地球のつぶやき
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No. 12

Essay ■ いろいろな見方
Letter ■ 年頭に・ある人への手紙


 
ものの考え方で、ふと考えたことがあります。
 テーブルの上に、石ころがひとつ、あるとします。
 その石を、見る人、あるいは見る視点が違うといろいろな見方ができます。ごく当たり前のことですが、いまさらながら、気づきました。
 地質学者が見たとしましょう。地質学者にも専門がいろいろあります。ですから、立場によって、石ころをみるという見方も違ってきます。
 博物館の学芸員は、その石ころをどう見るでしょうか。
 まず、学芸員は、その石ころに博物館的価値があるかどうかを調べます。石ころに博物館的価値があるというためには、博物館で、展示や保管していいような資料としての価値があることと、それに付随する不可欠な情報を持っていることが必要です。資料的価値と情報とは、不可分です。
 資料的価値とは、その石が、珍しい種類、地域、形態などをもつか、ある種類の代表的な標本であるかどうかです。
 さらに、標本には、付随する情報が不可欠です。その情報の象徴として、標本ラベルがあるかどうかです。標本ラベルとは、細かい産地の情報、岩石名、採集日、採集者などが書かれているものです。
 標本として、資料的価値と付加情報、この2点がないと、意味がないとされます。逆にこの2点を満たしていると、博物館では、この石ころは、資料となり、展示されたり、保存されます。そして、多くの人目にふれたり、詳しく研究され、博物館が存続する限り、大切に保管されます。
 つぎに、大学の研究者としての地質学者は、その石ころをどう見るでしょうか。
 まず、テーブルの上に転がっている石ころを調べようという研究者はほとんどいないでしょう。特に、野外調査をして研究するタイプの地質学者は、そのような石を、研究対象にしません。野外調査をして研究するタイプの地質学者は、野外調査し、石ころの産状(産出状況)を調べて、自分で納得して採集した石ころでないと研究対象にしません。でも、もし、博物館的資料であれば、その資料を調べる研究者もいます。実験、分析などの室内研究を得意とする地質学者です。
 もしかりに、その石ころが研究対象なったとしたら、博物館とはまったく違った取り扱いをされます。石ころは、切られ、砕かれ、溶かされたります。研究者は、知りたいことを調べるために、原型をなくしても、あるいはすべてがなくなっても気にしません。ものをそのまま大切に保管することより、ものから知りたい情報を以下に引き出すかに精力を注ぎます。
 同じ地質学者ですから、石ころを見る能力や調べる能力は、似たようなものです。そして、石ころが好きな人です。たとえば、石ころを調べるとき、平気で舐めたりします。石ころを汚いなどと思う地質学者はいません。地質学者は、みんな、石ころがすきなのです。でも上で述べたように、似たような科学者である地質学者でも、目的や見方が違うと、石ころの扱いも、価値も、全く違ってきます。
 よく考えると、地質学者の石ころへのアプローチは、「科学者的」あるいは「地質学者的」な見方にすぎません。いってみれば、非常に片寄った見方、ある階層の、あるコミュニティだけで通用する見方であります。
 その石ころに価値があるかどうかは、見方によって変わってくるはずです。事実、地質学者でも価値を見出したり、無視したりとなります。そして、価値を見出したとしても、その価値は、同じ興味を持っている同業者、コミュニティでは通用するものですが、興味ない人には、その石の価値はないにも等しくなります。
 ところが、その石ころに興味を持って、まったく違った価値を見出すことも可能です。たとえば、形が面白い、色が綺麗、思い出がある、テーブルの飾りにいい、重しとしていい、など、という見方もする人もいるでしょう。さらに別の見方をすれば、その石に美を見出し、絵画にすること、インスピレーションをえて、音楽や詩をつくること、想像力で、小説を書くこと、など、より人間的で、芸術的な視点で、眺めることができるはずです。その石ころに対する価値は、ひとそれぞれの見方によって変わってくるはずです。
 石ころを、一歩離れて眺めれば、もっと広く、深い、多様な石ころの世界があるのではないでしょうか。科学的に見て価値がなく、その地の代表する石でなくても、産地がわからなくても、いいではないでしょうか。
 その石ころ自体の存在を、まず認め、その存在自体、その石の現在の存在を評価するという立場が、地質学者としてもあってはいいのではないでしょうか。さらにもう一歩離れれば、その石ころは、もっともっと広く、深く、多様な世界があるのでないでしょうか。石ころは、もともと自然の一部であったし、今も自然の一部であるし、石ころに中にも、自然は奥深く埋もれているはずだし、そしてなにより、この石は、地球の営みにより、創造されたものなのです。
 地質学者、あるいは私は、あまりに研究や教育という視点で、石ころを、ひいては、自然、地球、宇宙を見すぎていないか、そんな気がしてきたのです。上で述べたようなすべての見方をも、地質学やあるいは私自身に、取り込むことはできないでしょうか。それほどの度量は、地質学や私にはないのでしょうか。
 地球の創造物と点では、すべての石は同じ価値があります。しかし、人間は、自分の、あるいはそれぞれの目的に応じて、石ころの価値を評価しています。そして、その価値は、あるコミュニティ内だけで、通用するもののはずなのに、そのコミュニティが特殊な能力や技能をもった階層であると、その価値が多数の人にたして一般的に通用するように敷衍されます。これは、注意が必要です。たとえば、博物館の学芸員が、この石は典型的な玄武岩だといえば、その瞬間に、その石ころは標本として価値がでるのです。地質学者が、分析に結果、世界最古の岩石である、と発表すると、その石ころはこの世で最古のものとして、価値が出ます。
 価値観には、それぞれの立場があっていいはずなのに、ある階層、コミュニティの見方が主流となると、それ以外の多様性を抑えたり、あるいは否定する作用が働きます。同じ階層、コミュニティの中でも、もちろん多様性を否定するという作用が起きます。これが、いくいくは、その階層やコミュニティの体質を硬化させていくはずです。
 その階層やコミュニティを発展させ続けるには、常に柔軟性が必要です。内部に否定や反対をする要素を含めるほどの柔軟性が必要です。その柔軟性の程度は、いってみれば、多様性を認める度量の大きさではないでしょうか。多様性を認める度量は、階層やコミュニティだけではなく、個人個人の心の中でも必要なことです。
 さて、多様性を認めて離れて眺めれば、どんな世界が見えるでしょうか。先ほどの石ころを、さらに離れて考えていきましょう。その石ころがAという岩石名になること、地球のどのような営みで創造されたか、なぜ形成されたか、などという地質学的価値だけでなく、地質学では、その石をなぜAと分類するのか、その石がなぜ分類できるのか、なぜ、価値判断をしてしまうのか、なぜ、石を認識できるのか、なぜ存在するのか、などに考えをめぐらすことも可能でしょう。そこには、地質学の本質、科学の本質、認知の本質、哲学の本質などが、隠れているのではないでしょうか。それを、地質学ではない、哲学で、認知科学だなどと、他の世界へ押しやるより、すべてを飲み込む度量の広さが必要ではないでしょうか。そして、それをも飲み込める度量をもつことは、地質学をより深くし、そして自分自身を深くしていくのではないでしょうか。
 広い見方、つまりは、いかなる見方もを認める見方。そして、その見方に、論理性、納得すること、あるいは感動することなど、「なにか」があれば、その見方は、充分価値がある評価できるのではないでしょうか。

・年頭に・
 明けまして、おめでとうございます。昨年は、このメールマガジンを購読いただきありがとうとうございます。本年もよろしくお願いします。
 インターネットでメール交換されている方は、多くの年賀メールが飛び交っていると思います。このメールマガジンは、いつも月の初めに出しているために、1月は元旦にあたります。
 年の初めですが、石ころの話からはじめました。正月には、あまりふさわしくない話かもしれません。あるいは、いつもと同じような話題かもしれませんが、お屠蘇で酔った頭を目覚めさせるために、少々頭を使ってみました。
 私は、上で述べたような見方を持ちたいと、常に思っています。昨年1年、特にその気持ちが強くなりました。ですから、このメールマガジンの話題もそのようなテーマになることもたびたびありました。
 地質学の度量を、あるいは私自身の度量をより広めたいと切実に考えています。今後も、地質学者として、より広い見方で、石ころを見ていきたいと考えています。
 本年も月に一度のお付き合いですが、よろしくお願いします。

・ある人への手紙・
 昔、博物館にいたとき、博物館実習を担当した学生さんから、メールが来ました。現在、彼女は、某国立研究所で、テクニシャンとして働いておられます。しかし、彼女の目標は、中学の理科の教師になることです。「これからも採用試験を受けることは続けようと思うのですが、年齢も上がるにつれ、新しいことへ踏み出す勇気が減り、安定を目指す方向へ行こうと焦りが出てきてしまう部分があるのです。」というメールいただきました。
 それに対して、私は、以下のようなメールを書きました。

「ご無沙汰しておりました。お元気でしょうか。私は寒い北海道で、新しい人生を歩んでおります。
 お互い、紆余曲折した人生を送っていますが、当たり前の人生より、なにか向かっていくものがあれば、たとえ遠回りでも、どんなに時間がかかっても、一生分をついやしても、狙う価値があると思います。私は、そんな人生を歩みたいと考えています。
 私の人生の目標は、有機的に連携した地質学、地質哲学、地質教育学をつくることです。それも実践と理論の両方を加味したものです。その体系化を20年かけて構築することが目標です。まあ、今までやってきたことを総まとめするような、そして新しい学問体系を構築するようなライフワークです。我ながら壮大な計画で、本当にできるのかなと思ってしまいます。でも、今の私にとって目指す価値のあるものです。
 Endさんは、教師になること自体が目的ですか。それとも、教師として、生徒にいい教育をすること、つまりは、いい教師になることが目的ですか。たぶん後者だと思います。となると、教師になりたいと思い、もし、なれたとしても、それは、目標のスタート地点に立ったことになるわけです。ですから、この目標も長い時間がかかるものとなります。
 もしかすると、私の目標のように一生かかってもたどり着かないかもしれません。でも、明日かなう夢より、一生目指せる夢のほうが、楽しい人生を送れると思いませんか。
 私のホームページは
http://www.ykoide.com/index.html
が入り口です。メールマガジンをいくつか発行しています。多くのホームページ、メールマガジンも、私の夢のステップのひとつです。もしよろしければ覗いてみてください。ではまた。」

 そう、このメールマガジンも、私の壮大なる目標の一環なのです。