地球のつぶやき
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No. 11

Essay ■ 教養人
Letter ■ オリジナリティ/評価


 
先日、山口で学会がありました。地学教育に関する学会です。今まで、博物館での科学教育を考えてきたのですが、これからは、大学教育について考えることになるので、どのような科学教育をおこなうべきか、発表しました。その概略を紹介します。
 私は、まだ、大学教育の全貌は知りえないのですが、大学における教養教育が大きな問題であるように見えました。
 では、何が問題でしょか。
 大学での教育は、専門家養成と教養人育成の2つがあると考えられます。いや、専門家養成と教養人育成にあったというべきかもしれません。ところが、現在では、教養人育成の実効性がまったくない状態ではないでしょうか。
 もともと、専門と教養は、一人の人に求められたのではなく、どちらかを身につけて、大学を卒業すればよかったはずだったと思います。一部の優れた人だけが、両者を身につけられたものだと思います。ところが、いつのころからか、一人の人間に、専門と教養の両方が求められたのです。つまり、すべての学生に両方をもとめ、カリキュラムが組まれました。現在は、それはあきらめられ、専門家養成に力点が置かれるようになってきました。
 しかもです、大学は専門家養成を第一義としてきたにかかわらず、「本当」の専門家は、大学院で養成するという仕組みができつつあります。
 それでは、大学での教養教育が必要ないかというと、そうではないのです。ますます、その必要性が高まっているのです。現代のような混迷を深めている時代、世界が狭くなり、国際的に交流が深まる時代、一国の問題が、即座に全世界に広がる時代、教養人の重要性は高まっています。また、政治、官僚、会社の中核における「文系」人間の占める比率は高くなっています。彼ら「文系」の人間が、指導者として、科学を理解できないまま、政策や施策、方針つくることによって、もしかすると、取り返しのないつかない失敗が起きるかもしれません。あるいは、「理系」人間が人文科学に対して無理解のために、自分自身の可能性をいかに狭めているか、その研究視野の狭さをみれば一目瞭然です。
 つまり、大学での育成すべき教養人が生み出せてないということが問題なのです。前置きが長くなりましたが、再度、いや今という時代だからこそ必要なのが、教養人なのです。そんな教養人育成を、荒廃した(大学の)教養教育で、どう再現するかということが、今回の学会での発表のテーマでした。
 大学という場にこだわらず、広く日本全国に存在する教養を求める人に対して、「いち大学教員」が、効率よく、教養教育をおこなうには、どうすればいいのでしょうか。私が考えたのは、インターネットのメールマガジンとホームページを利用するものでした。このような仕組みは、多くの人がすでに利用していることだと思います。しかし、道具をどう使うかは、使う人の勝手です。使い人が便利だと思えば、どのように使ってもいいのです。
 私の使い方は、大学の教養の講義を、同時進行で、メールマガジンとホームページで公開することです。講義と同じであれば、メールマガジンのために講義を新たにつくる必要はなくなります。また、同時進行であれば、大学の臨場感、あるいは、講義の実態が、メールマガジンを「聴講」している市民(以下ではメールマガジンの購読者を「聴講者」と呼びます)に、よく伝わるのではないかと考えました。
 もちろん、大学の講義と、メールマガジンとが、まったく同じとはなりえません。なぜなら、講義をする状況、受ける状況、そして媒体がちがうからです。そこには、自ずから、メリットとデメリットが生じます。
 大学の講義は、なんといっても、「なま」でおこなわれます。うるさい学生がいれば、注意しますし、ジョークなどもいいます。また、学生の理解度を、顔つきから判断して、わかりにくければ、何度も繰り返し説明することも可能です。一方、メールマガジンでは、一方通行になり、「なま」の臨場感はでません。でも、文字で書かれた講義ですが、毎週、進行していくものなので、教科書とは違った、臨場感があります。
 講義では、口頭で話しますが、レジュメとして、図表をつけて渡すことができます。しかし、メールマガジンでは、テキストのみを配信します。そこで、メールマガジンと連動したホームページが有効となります。ホームページに図表を掲載しておけば、聴講者も図表を参照できます。もちろん、著者権を損なわないかたちで利用することは、前提です。私の場合は、私が作った図と博物館時代につくってインターネットですでに公開しているものをつかっています。必要なら、参照すべき図のURLを示します。
 図表はホームページを利用し、テキストは毎週の講義分を配信すれば、聴講者は、教科書を用意することなく、無料で限りなく大学の講義に近いものを聞くことができるのです。
 大学生は、授業料をはらって、講義を聴き、単位を与えられます。しかし、聴講者は、無料ですが、何の資格、修得証明ももらえれません。すべて、自分自身の教養のためです。
 メールマガジンは、手軽であるゆえに、聴講者は、受身になるという欠点があります。学生は、単位をとるという重要な使命があるため、嫌なことでも、なんとかこなします。それが、結果としてある人には、教養となっていきます。でも、聴講者の場合は、すべて自主性にかまかせられています。
 受身になることを防ぐために、私は、聴講者に対しても、学生と同じ内容のレポートの提出をおこなうことで解消しようとしています。実際の大学講義でも、各期(半年間)に希望者にたいして、3度のレポートを実施しました(つまり強制ではありませんが、成績に関与します)。私が実施している教養科目の大学の受講者は、1,000名あまり(4クラス合わせて)います。毎回、200名程度の学生が、レポートを提出しました。一方、メールマガジンでは、約3,000名の聴講者に対し、10名程度が提出しました。回を重ねるにしたがって、そお提出率は下がっています。非常に提出率がわるくなっています。これは、まさに受身の聴講者が多いからだと思います。
 でも欠点ばかりではありません。大学生は、レポートから、意見交換や議論が、生まれことはほとんどありません。これは、大人数の教養の講義のせいもあるのですが、なにせ、単位とること、いい成績をとることが一番の目的だからです。しかし、メールマガジンのレポート提出者とは、レポート内容に関して、私との間に議論が生まれます。私が、レポートに対して、感想を書くからでしょうが、数は少ないのですが、非常に密度の濃い議論が生まれています。それをホームページで「車座」と称して、公開しています。その車座の議論も、他の人の議論のテーマとなっていきます。このような方法が、かなり深い議論もでき、非常に有効であることがわかってきました。
 大人数の講義では、ありえないのですが、少人数の講義では、学生同士の議論、意見交換が可能です。あるいは、ゼミのように、議論を重要視することもあるほどです。
 メールマガジンでは、聴講者同士の意見交換は、できません。インターネットで掲示板機能(bulletin board system:BBSと略される)を利用すれば、公開の場で、この講義に関して議論することも可能です。実際に、私の他のホームページでは、BBSの機能を活用しています。
 今回の講義に関しては、BBS機能は使わないことにしています。メールマガジンとホームページの「車座」でしか、他人の意見は、公表していません。つまり、この講義に関するすべての議論は、著者経由、著者の管理下でおこなうことにしています。
 それは、講義である限り、講師がすべてに関与すべきであることと、トラブルの回避のために、おこなっていないのです。
 講師がすべてに関与しないと、講義の提供者として無責任だし、議論のすべてに関与するのには、投稿の頻度にもよりますが、時間や手間がかかる可能性があからです。講師の省力化を掲げる以上、最小限の手間でおこないたいからです。
 もしごたごたが、あったとしたら、多くの聴講者に不快感を与え、せっかく教養教育、科学教育に興味を持ちつつある人びとに、水をさしたくないからです。また、この講義は、小学生も理解できるようにとしているため、私が把握しているだけでも、数名の小学生が参加しています。彼らに、必要以上に深いな思いをさせたくありません。
 以上のような意図をもって、片手間とはいいながら、多大な労力をもってはじめた市民への教養教育は、はじまったばかりです。でも、その効果は、上がっていると思います。そして、この講義は、2年間の予定で現在、継続中です。
 学会では、このような内容を発表しました。

・オリジナリティ・
 上の文章と、このLetterの文章は、じつは、学会に向かう前の飛行機や待合室で書いたものです。
 学会の発表の成果は、まだわからない状態です。私の「大学の教養教育は重要である」という主張は、現在の大学の流れとは、相反するものです。これが、大学教官もいる学会で発表するのは、いささか興味津々と言うところです。
 ある人は、波風を立てるのを嫌う人がいますが、私は、自分自身が正しい、楽しいと思っていることは、堂々とおこなうべきだと思います。それが、少々常識と反しても、学術の世界であれば、論理的で、結果が生産的であればいいのではないかと思っています。そして、目指すものが、最終的には人類の幸せや、利益になればいいと思っています。もちろん、それが犯罪や誰かの不利益になるようなものでは、いけませんが。
 それと、私が、いちばん重視するのは、独創性(オリジナリティ)です。オリジナリティがないものは、私には魅力を感じません。特に、研究者としては、オリジナリティのない研究は、研なる意義がないものとも、思ってしまいます。そして、つぎに重要視するものは、理論と実践、あるいは、データと仮説を伴っている研究が、望ましいと思っています。

・評価・
 学会での評価は、上々でした。特に、年配の方には、好評でした。そして、国立の教育に関する研究所の方、大学の先生がた、高校の先生がたなど、思わぬ評価を受けました。
 これは、私への評価というより、教養教育の問題、あるいは専門教育でさえ、専門化しすぎているということを反映しているようです。専門は専門で、ある幅の広さが必要です。
 近年、地質学を名乗る学科がほとんどなくなり、地質調査をできない地球科学者が当たり前になってきました。地球科学者が、すべて地質調査ができなければいけないとはいいません。でも、この10年ほどで、一気に地質学者の供給が、激減しました。社会の需要は減ったかもしれません。でも、やはり必要としている業種もあり、そしてその業種の人たちは、人材不足に悩んでいます。
 大学が自ら選んだ選択肢ならいいのです。でも、学問だけの世界に閉ざされることはよくないですが、そこに社会との「迎合」がないでしょうか。あるいは、政治の圧力はないでしょうか。
 ある学問が、明日、必要だといっても、明後日に、その学問が完成はできないのです。特に基礎学問はそうです。ですから、今は無駄かもしれませんが、知的蓄積が必要なのです。
 私が、目指しているような大学での生涯学習など、大学を挙げて、おこなっています。私のやるようなことは、所詮、ゲリラ的なものです。ですから、本流ではないですし、どんなにいい方法論を提示できても、本流には、すぐにはなりえません。でも、もしかすると、万に一つかもしれませんが、将来、本流とはいわなくても、ある階層の人たちに有用な方法になるやもしれません。基礎学問とは、そういうものではないでしょうか。
 そして、基礎学問をおこなう人の心構えは、上で述べたようにオリジナリティではないでしょうか。つまりは、人類の知的資産を生み出すことです。
 「今日、役にも立たない理論」など、無駄でしょうか。日本には、基礎的な学問をおこなう研究者を養う余裕もないのでしょうか。明日のための学問しか受け入れられないのでしょうか。明後日のあるいは、ずーっと将来、あるいは役に立たない学問をする人を養う余裕すらないのでしょうか。