」や「生半可な」と表現した中に、ソーカルが、「馬鹿馬鹿しい」といっているものが多少なりとも含まれているかもしれません。これは教訓とすべきでしょう。
  読む側からすると、難しい内容の場合には、注意が必要だということです。私も哲学の関連を本を読みますが、わかる内容と、わからない内容のものがあります。わかる内容とは、多分だれでも間違いなく共通に理解に達しているはずです。
  一方、わからない内容には、注意が必要です。自分自身の基礎知識や論理的な訓練不足、あるいは読み込み不足などがが一番の理由としてあるはずです。そうであれば、自分自身がもっと努力し勉強していく必要があります。多くのわかならない場合は、それが理由でしょう。
  しかし、ソーカル事件が示したように、わからない内容には、内容が間違っていたり、書いた本人すら理解していなかったりする場合もあります。しかし、有名な人が書いたから、立派な雑誌に載っているから、わからないのは自分のせいだと思ってしまいます。私自身、このような状況はよくあります。
  「ソーシャル・テキスト」に掲載されたソーカル論文の査読者、そして雑誌で論文を読んだ人も、物理や数学を理解せず、素養が足りないため難しそうだから理解しようとせずに、そのような記述の部分を読み飛ばしたのでしょう。だから雑誌に掲載されたのです。
  書く側にすれば、専門外の聞きかじりの生半可な知識を用いれば、論文の価値が上がるような錯覚が生じます。それに満足して、ついついいろいろ知ったかぶりの知識や、背伸びをした語句をちりばめてしまうことがあります。ソーカルによれば、ラカン、ラトゥール、ボードリヤール、ドゥルーズ、ガタリなど、専門家でもない私でも名前は知っているポストモダン、ポスト構造主義の思想の大御所たちも、自分の論文の中で、生半可の科学知識も用いていると指摘しています。
  ソーカル事件は、重要な教訓を残しました。その教訓とは、まず自分がわかっている範囲、あるいは理解しているレベルを、わきまえることです。その範疇を越えては、引用してはいけないということです。さらに、自分の知っていること、わかっている範疇でしか、アウトプットをしてはいけないということです。一見なんとなくわかったような気がする専門外の知識を、ついつい使うのは、間違いの元凶です。
  一見高邁に見える知には、大きな落とし穴があります。ソーカル事件は、それを教えてくれています。くれぐれも注意が必要です。これは、自戒でもあります。


Letter■ 日本では・ゴールデンウィーク

・日本では・
ソーカル事件が、なぜ日本であまり話題にならなかったのでしょうか。
ほんの10年ほど前の事件です。
その事件は、思想界の根底を覆すような内容であったはずです。
なのに、ラカン、ラトゥール、ボードリヤール、ドゥルーズ、ガタリなどの
思想は、今も活きていて、読まれ、議論され、研究されています。
私は良く知りませんが、この事件を深刻に受け止めた方も
日本にきっといるはずです。
当事者なら、自分の今までの研究の柱を否定されたようなものです。
自分の研究の意義やアイデンティティを失われた人もいるはずです。
その人たちが、その後どのような対処をしたのか、知りたいものです。
単に興味本位ではなく、もし自分がその立場だったら
どうしているだろうかと考えてしまうからです。
もし私なら、何とかして、反論するでしょうか。
それとも、改宗して方針転換するでしょうか。
臭いものにはフタをして、無視を決め込むでしょうか。
今のところ、対処の方法はわかりません。
今後も研究生活を続けるのであれば、
なんらかの決意し、態度表明をしなければ、
やっていけないような気がします。
今回、私は当事者でないのですが、
くれぐれも、落とし穴には注意が必要です。

・ゴールデンウィーク・
いよいよゴールデンウィークです。
札幌でも桜が咲きはじめ、
花繚乱の季節となりました。
私は、春につられて、ニセコに出かけることにしました。
2週間ほど前にペンションに電話したら、
まだあいていて、予約できました。
今回は、ニセコの火山に登ってきたい思っています。
しかし、知り合いが、春スキーをニセコにし行くといいます。
どうもお互いの季節感がずれているようです。
もしスキーができるなら、山に登るのは、無理です。
山に雪があるようなら、麓で北国の春を楽しむことになります。
まあ、火山は遠くで眺めるという手もありますから。


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