地球のつぶやき
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Essay ■ 53 判断基準としての科学:科学教
Letter ■ 科学と宗教・光陰矢のごとし


(2006.06.01)
 科学の営みは、既存の宗教とは違います。しかし、多くの人が信じ、頼りにしている点では、科学と宗教は似ている点があります。そんな科学と宗教について考えましょう。


Essay■ 53 判断基準としての科学:科学教 

 イスラム教を信じている人が、自爆テロを起こしています。これは、自分達が信じていることの正しさを、自分や他人の命を犠牲にして、世界に示しているのです。これは過去の話ではなく、現在現実に起こっていることです。このような事件のニュースを見聞きするたびに、宗教あるいは信じていることのために命を投げだせる人がいること、そして人間とはそこまで信じることができるのだと感心させられます。宗教や信念が、人間に及ぼす大きな影響を感じずにはいられません。
 日本でも、1995年3月20日、東京の地下鉄でサリンをばら撒く無差別テロが当時のオーム真理教によって行われました。そのときに多くの人は宗教の怖さを考えました。オーム真理教だけでなく、現実には多くの人がなんらかの宗教を信じています。
 ある人から見れば、どんな信念があろうと、人の命を奪うことは、とんでもない行為に見えます。しかし、いずれの例も、その宗教を信じている人には、それらの行為は、正しいことと考えての行動であるはずです。
 私たちから見てとんでもない行為は、本当に「とんでもない」ことなのでしょうか。言い換えると、私たちの価値判断は、いったいどんな基準によるのでしょうか。
 自分たちの属している社会やコミュニティの規則や常識は、統一された価値観をもっている人の集まりでは正しく見えます。しかし、コミュニティから一歩外にでると、その価値判断は怪しくなります。人を殺すことさえ、是、あるいは善となりえるのです。それは、一部の宗教や国やコミュニティの違いだけでなく、同じ国の同じ国民でも、時代が変われば、その価値判断はいとも簡単に変わります。
 かつて日本では、敵と分類された人間は殺すことが是であり、たくさん殺した人は勲章さえもらえた時代があったのです。それは、ほんの60年ほど前のことです。そして、戦争が終わり、平和が訪れ敵がいなくなると、手のひらを返すように、人を殺すことはいけないこととなったわけです。
 宗教と同じように、政治や法律に従った価値判断、常識に従った価値判断さえ、広くみれば怪しいことがあります。もっと視点を拡大すれば、人類のためにということさえ、ホモサピエンスという種だけの価値判断かもしれません。こうみていくと、何を価値判断とすればいいのか、わからなくなります。
 価値というのは、主体が存在してはじめて評価できるものです。主体がいるとその主体に益するものは価値があり、害するものは無価値あるいはマイナスの価値になります。でも、主体が変わったり、主体の状況、環境が変われば価値もいとも簡単に変化することは上で述べたとおりです。ですから、価値というものを判断基準にしては、危ないようです。では、何を判断基準にすればいいのでしょうか。
 人間には、幸い理性があります。理性を基準に考えれば、なにかいい判断基準ができるのではないでしょうか。信じているという点から見れば、この世の中には、宗教とは呼ばれていなのですが、宗教のような理性として科学があります。理性の極致ともいえる科学は、宗教的な面もあります。
 科学では、論理と証拠によって、合理的に判断を下します。その判断には価値すら入れないことがあります。さらに、科学の素晴らしいところは、その結果を科学自身で書き換えたり、否定することが可能なことです。判断とは、ある時点での論理と証拠による結果にすぎません。別の証拠や論理がでてきて、そちらの方が優れていると判断されれば、過去の結果にこだわることなく変更することが可能なのです。
 今や科学は、現在社会ではなくてはならない存在です。科学を知らない人も、苦手な人も、あるいは科学を批判的な人も、現代社会では科学を利用しなければ生活できない時代にすらなっているのです。しかし利用する気なれば、これほど便利で、楽で、安心が得られ、快適なものはありません。多くの人はその便利さを享受しています。
 科学を否定している人でも、科学なしで生活はできません。たとえ原始の生活をしようとしても、頭脳に蓄えられた知識や智恵を使わなければ生きていません。知識や智恵は、無意識に使ってしまうはずです。しかし、知識や智恵は科学的な背景を持っています。
 また、科学を否定したいという主張を人に伝えるときには、対面して話す時以外は、なにかの媒体を使うはずです。その媒体はどれも科学を利用しています。そうでなければ、科学を否定という自分の主張を多くの人に聞いてもらうことはできません。
 いまや人は、科学抜きでは生活できませんし、現状の豊かで安全な生活は得られません。そのような豊かさを享受することは、科学を信頼することにつながります。ですから、現代社会は、科学という見えない宗教のようなものに基づいて、営まれているように見えます。そうとなれば、現在社会で一番多くの人が信じ、信じることによって救っているのは、科学ではないでしょうか。
 科学者はよく「宗教を信じない」とか「合理的なものしか信じない」ということがあります。これらの言説は、あきらかに「科学教」を信じているという発言とみなすことができるのはないでしょうか。科学者とは、「科学教」の伝道師や求道者ともいえます。研究に没頭する姿は、狂信的とも見えることもあります。
 しかし宗教として科学をみると、少々風変わりです。これといった経典もお題目も儀式もありません。経典に相当するのは各分野での理論や法則かもしれません。しかしそれらですら、現時点で「確からしいもの」、一応「もっともらしく見える」ものにすぎません。科学者は、それを書き換えることを目標として日夜精進しているのです。
 科学とは、証拠と論理という手法だけを決められています。その手法のみによって成立し、営まれている世界です。科学的手法に基づいて、現実に技術が生まれ、より便利なものが生まれています。その便利さが実生活に反映されます。信じること、帰依することで、ご利益は十分すぎるほどあるのです。現代社会はもしかすると、科学に帰依してる時代なのかもしれません。
 この科学教の不思議さは、手法だけではありません。結果に対する判断には、論理性だけで、価値観は含まれていません。価値判断は、最終的にその科学を利用する国、社会、会社、人がするものです。科学の成果は、広く公開することが科学を進める基本です。科学の成果は、だれでも、いつでも、自由に見て利用することができます。
 ですから、悪意をもって科学を使えば、科学は強力な武器となります。それは、ゲリラの自爆テロの爆弾や人を殺すために銃火器になります。大規模な核分裂や核融合の連鎖だって、科学が生み出しました。しかし、それを大量殺戮兵器に使うのも、発電に使うのも使う側の人間の判断に基づきます。
 科学教という現代社会を知らず知らずのうちに取り巻いている新興宗教は、もはや誰もその影響から逃れることできません。でも、科学教に帰依し、うまく使うことさえできれば、これほど役に立つものはありません。人間は科学教をうまく使えるように、もっと賢くならなくてはなりませんね。


Letter■ 科学と宗教・光陰矢のごとし 

・科学と宗教・
科学と宗教の関係は、石黒耀さんが、
「震災列島」(ISBN4-06-212608-7 C0093)
という本で、述べられていた考え方です。
その主張に私も共感しました。
そして、私なりの科学教を考えたものが今回のエッセイでした。
私の論理は、ここで終わりではなく、
科学は必ずしも全幅の信頼がおけるものではない
ということも私は考えています。
その状況をわきまえておくべきである
というのが、私の現在の主張です。
その話は、次回に展開するつもりです。

・光陰矢のごとし・
もう6月です。
1月から数えてもう半年ほどがたちました。
振り返ると1年は、早く過ぎ去るものです。
冬のオリンピックが終わったと思ったら
こんどは、もうワールドカップサッカーが始まります。
月日の過ぎるのが早いです。
まさに光陰矢のごとしです。
こんなことばかりいっていると、年寄りの繰言になります。
早く過ぎようとも、いかにやるべきことをやっているかです。
それこそが問われます。
そう問われても、やっているといえない自分がいます。
つらいところです。


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