地球のつぶやき
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Essay ■ 41 多数決:太陽と惑星の重み
Letter ■ いい季節・プログラミング


(2005.06.01)
 多数決で自然の現象を考えては、大きな失敗をすることがあります。少数派にも重要な役割があります。そんな役割について、多数決を太陽系にあてはめることで考えてみました。


■Essay 41 多数決:太陽と惑星の重み 

 25年ほど前のことです。1990年2月14日、地球から60億キロメートルも離れたところから、写真が送られてきました。そこには、強烈に輝く太陽が写り、別の角度でとった写真には、金星、地球、木星、土星、天王星、海王星が写っていました。しかし、地球から60億キロメートル離れたところから見る金星や地球の画像は、1ピクセルにも満たない大きさでしか写っていませんでした。
 この写真は、1977年9月5日、アメリカ合衆国フロリダ州にあるケープ・カナベラルから打ち上げられたボイジャー1号が撮ったものでした。ボイジャー1号は、先行して打ち上げられたボイジャー2号と共に、太陽系の外側にある惑星のうち、木星、土星、天王星、海王星を探査するためのものでした。
 なぜこの時期に2台の探査機が打ち上げられたのかというと、これら4つの惑星をひとつの探査衛星で一度に巡ることができる位置に来るからです。このような惑星の配置になるのは、175年に一度のことで、そのチャンスを有効に使うために2機が投入されたのです。
 土星に接近した後、太陽系の軌道面から大きく離れていったボイジャー1号に、太陽から60億キロメートルも離れたところから、太陽系を眺めるという重要なミッションが与えられました。そのためには、機体を反転させ、60枚のショットを撮り、地球の送るということを成し遂げなければなりません。どこかのプロセスで失敗すれば、以降の観測はできなくなるかもしれない危険性もありました。最大の危険性は、カメラを太陽に向けると、あまりの明るさのためにカメラが壊れるのではないかというものです。実際にこのミッションで、太陽の像の焦点を結んだところが熱くなってシャッターが歪んでしまいました。
 それでもボイジャーは任務を遂行し、成功しました。広角カメラによる39枚のショット、望遠カメラによる21枚のショット、計60枚が撮られました。そして、望遠カメラで捕らえられた地球は、0.12ピクセルの大きさにしかなりませんでした。木星でも3ピクセルほどにしかなりません。これが私たちの住む星である地球の太陽系における実像です。
 この一連のミッションから得られた写真は、地球が太陽系において如何に小さな存在か、そして太陽が太陽系において如何に大きな存在かを、改めて教えてくれました。
 もしもっと遠くから太陽系を遠くから眺めとしたら、輝く太陽の存在だけしか見えないでしょう。太陽系を遠くから眺める存在があったとしたら、彼らは太陽しか見えていないでしょう。それは、私たちが他の天体を見るときに、輝く太陽(恒星)しか見えないのと同じことです。つまり、太陽系において、太陽が代表的な天体であるというのは、誰もが理解できることでしょう。
 輝きだけではありません。太陽を質量でみると、太陽系の99.9 %を占めます。太陽は、太陽系のほぼすべてといえるでしょう。
 さて、話は、「多数決」に、突然変わります。
 多数決は、民主主義では欠かすことのできない意思決定のための方法です。多数決は、多くの人の意見を反映するのは、もっとも適切な方法と考えられます。その背景には、多数の方が、より正しい答えを導き出すと考えられるからです。
 でも、多数決について、もう少し深く考えてみましょう。
 実は、気軽に使っている多数決というのは、ある暗黙の前提をもとに成立していることに考え及びます。つまり、多数決において、
・人は賢い
・人は善である
という前提です。
 「人は賢い」というのは、次のようなことを意味します。ある選択肢、たとえばYesかNoかの2者選択があったとき、単純に確率で考えるとYesもNoも2分の1です。しかし、人は賢いので、2分の1以上の確率で正解を答えられるということを前提としてます。それが複数人によって選ばれていくのですが、ますます正解の確率は高くなっていきます。ですから多数決では、賢い人がたくさん集まって選択するのですから、もっとも確からしいことを選ぶということになります。
 もうひとつの「人は善である」というのは、選択肢を選ぶとき、自分のこととか、誰か特定の人とか、特別な条件などに片寄らず、いつも最善のものを選ぶということです。人はいつも善良な判断をしているという前提を持って多数決をおこなっています。
 このような暗黙の前提は、一般論では正しいものです。しかし、運用上は必ずしもそうでありません。いくつもの欠点があります。
 先ほどの前提が壊れたとき、多数決は破綻します。あるいは前提をうまく覆せば、多数決を悪用できるのです。
 人は賢く振舞えないことがよくあります。メディアによって与えられる情報によって、人の判断は影響を受けます。あるいは、宣伝などはその効果をうまく利用しています。
 美容食品や健康器具などは、使用前、使用後での変化を示して、その効果を強調します。しかし、本当にその商品の効果があったかどうかは、公正な判断がされているでしょうか。確率的に少ないことでも、有効性を示す数少ない例だけを示せば、人を欺くことができます。例えば、1万人の人がある健康食品を試して、たった10名にしか効果が認められなかったとしましょう。その10の成功例だけを示して宣伝すれば、その健康食品の効果があったかのように伝わります。あるいは、その10名の本当にその健康食品による効果だったかどうか因果関係を本当は示すべきでしょう。反例を示さないで、有利な例だけをメディアを利用して大々的に示すと、人はますます騙されます。
 また、人は最善を選ばないこともよくあります。
 選挙では、個人の正当な判断より、政党や団体、組織の判断、時には金銭によって自分の判断を変えてしまいます。組織票として、一部の人の考えが、無批判に支持され場合があります。メディアは組織票の存在を承知していて、公然と組織票を前提として選挙の行方を予想をしたります。本当に民主的な判断がなされているのでしょうか。
 また、上記の前提を満たしたとしても、多数決をおこなう場合、選択肢が多くなると、選ばれない選択肢への票も増えていくことになります。このように選ばれなかった票を死票というのですが、選択肢が多くなるほど、死票も増えていきます。
 死票が多いということは、賢い人の判断も、条件によってどれが最善かが変わるということを示しています。つまり、人の判断は必ずしも、同一の結論を導くとは限らないということです。
 多数決は、社会や組織、コミュニティなどのことを判断する場合につかわれましたので、きわめて人間的な判断です。自然界のことを考える場合、多いから、つまり多数決での判断が最良の方法とはいえない場合がよくあります。
 自然現象や自然物を調べていくときは、多数が、ある場合、ある状態、ある結果、になったとしても、それが自然の本来の姿を多数決の数値どおりに正しいかどうかは、保証の限りではないはずです。
 論理的に、そして網羅的に証明できなければだめではないでしょうか。それが本当に自然を知ることになるのではないでしょうか。論理的に、すべてのことを証明するには、すべての可能性を考慮し、それらすべてを証明できたときです。
 例えば、数学では、すべての場合を網羅して、それぞれが正しいことを示さないと、証明できたとはいえません。言い換えると、確率的に高いか低いかどうかということと、正しいこととは、違うものなのです。確率が正しさを決めるわけではないのです。
 いい例かどうかわかりませんが、私たちが宝くじを買う理由も、そこにあるかもしれません。確率的に宝くじの1等を当てるのは、ものすごく低いことです。でも、確率がゼロではないし、実際に誰かが1等を当てて、賞金をもらっています。もしかするとその少ない確率を自分が手にできるかもしれないのです。その確率もゼロではなく少ないながらあるのです。たとえそれが交通事故にあう確率より低くても、自分に当選する確率が巡ってくる可能性に賭けているのです。確率を信じるなら、宝くじに当たる夢を見るより、交通事故にあうことを心配すべきでしょう。
 多くの人は、99.9%の確率で正しいものがあるとすると、それを選らぶでしょうし、それで満足してしまうでしょう。しかしもし、自分が多数派ではなく、少数派に属しているとき、少数派のことが一番気になるはず。死票とはされたくないはずです。そんなとき、救いになるのは、論理的には、確率的に少ないことも十分理解しているべきだという点です。自然を調べる場合、ありとあらゆることを、網羅的に検討すべきなのです。そうすれば、後で悔やむことはないのです。
 もし、0.1%でも可能性があり、自分がそれが気になるのであれば、実際にそれは起こりうるのであから、信じるところを進めばいいのです。もし、1万回起こることであれば、0.1%の確率でも、10回は起こるはずです。それが確率が教えてくれることです。それを信じて、行動していくこともありうるのです。
 そこで、太陽系が再び登場します。太陽以外のものがもつ特性とはなんでしょうか。もし、太陽にしか目が行かなければ、惑星のことは目に入らないでしょう。太陽系で少数派について考えてきましょう。太陽系を外から見たとき、99.9%に含まれない特性を、太陽以外のものが持っているかもしれません。それが見つかれば、惑星などの太陽以外のものが持つ重要性も認識でるきでしょう。
 そのようなものとして、私たちの太陽系では、角運動量というものがあります。角運動量とは、回転運動をしている質点の半径と運動量をかけたものです。平たくいうと回転の勢いともいえるものです。運動量とは、質量と速度をかけたものです。よく動いて回っているものほど、大きな角運動量を持っています。
 太陽系全体の角運動量のうち、太陽はたった2%しか担っていないのです。他の98%は、惑星たちが担っているのです。よかったです。少数派でも、重要な役割を持ちうることが、太陽系でも実証できました。
 このようなことは、視点を変えて少数派に目を向けたからわかることです。では、この視点を他の太陽系に向けるとどうなるでしょうか。
 角運動量が太陽以外の惑星が大部分を担っているとなると、いろいろなことが考えられます。もし大きな惑星があり太陽の周りを回転運動をしていれば、その太陽は惑星の運動によってたとえ質量が格段に勝っていても、振り回されます。そんな太陽系を遠くから観測すれば、太陽が振り回されている様子が観測できるかもしれません。
 実際に、1995年ころからあちこちの天体でそのような運動が観測されるようになりました。実際に恒星のふらつきは微妙なものなので、恒星の放つ光のドプラー効果を長期間にわたって測定されなければなりません。そして今では、多数の恒星に惑星あることがわかっていました。
 すると、生命の発生についても重要な条件が、そこから得られます。輝く太陽の中では、少なくとも私たちが知っている生命は発生しそうにありません。生命が発生するには、恒星周辺の惑星でなければなりません。1995年以前には惑星の存在が観測でなかなかわかりませんでした。しかし、観測によって惑星が実際に他の恒星にもあるとわかってきたのです。その結果、私たち生命は、少なくとも地球のみに、誕生の条件があったのではなく、他の天体にもその可能性があったことになってきました。多数の恒星系に惑星はあるのだから、地球と同じような条件の惑星も、もしかしたらいくつもあるかもしれないのです。そしてその中の惑星では、地球と同じように生命の誕生を経験している星が地球以外にあるかもしれません。
 そんな想像が不可能でないことが、少数派で低い可能性を調べることによってわかるようになったのです。


■Letter いい季節・プログラミング 

・いい季節・
 とうとう季節は巡り6月になりました。日本は春を区切りとすることが多いので、まだ2005年度は始まったばかりのような気がしますが、暦では2005年も半分ほど過ぎたのです。
 北国では、一番いい季節でです。この時期に、各地の大学の学園祭も6月頃から始まります。北海道大学では大学祭の最中は禁酒が大学当局から告知されました。北海道ではメディアは、その是非について、議論百出です。わが大学の学園祭は秋ですが、どうなるでしょうか。
 今年は天候不順で、春の花の季節が例年より遅くなりました。でも、やっと遅い春を迎えました。天気のいい日には、もう初夏というべき暖かさです。若者たちは外で、半袖のTシャツ姿で走り回っています。
 しかし、私は、教室での講義と、研究室でのデスクワークばかりで、一日の大半を室内で過ごしています。でも朝夕の通勤は徒歩か自転車なので、自然の移り変わりを肌で感じながら過ごすことができます。それが日々の日課の中で、唯一の息抜きで、一番の楽しみでもあります。
 今年は、そんな自然に触れるために、家族であちこちにキャンプにいきたのですが、どうなることでしょうか。

・プログラミング・
 昨年の夏から冬にかけて、必要に迫られてプログラム作成したことがあります。かつて、私もBASICやPASCALなどを使ってプログラムをおこなっていました。当時はコンピュータがありましたが、ソフトは自作するものでした。多くはパソコンについていたBASICを使っていました。
 しかし、技術の進歩によって、表計算ソフトやグラフ作成ソフト、ドロー系の作画ソフトなど、便利なアプリケーションの出現で、自分自身でプログラミングする必要がほとんどなくなってきました。
 しかし、昨年夏、大量のデータを形式変換しなければならないことがありました。大量の数値データが、似た形式で数1000個ファイルがありました。DVDに2枚分のデータでした。それは既存のアプリケーションではできないことでした。しかたなく、私が以前おこなっていたBASICがそのまま使えるものを、無理くり使ってプログラムしました。私が持っている最速のパソコンでも、1週間ほどかかる計算時間となりました。
 しかし、プログラムをしていて、その面白さを再確認しました。そして簡単なプログラムを作成するために、再度プログラムを学ぶことにしました。ただし、最近のプログラムの大半は、オブジェクト指向というもので、何をするにも、オブジェクトにして、プログラムを作成しなければなりません。以前はただ、計算結果をファイルやプリンターに出すだけですんだのですが、今や、人にわかりやすいプログラムになるようにと、いろいろなプロパティやメソッドなどを事細かに設定しなけばなりません。
 はたして、便利になったのでしょうか。少なくとも単純なプログラムで住む人には、大変になったはずです。遅ればせながら、私もオブジェクト指向のプログラムを始めました。なじみのあるTurbo PASCALを最初やろうとしたら、今はDelphiというものになっています。わが学部のプログラミング言語も2002年まではDelphiとC++でした。今では、JBuilderになりましたが。
 そこで、うちの学生が使うDelphiをはじめました。しかし、マイナーなソフトのせいか、解説書があまりありません。やりたいことがどうすればいいのかなかなか見つけられません。そこで、DelphiからC++への移行は簡単だというので、C++Builderにも手を出しています。
 さてさていったい、いつになったらプログラムがつくれるようになるでしょうか。まだまだ道は遠そうです。まあ気長にやりましょうかね。


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