地球のつぶやき
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Essay ■ 58 ニュルンベルク綱領:科学の倫理
Letter ■ 声明・冬支度


(2006.11.01)
  「許容されうる危険の程度は、その実験で解決されるべき問題の人道的重要さの程度を上回ってはならない。」ニュルンベルク綱領の一節です。今回は科学者の倫理について考えていきます。


Essay■ 58 ニュルンベルク綱領:科学の倫理 

 ニュルンベルク綱領というものをご存知でしょうか。実は、私も最近まで知りませんでした。ここには、重要な内容が書かれています。
  ニュルンベルグ(Nuremberg)は、ドイツのバイエルン州にある都市の名前です。人口約50万人(2004年現在)を擁するニュルンベルグは、バイエルン州の北部のフランケン地方の代表的な都市で、ミュンヘンに次いで大きい都市です。中世から栄えた街で、現在も旧市街は中世の城壁で囲まれている美しい町並みを残しています。この古い町並みは、第二次世界大戦によってほどんど破壊されたのですが、戦後再建されたものです。
  ニュルンベルクは、ドイツのナチ党の大会を1933年から1938年にかけておこわれたところで、ナチス・ドイツにとっては、中心的な街です。1935年の党大会では、ユダヤ人から市民権を剥奪する法律も、この街で決定されました。戦後になると、ナチの戦争責任に関する裁判は、この街でおこなわれニュルンベルク裁判と呼ばれています。ニュルンベルク裁判では、ナチス・ドイツによるユダヤ人に対する行為を犯罪として裁かれたのですが、人体実験そのものを禁ずるものではありませんでした。
  1947年のニュルンベルク裁判の結果を受けて、研究目的の医療行為において、厳守すべき基本原則を示したものが、ニュルンベルク綱領です。ニュルンベルク綱領は、医学的研究のための被験者の意思と自由を保護する原則を示したものです。
  考えてみると人命に関する医学には、古くから守るべきことが唱えられてきました。医師の倫理・任務についてギリシア神への誓いを立てる「ヒポクラテスの誓い」は、古くからあり、現在も生きています。それにならって看護師の戴帽式や卒業式におこなわれるナイチンゲール誓詞は、1893年ナイチンゲールの偉業を讃え作成された看護師としての必要な考え方、心構えを誓うものです。1964年6月のフィンランドのヘルシンキで採択されたヒトを対象とする医学研究の倫理的原則を示したヘルシンキ宣言、1947年の世界医師会総会でなされたジュネーブ宣言などもあります。
  医者も看護師も、近代社会では、資格をもった人だけがなれる職業です。かつては、そのような資格制度がなくても医者になれました。しかし、医者になるためには、大変な努力をし、勉学をし、技術を磨き、経験をつんだ人だけが、人の治療にあたってきたはずです。
  医療の効果は、たちどころに人の体や命に、その結果として現れます。もし失敗をしたら、遺族が納得してもらえるどうかは、その医者の人間性によるところが大きいのではないでしょうか。そんな最悪の事態も考えた治療が必要となるはずです。まさに医は仁術なのです。
  医学における宣誓は、人の命を大切に思う気持ちから生まれたのでしょう。一方、憎しみ、争い、貧富の差、戦争など、必ずしも人命が最優先にしていると思えないことも人類は行っています。皮肉なものです。
  ニュルンベルク綱領の8に「実験は、科学的有資格者によってのみ実施されなくてはならない」というものがあります。しかし、現実に科学者や技術者になるためには、資格は必要ありません。また、科学において、医者のような誓いをすることはありません。少なくとも、私は知りません。なぜ、宣誓することなく、科学がそれこそ気軽にできるのでしょうか。私は、そんなことを考えたことが何度あります。
  一般に科学に関する職業をしている人を科学者、科学技術に関する職業をしている人を技術者と呼んでいます。医学と違って、科学は基本的には自分の好奇心に基づく行為です。技術も似たような側面がありますが、さらに、より快適に、より便利に、より儲かるようになどの利便性や経済性の追求があります。科学や技術には、直接の対人関係は、医学よりは薄れていきます。
  ですから科学者は宣誓などしないで、興味の赴くまま科学をしていればいいのです。戦争など非常事態のとき、科学や技術は著しい進歩を遂げてきました。飛行機、爆弾、原子力、兵器、レーダーなど、あげればきりがないほど、戦争を契機に生まれたものや進歩してきたものがあります。本当に好奇心だけでなく、国家や政治に左右される使命感、愛国心、敵愾心などによって科学が行われていることも事実です。
  現在の科学には、非常事態ではなくても、人の生存、人類の将来を脅かすような結果を生みだしうることが起こり始めてきました。まさに興味の赴くまま進めたことが、知らないうちに加害者になっているという事態です。さまざまな特性を持つ人工の化合物(例えばフロン、DDT、PCBなど)、遺伝子操作、快適さを生み出すさまざまな装置などなど、どれも好奇心に導かれ、人のためによかれと思って生み出され、考案されたものでしょう。
  もちろん、一人の科学者や技術者だけがそれをしたとしても問題は大きくならなったでしょう。しかしいいものであれば、現在の科学や技術で、大規模、広域、大量におこなうことでになります。それが結果として、人類に被害を与えることがあります。複雑ですがそんな構図が繰り返し起こっています。
  科学者や技術者は、これからの社会では、自分の出した成果、予測、発言にもっと慎重になり、そして責任を持たなければならない時代になってきたのかもしれません。無謀な実験や、明らかに被害を与えるような成果の公表、人に危険な道具の開発など、科学者や技術の行き過ぎを抑止する方法を考えなければなりません。そのためには、科学者としての倫理観を強める必要があります。現在では科学者の倫理や技術者の倫理について、いろいろなところで議論されるようになってきました。
  しかし考えてみると、なにも科学者や技術者にだけ、倫理が必要なのではなく、いろいろな場面で倫理観が問題となります。立派な宣誓や考えがある医学界でも、倫理観のない医者や看護師もいます。これは、近年になって倫理観のない人間が増えてきたのではなく、そのような人は昔も今と同じようにいたはずです。犯罪が起こりそれを裁き抑止するために法律があるのは、倫理観のない人間が常にいることを示しているのでしょう。
  ただ現在は、昔と違い一人の倫理観の欠如の影響が大きくなる場合が増えたように思えます。メディアからの刺激でマネをする犯罪者が急増すること、技術によって大量、大規模、広域に行うことで被害が拡大するなど、現代社会固有の問題があります。ネット犯罪、各種の捏造事件、電話による詐欺事件などは、複雑な要因があるのでしょうが、やはり基本的には一個人の倫理観によって抑止できるものが、抑止できなくなり、現代的なメディアによって被害が拡大しているのでしょう。
  どちらも加害者が人間の行為なのですが、医学と科学の違いは、被害者が人間なのか自然というより大きなものなのかです。被害者が人間であれば人間という種の中での問題です。しかし、被害者が自然や地球全体となれば、人間が責任をとれないものへと広がります。一見人的被害がないく責任がないに見えますが、環境問題のように人間に被害が及びだしたらもう取り返しがつかない状態になっていることもあります。
  科学者も倫理観をしっかりと持つべき時代となってきたのを感じます。
  最後にニュルンベルク綱領の2を示します。「実験は、他の研究方法や手段では得られず、かつ行き当たりばったりの無益な性質のものではなく、社会的善のための実り多い結果をもたらすべきものでなくてはならない。」戒めとしましょう。


Letter■ 声明・冬支度 

・声明・
このエッセイを書いて気づいたのですが、
2006年10月3日金澤一郎日本学術会議会長の名前で
「科学者の行動規範について」声明が出されていました。
しかし、これは近年頻発した科学者の不正事件に端を発しているようです。
声明発表の時期がよくないよくないよう気がします。
もっと以前から問題があったはずです。
もっと素直に科学者という職業が、今や人類だけでなく自然や環境に
大きなダメージを与えるものになっていることを認識し、
その認識に基づいて倫理観の必要性を持たなければならないという
声明として欲しかったですね。
ことが起きたから対処したという観が否めません。
まあ、何もしないよりはしたほうが良いいいわけですから、
みんなで内容を吟味すべきでしょう。
あとは、科学あるいは科学者のあるべき姿として
倫理観を実際にもてるかどうかが問題です。
医師と同じように、その職業によって生み出された結果は、
もはや個人の責任を越えることがあるので、
そんなことを成果を生まないように、
倫理観を持つようになってもらいたいものです。

・冬支度・
いよいよ11月です。
北海道は短い秋が終わろうとしています。
10月後半になって一気に秋が深まりました。
ひと風、吹くたびに、大量の枯葉が舞い散ります。
道路を歩くと枯葉の乾いた音がします。
こんな時期も雪と共に終わります。
先日手稲の山並みに初冠雪がありました。
根雪まではまだですが、街に雪が降るものもうすぐですね。
冬支度が急ぎ足でされています。


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