地球のつぶやき
目次に戻る

Essay■ 73 化石は過去の生物?:実在と実証
Letter ■ 長年の疑問


(2008.02.01)
  実証できることと実証できないこと、あるいは実在していたのか実在していなかったのかについて、長年考えています。しかし、なかなか答えの出ない難解な問題です。その一端を紹介しましょう。


Essay■ 73 化石は過去の生物?:実在と実証

 化石は、定義の上では、昔の生物の遺骸や生活の跡などをいいます。化石は、言葉に反して、必ずしも石でなくて(石化していない)もいいことになっています。まあしかし、古い化石は、一般的には石化していますが。
  恐竜の歯の化石があるとします。大きさは10cmほどあるとしましょう。かなり大きな歯の化石です。この歯の化石を現在の生物と比べると、これほどの大きさをもつものは、そうそういなはずです。大型の肉食動物の犬歯にあたるサイズです。もし、そのような現在の生物と比べて、形も大きさも違っているとしたとき、この化石をさらに調べるには、どうすればいいでしょうか。
  比較形態学(あるいは比較解剖学)の考え方を適用すれば、生物を判別する時には、構造や形態を生物種ごとの差や共通点を重視することになります。差や共通点には、そのものの大きさより、形態の各部位の比率の方が重要になります。
  サイズだけに、着目するのではなく、歯の形態をよくみるということです。表面の模様や、稜のぎざぎざ、反り具合、根本から先端への太さの変化などに着目して、特徴を比べていくということです。もしこの化石の歯が、大きさは違いますが、ある爬虫類の歯に似ているとしましょう。大きさが化石より、ずっと小さくても、その爬虫類との類似性に着目していくことになります。
  もし、この化石が、今まで見つかっている爬虫類のどれとも違うものであっても、あるいは最初に発見された種類の歯の化石であっても、どのような動物のものであったかを、比較形態学からある程度推測することが可能になります。
  このような比較形態学による知識の蓄積、あるいはいろいろな化石への記載の集積があれば、まったく今まで未知の新しい化石であっても、それなりに信頼できる生物像も確立されていきます。例えば、先ほどの歯の化石が、「新種の肉食恐竜の歯だ」という判定も可能になります。
  さて、このようなアプローチの方法は、動物だけでなく植物に対しても、生物全般に対してとられているものです。まあいってみれば古生物学の典型的な化石同定法というべきものです。このような手法のおかげで、たとえ新種であっても、たった一つの歯の化石から、大きな恐竜の骨格が復元され、イメージ図さえも描かれていきます。
  乱暴ないいかたですが、化石の研究とは、比較や類似の集積から成り立っているといえます。数学のように緻密な論証を積み上げた論理のように見えません。では、上で述べたような化石の同定手法を見た時、どこまで確かな方法、あるいは信頼できる方法だといえるでしょうか。古生物学者は、「当たり前の方法なのに、いまさらなにを」といわれるかもしれません。でも、私は、そんな当たり前のことに、疑問を感じてしまうのです。
  化石とは、定義上では、過去の生物の生活痕も含みますが、生活痕を一緒に扱うとややこしくなるので、ここでは、化石を過去の生物一部として話を進めましょう。
  そもそも生物か無生物かは、生きていてこそ、はじめて生物と判断できます。無生物とは、生きてはいないものです。化石の歯は、生物の器官として特徴のある形態を持っていますが、今生きている生物ではありません。なのに、どうして、生きている生物の一部であったのかを判断できるのでしょうか。
  別の例を出しましょう。貝殻の化石が、かつては生きていた貝の殻ということを証明できるかどうかです。もっと単純化していえば、海岸で見つけた貝殻は、もともと生きていた貝の一部だと、どうやって証明するかとういうことです。私には、これは難しい問題にみえます。
  死体の一部から、全体像、あるいは機能していたであろう全メカニズムを含む総体(まだ生物とは判定されていないもの)と、生物(生きているもの)との間の「失われた鎖」を見つけることはできるのかということです。
  実証主義の立場でいえば、「失われた鎖」を実証することは不可能です。サン・シモンによれば、実証主義とは「観察された事実」だけによって理論をつくりあげるものだからです。実証主義による手法とは、一種の帰納法とみませます。
  生きている貝と、海岸に落ちている貝殻には、多数の類似性はあります。しかし、「類似」と「同一」とは違います。生きている貝と貝殻における一番の違いは、「生きているか」どうかです。実証的立場に立つのなら、貝殻の生きていたという事実を見つけられるかどうかです。生きている貝が死んで貝殻になるのを見届けられたものだけが、生きていた貝と貝殻が「同一」であるとみなせるものでしょう。それ以外は、どんなに「類似性」が一杯あっても、「同一」にはなりえません。ですから、貝殻が生きていた貝であったという事実を示して実証することは不可能です。
  実証主義に対して、批判はあります。そもそも「事実」などというものが、本当に存在するのかという批判です。カール・ポッパーは、「事実」を観察することや収集すること自体が、もはや何らかの考え方や仮説に基づいたものであって、信頼に足るものではないと考えました。ですから、そのような事実をいくら集積しても、帰納的に理論を生むことはできないし、事実によって理論が証明されたとはいえないとして、実証主義を批判しました。
  今まで苦労してデータを集めても導き出してきた事実すら、信頼ならんというのです。しかし、ポッパーは、信頼すべき方法も提示しています。まず、ある仮説が科学的かどうかの基準として「反証可能性」を持っていること、そして反証のための「テスト」を受けて耐えた仮説ほど信頼性が高いとみなすのです。反証可能性とは、ある仮説をだしたとき、その仮説が間違っていることを示せるような実験や観察などを提示できるかどうかです。
  先ほどの貝殻が生きている貝の殻でないことを示すには、自然界で起こりうる無生物による作用で、貝殻そっくりのものできる可能性を反証として示せばいいのです。でも、そのようなものはすぐには思いつけませんし、ありそうにもありません。「反証可能性」を示すことができません。となると、先ほどの仮説、「貝殻は生きていた貝の殻」であるというのは、信頼できない仮説なのでしょうか。多分、いやきっと「本当」だと思います。でも、こんな当たり前ことが、納得するような説明ができないのです。
  実証主義あるいは反証主義にこだわっていると、前に進めなくなります。単純に、私たちが感じ、見て聞きし、経験している通りのもの(事実)が、存在していると考えればどうでしょうか。これならば、案外簡単に貝殻がもとは生きていた貝であったことや、歯の化石は今はもういない恐竜のものであったことも、解決できます。これは、実在論(素朴実在論と呼ばれる)の立場になります。
  そこまで素朴あるいは楽観的に考えると、あまりに主観的過ぎるので、もう少し客観的になるべきでしょう。こうすればどうでしょうか。
  私たちが知覚し経験していることを、計測、測定、分析などの再現性のある、科学的にみえる操作を経て、多数の類似のものと比較対照し、抽象や捨象することで客観性を出すのです(広義の実在論あるいは批判的実在論の立場)。こうすれば、科学的な手続きを経た多数のデータを比較検討して導き出したもの、つまり多数の「類似性」という事実は、「同一」に転化できるのです。多数の類似性という客観的事実、が同一の実在を保障するとみなすのです。
  これもやはり、いくら多数のという条件をつけても、「類似性」から「同一」というところに論理の飛躍があります。
  貝殻とは生きていた貝の殻であり、歯の化石が昔生きていたはずの恐竜のものだといいたいのです。もっとえば、化石とは昔の生物であったということを証明したのです。古生物学者は当たり前だと思っている論理が、納得できないのです。納得するための方法は、あるのでしょうか。
  私には今のところ納得のできる解決策は、まだ見出せていません。私なりに、このテーマをもっと考えていきたいと思っています。


Letter■ 長年の疑問

・長年の疑問・
今回のエッセイは、もともと化石と生物の関係について
考えていることを書くつもりでした。
そしてその視点を、実は不可知論に置くつもりでいました。
しかし、実際に書き進めていくと、
実在論と実証論へと話が展開していきました。
実は、化石が生物であったのかどうかという問は
長年私の中にありました。
その中には、生物と生命というものについて定義、
あるいは生命とはという命題もありました。
当たり前に思えることが、深く考えていくと
どうも当たり前ではないことに気づきます。
そうなると、地質学の根底を疑いたくなります。
化石によって気づかれた過去の地球の姿、イメージは
単に空想上のものに過ぎないのかもしれません。
そうならないことを祈りつつも、
納得できる答えをまだ得られないでいます。
まだまだ道は遠そうですね。


目次に戻る