目次
Letter 181
Letter 182
Letter 183
Letter 184
Letter 185
Letter 186
Letter 187
Letter 188
Letter 189
Letter 190
Letter 181 実践的方法論?
From: "Misato Sugai" <santouka@crest.ocn.ne.jp>
日付: 2002/12/10 10:55
状態: 未読
小出良幸さま&前田信さま
小出さんの文章中に「日ごろ普通にやっていることを、明言しただけ」とありましたが、その通りです。ただ、私が言いたかったのは、小出さんの言い換えによると「「自己流の変化」の実践」が、足りないということです。つまり、現状認識と現状打開のための方法模索の点では、小出さんも私も同意見と言うことで宜しいでしょうか。
現状認識は前回繰り返し言いましたので、現状打開・「自己流の変化」をどう実践するか、という段階から入りたいと思います。
私は、曲がりながらも言語・文学の人間なので、言語・文学の方面から斬ります。
まず、方法は2つあります。
@既存の言葉に新たな意味を付する
A新たな言葉を創造する
@は、それこそ、「日頃普通にやっていること」のレベルから、そのまま広げていくことが可能です。まず既存の言葉を利用するので、労力が要りません。「労力」とは、新しい言葉を創る労力・
A新しい言葉を創造するというのは、非常に労力が必要です。
ちょっと記号論が入ってきますが、うまく別の言葉で言えないので、ご容赦ください。
ここで言う「労力」とは、まず、新しいシーニュ(記号)を創る、具体的にはシニフィアン(文字表現)を創ることです。というのも、既存の言葉では言い表せないことを表わしたいという欲求が前提にありますから、シニフィアン(意味)は足りています。なれば、それを表現するカタチがあればいいわけです。
小出さんは、「最低限の理解を共有すること」の必要性を認めた上で、次のように仰いました。
●「でも、それだけでは、つまらないのです。逸脱すべきです。逸脱にこそオリジナリティがあるはずです。でも、その逸脱は意識して、あるいは意図して行うべきです。そして、それを他者、つまり他のコミュニティの集団にぶつけてみることです。」
私が挙げた二つの方法のうち、チャレンジャーな小出さんは、Aを希求されていることになりますが、@の方法も、A程の労力が必要ないとはいえ、重要な方法だとおもいます。
言うは易し。次に問題になるのが、そのシーニュの解釈共同体を創ることです。
小出さんは次のように仰いました。
●「文学、詩歌などの芸術の世界は、発言者(作者、作家、詩人など)が明確にその言葉の定義をせず、読む側の感性にゆだねるという方法を取ります。(まちがっていたらごめんなさい。)もちろん、作品が、読む側の感性に触れないと、それは、無視されるという厳しい世界でもあります。」
これは、ある意味間違っていません。いわゆる「芸術」の世界は、芸術表現体としての文学・絵画・音楽等それ自体が記号です。「あの文章は素晴らしい」とか「あの音楽は素敵だ」と言う感想は、それらの記号をその人が「その人なりに理解した」ということになります。あくまで「その人なりに」というところがミソです。
言葉が細部まで理解を共有できないように、その周縁事項である「芸術」もまた、細部に渡っての理解は到底望めません。究極的には「独りよがり」になってしまいます。先に引用した小出さんの文章の前には「ところが」と銘打ってありましたが、それは芸術としての文学についてであって、学問としての文学ではないからですよね。理系の皆さんは首を横に振りますが、コッパズカシイ言い方をすれば、「学問としての文学は科学」です。芸術は何でもあり、という極論が正論であるのは、それが「独りよがり」を認めることの可能な「芸術」だからです。文学を研究する人たちは、そういう「芸術」を科学するわけです。学問としての文学は芸術性の解明を目的にしているものではありません。芸術性の解明なんていうと格好がつきますが、要は好き/嫌いを問題にすることになり、それは科学ではありません。漠然とした言い方になりますが、学問文学(=科学としての文学)は、与えられた文学テクストがどういう意味を持っているのかを、いろいろな方法で解明するというのが、お仕事です。
話を戻します。
「独りよがり」がある一方で、ある一定のまとまりの中では、テンデバラバラな解釈ばかりではなく、やはり最低限の解釈を共有できることは事実です。日本人・ハマッコ・女性・男性・大人・子供・老人・・・人のまとまりは無限にありますが、それらひとつひとつのまとまりの中で、共有される解釈があるわけです。この解釈共同体は、「既存の言葉」と同列の存在です。構造が同じです。
学問文学は、そういういわば仮想の解釈共同体を暴くのもお仕事の一つです。というか、お仕事の中核かもしれません。「暴く」と挑発的な物言いになるのは、「新しい言葉の創造」とこの学問文学の作業が同じだからです。文学の新しい解釈・新しい言語の創出が、認められるためには、それを理解できる他者が必要です。支持するか否かは別として、「認められる」ことがなければ、新しい解釈も新しい言葉も否定される他なくなりますからね。
しかし、「認められる」に止めなくてはいけません。というのも、前田くんの大嫌いな「権力」と結び付いた時、悲惨なことになるからです。戦前だけでなく戦後の学校教育(特に公教育)でも、往々にして国家的解釈が浸透して(あるいは圧力となって)います。極端な例は旗と歌ですが、言及は必要性が薄いのでやめましょう。「単一民族国家幻想」なんて社会科学方面の言葉がありますが、あれも日本という解釈共同体のなせるワザです。
そして、これは国語科教育の中で、常々問題になっていることでもあります。最低限解釈の共有できる部分とたくさんの解釈を求めてくる部分があることを、文学をかじった人なら誰でも知っています。なのに、高校までの教育では最低限の解釈だけを教え、たくさんの解釈の中から、何らかの者にとって都合の良いような解釈を意図的に「正解の解釈」として教えています。最低限共有できる解釈を確認し、かつ、教員が一つの解釈を押し付けず、生徒は場合によってはたくさんの解釈が容認できることを体験する・・・バランスが大変ですが、こういう教育のあり方が、新しい解釈・新しい言葉の創造を、「正しい」方法で行なえる人間を創るのだと思います。(「正しい」というのは、無政府状態としてではないという意味です。)
言語→文学→国語科教育と次元を移りながら話してしまいました。
ここまでの意見(後半)を軽くまとめましょう。
新しい解釈・新しい言葉ができるためには、それを認める共同体(他者)が必要です。そして、その理解ある共同体(他者)は、国語の場合、新しい解釈と既存の基礎的な解釈のバランスの取れた教育によって育まれるのではないでしょうか。
いかがでしょう。
正味3時間。これから明日のレジュメを作ります。
スガイミサト
content
Letter 182 連絡
日付: 2002/12/10 15:32
前田様・菅井様
こんにちは。
前回のメールにも書いたのですが、
この一連の議論をclubgeoのメーリングリストで
公開したいと思います。
返事がないことは、了承と判断していいのですね。
菅井さんからは、OKの返事が来ました。
菅井さんの長ーいメールには、後日返事を書きます。
ではまた。
contentへ
Letter 183 RE: 連絡
From: "Makoto MAEDA" <verde@tecnet.or.jp>
Reply-To: <verde@tecnet.or.jp>
日付: 2002/12/10 22:07
小出様
メーリングリスト転送の件を了承しました。
毎回確認をお願いします
contentへ
Letter 184 Re: 連絡
From: Yoshiyuki Koide <y@ykoide.com>
日付: 2002/12/11 07:28
前田様
こんにちは。
> メーリングリスト転送の件を了承しました。
了承、ありがとうございます。
早速発送します。
> 毎回確認をお願いします。
これは、意味がわかりません。
メーリングリストに書くということは、
メンバー全員にメールを送るということです。
私は、毎回確認しています。
あるいは、ある前提のもとに
すべて行っているはずです。
意味を教えてください。
ではまた。
contentへ
Letter 185 メールの公開
2002/12/11 07:28
菅井様
こんにちは。
やっと前田君から返事が来ました。
相変わらず、独善的です。
たぶん、菅井さんとのやり取りが、頭にあるためと思います。
その公表する、しないは、
菅井さんの判断に任せます。
とりあえず、
・ 前田君のレポート
・ それに対する私の返事
・ 前田君のメールに対する菅井さんのメール
までを今日公表します。
そして、明日か明後日に、
次の
私のメール
菅井さんのメール
を公表します。
その間に、
前田君メール
そしてそれに対する菅井さんのメール
の公開の判断をしてください。
ではまた。
contentへ
Letter 186 水面下の議論の公開(第一弾)
2002/12/11 08:08
Club Geoのみなさま
ご無沙汰しています。関東も雪が降ったようですね。みなさま、お変わりないでしょうか。北海道は雪が少なく、少々拍子抜けした感じがします。しかし、寒さは本州の比ではありません。日中でも、一日ストーブをたきっぱなしですから。
さて、ここしばらく、メーリングリストでは、私は、ほとんど発言しなかったのですが、ほとんど連絡用にしか使われていないようです。でも、メールリングリストは、本当はもっと有効なのですよ。
実は、メールリングリストではないのですが、例のごとく、前田君、菅井さん、小出で、論争をしております。お二人の了承が得られたので、それを今回公開します。もちろん、その他多数の連絡メールは省いています。
事の起こりは、前田君のメールマガジン「Terraの科学」に対する第1回レポート「あなたにとって宇宙とは何ですか?」からです。まず、それを紹介します。
(以下前田君のレポート)
▼第1回レポート:あなたにとって宇宙とは何ですか?
From: "Makoto MAEDA" <verde@tecnet.or.jp>
日付: 2002/11/19 20:14
前期はなかなか書くことができなかったのですが,今回からはできる限り書いていきたいと思います。尚,なるべく公開は避けていただきたいです(はずかしいから(笑))。また,蛇足がつきすぎたので少し本人も困っていたりします。これを書くに当たっては,固定観念に「とらわれるように」書いたので,事実は一切気にしていません。科学をも気にしていません。悪しからず。
<あなたにとって宇宙とはなんですか?>
自分にとっての宇宙とは,地球は含まれず,大地から見上げることのできる夜の暗闇。この世界にあるものすべてが宇宙とは考えず,いまいる世界とは別の枠として捕らえている。理論的に説明されるものでも,結局は自分で(理論ではなく)確かめなくては信じることはできない。さらにいえば,望遠鏡から覗いたものが果たして本物なのか・・・それでさえ簡単にはわからないのである。
しかし,いえることは,「宇宙」という言葉を作った人が考える意味で現在まで使ったほうが使いやすいということ。はじめに使った人と違った意味なのでは,もしかしたら「宇宙」とはいえないかもしれない。宇宙とはあくまでも言葉を作った人のなかでの「宇宙」であり,今使う人の「宇宙」とは異なるかもしれない。。。それは確かだと考える。
この世で一番確実なのは今,存在するものがある。ということだけであってそれが「宇宙」なのかまたは「宇宙」ではないのか?などということは,はたして意味があるのだろうか?人もすべてが宇宙と考える人もいれば,それは含まれないとも言う人がいる・・・それは,それぞれの人のなかで考える宇宙というものが違うだけのことであって,言葉はもともと「正しい意味」があるとは思えないから,いいことだと思う。
さらに深くとれば,それは辞書に載っていることがすべてだ,という考えの人が少ないということ。それこそが一番だと思う。辞書では決まり文句を並べているが,あくまでもそれは人と人との間での定義であるのだから自分のなかでもその定義を使う必要は無い・・・・・すばらしいことだとは思いませんか?
少し横道にそれましたが,自分にとっての宇宙とは,星や小惑星,チリ,または他の質量のあるものではなく,膨張を続けている(と説明されている)空間のことである。ということだと考えている。しかしこれは前述の観念に次第に縛られていくことによって変わっていってしまう考え方だと思う。考え方とはその一瞬一瞬で変わるものであり,後々ではまた変わっていると思う。それはそれでおもしろい。。。。。。
しかしわれながらよくここまでわかりにくい文章を作ったものだと感心します(哀)。このごろは本を読みすぎて眠くなっているのでいつも頭がぼお〜っとしております。読書の秋とはよく言ったものです。最近ではレジストリをいじくり始めていますが,そろそろやめておかないとシステムが壊れる気がします。博物館にはこのごろいけていませんが,家でじっくりとホームページをつくったり,整理をしていたりします。最近ではDLLに興味が出てきました(レポートとなにも関係ないですね)。ではメルマガの発行もがんばっていってください。
(以上)
この前田君のレポートに対して、私は、以下の返事を出しました。
(以下私のコメント)
▼現状と変化
2002/11/20 07:56
前田さま
ご無沙汰していました。お元気ですか。
本を一生懸命読んでいるようで、いいですね。本には、人類の知識が一杯詰まっています。一杯読んでください。どんな本でも、いいと思います。どんなにくだらない本でも、少なくとも、その文章書いた人は、その時点では、一生懸命書いたはずです。でも、できれば、一生に読める量からいえば、質のいいもの、感動できるものが読めたほうが幸せですが、なかなかそんな本に出会うのはむつかしいものです。
私も本を読みたいのですが、最近は、なかなか読めません。目的があればある程度時間が作れますが、現在は、小説の類は、全く読めません。あるいは、読まないことにしました。時間がないからです。
湯河原にいた時は、通勤のために電車に往復で、1時間ほど乗っていたので、それを読書時間にあてていました。それがなくなりました。つらいです。ですから、趣味の読書はやめました。最近は集中的に読んでいるのは、子供受けの地質学や科学の解説書と、Linux関係の本です。Linux関係の本は、最近読みだしました。どちらも、現在の仕事と関係するからです。
さて、レポートの内容に関してです。
前田君は、宇宙とは、「大地から見上げることのできる夜の暗闇」で、それは「膨張を続けている(と説明されている)空間のことである」とされています。「固定観念に「とらわれるよに」書いたので,事実は一切気にしていません。科学をも気にしていません」と書かれているので、内容については、深入りしないことにしましょう。
さらに、「考え方とはその一瞬一瞬で変わるものであり,後々ではまた変わっていると思う」とされています。確かに、人間は、変化します。そして、その状況や自分の考えも変化していきます。ですから、「宇宙」の定義など、変化していもいいと思います。
でも、大切なことは、自分の中で、その変化をしっかりと、認識し、変化の根拠を整理しておく必要があります。
なぜなら、もし、「お前、この間、Aといったのに、今では、Bといっているぞ」と指摘されたとします。そのとき状況が、利害が関係するとなると、重大です。でも、相手が、納得する理由が説明できれば、いいのです。そのためには、自分自身が、その変化に気付いておく必要があります。相手に指摘されてからでは、その場のしのぎのことしか言えないかもしれません。それでは、お粗末です。
ですから、まずは、自分自身が、その変化を理解しておく必要があります。今回のレポートのお題は、利害が生じようがありません。まして、「あなたにとって」という前提が付いてます。ですから、好きに考えていいわけです。
でも、一生懸命考えれば、それは、思考の訓練にもなるし、一所懸命考えたことは、無駄にはならないと思います。もしかすると、将来どこかで必要になるかもしれないからです。
通学電車の中ででも、考えてください。私は、歩いている時、よく重要なことについていろいろ考えています。頭は疲れないのです。体や目は疲れることがあっても、頭は結構使っても疲れません。ですから、体や目が疲れたら、体を動かしながら、考えつづければいいのです。頭は、もっと使わなければなりません。私の頭も、まだまだ働きが足りないようです。ただ、時間が余りないので、年齢が増えるに従って、時間を有効に使う技術も必要となります。まあ、おいおい分かってくるでしょう。
ではまた。
(以上)
私は、前田君のレポートに関して、「内容については、深入りしないことにしましょう」と論評を避けました。ところが、そのレポートに対して、菅井さんが、正面きって意見を述べました。
(以下菅井さんのコメント)
▼レポート感想文
日付: 2002/12/ 5 03:35
前田信さま&小出良幸さま
前田くんが小出さんに出したレポートを読んで、思ったことを書きました。 いつもながら、言葉尻を掴むようなものの言い方が癪に障るかもしれませんが、思ったことをなるべくストレートに書いたつもりです。
前田くんには、事前のお便りを出しませんでしたが、もしよかったら、お読みください。
それでは、はじまり、はじまり〜。長いです。3500字超。
___________________________
「宇宙とはあくまでも言葉を作った人のなかでの「宇宙」であり,今使う人の「宇宙」とは異なるかもしれない。。。それは確かだと考える。」
「かもしれない」と言いながら「確かだと考える」とは、いささか誤文法ではありますが、内容は、正論です。
@言葉は、変化するものです。そして、A言葉はそれを使う各人同士が意味を共有しているとはいえ、細部に至っては決して同一の意味を持っていないものです。この2つの理由から、上の意見は正論だと言うことができ、支持できます。
「辞書に載っていることがすべてだ,という考えの人が少ないということ。それこそが一番だと思う。辞書では決まり文句を並べているが,あくまでもそれは人と人との間での定義であるのだから自分のなかでもその定義を使う必要は無い」
ちょっと長い引用になりました。ここでは2つのことに焦点を絞って考えてみましょう。
@「辞書に載っていることが全て」
もし、これが正しければ、私が今研究している「文学」は、成立しないことになります。極端なようですが、本当のことです。辞書の記述は、基本的に「人と人との間で定義付けされた事柄」です。というのも、言葉は人同士のコミュニケーションの必要性から生じたものですからね。当然です。ただ、ときどき、言葉の表面上の意味だけでなく、生活の中で、あるいは文学などでよく使われる影の意味を記している辞書もあります。例えば、「花」なんかは、確かに数多ある植物の「花」を総じて言いますが、時代によって「花」といえば「梅」を指し示し、今は「桜」を指します・・・といったように。それでも、もちろん、全てをカバーできるわけがありません。言葉は生き物、常に意味が増えたり変化するものですから。辞書を作るに当っては、その意味が定着しているかどうかを見極めなければいけないというのも、重要事項の一点です。一方で、定着していなくても、いつどんな言葉が、どのような意味で用いられたかというのは、できるだけ残す必要はあります。それは、私たちがどのように言葉を選択し、使っていくのかということを考える材料になるからです。(これは、個人的趣味ではなくて、知的財産としてという意味です。)
A「辞書が採用する定義を自分の中でも使用する必要性はない」
必要性というのは、個々人の判断ですから、何ともいえません。つまり、自身が要らないと思ったら、それはきっと彼方にとって要らないということなのでしょうね、としか言いようがないということです。逆に考えると、必要がないと自分が思ったからといって、他人にも必要がないかといったら、それは否だということです。
挙げ足取りはこれくらいにして、本題。辞書が載せている意味というのは、非常に基本的なものです。そして、先ほども言いましたが、言葉はコミュニケーションの手段です。となれば、辞書にある意味を無視して、言葉を使うことができるのかという問いは、不可能という答えしか残されていません。
しかし、私はそうではないことを知っている人の一人です。思っているのではなくて、あえて知っていると言いましょう。
前田くんは、国語が嫌いそうですが、詩は好きですか?
詩を読んでいると、辞書には絶対にない表現、つまりコミュニケーションの手段として認められていない言葉がたくさん出てきます。でも、そのような言葉に限って、詩のイメージを読み手に喚起させる力を持っています。私はこういう言葉を「感じさせる言葉」と言います。よく「言葉が生きている」と言いますが、その原理はこの「感じさせる言葉」にあると思います。
また、感じさせる言葉をうまく使って表現できている詩を「感じる詩」と言います。連綿と書き綴られた感じる詩の中で、言葉は蠢(うごめ)いて感じられます。怖いくらいに。そして、頭で理解する言葉ではなく、感覚的な言葉と、その言葉によって読み手の感覚を最大限引き出させる感覚的な詩は、近代文学殊に近代詩の成果の一つだと思います。
話を元に戻します。
「てふてふうらからおもてへひらひら」
これ、ご存知(?)山頭火の吟。たぶん知っているとは思いますが、「てふてふ」は蝶のこと。でも、これをさも物を知っている人の如くに「ちょうちょううらから・・・」と読んではいけません。詩情が壊れます。山頭火はそのように指示しているわけではありませんが、「てふてふ」と文字通りに読むことによって、その蝶の羽が空気をうつ感覚が甦ってきます。
ちょっと鑑賞してみましょう。やわらかな羽は「てふてふ」とゆるやかな翼音を音もなしに感じさせる。それは障子か何かの影になって、まだ光のあたっていない庵の中の蝶の姿かもしれない。どこかゆったりとしている。おもてへでてきたら、今度は日の光を浴びてその可憐な姿をみせた。庵の中の自分はその美しさを目の当たりにする。そして、蝶は軽やかに「ひらひら」飛んでいった。
この鑑賞は、私の勝手な解釈です。何の注釈書も見ていません。(というか、注釈書はありません・・・。)だから、違うかもしれません。でも、こうして立てた自分の解釈が文学研究の基本でもあるのでご容赦。
で、問題は「てふてふ」です。古語で「てふ」を引けば「蝶」と出てきます。いろいろ引いてみても、「てふてふ」とは「蝶の羽が空気を打つ感覚を写した語」とは出てこないでしょう。由来として出てきても、意味としてはもう消えてしまったわけです。意味が消えたのがいつかという詳しいことはわかりませんが、「てふ」を「ちょー」と読むようになたのは室町時代の終わり頃だったと思いますから、山頭火の頃にはあえて「てふてふ」と読むことの方が新鮮だったと言えます。そして、辞書にはないけれど、翼音の感覚を「てふてふ」によって表現したということになります。
詩でなくても、例えば絵本でも童話でもいいでしょう。
宮沢賢治に、「やまなし」という童話作品があります。その中に「クラムボンは笑ったよ」というカニのお喋りが出てきます。この、「クラムボン」は、世界中の誰に聞いても、その実体(つまり、クラムボンとは何か)を知っている人はいません。よく、想像上の生き物として、人魚とか麒麟とか龍などがありますが、そういうものとも違います。そういう意味では永遠の謎といえます。しかし、「やまなし」の世界が合う人には、「クラムボン」が意味としてでなく、感覚としてわかるから、不思議です。
でも、そういうものです。文学にしても、何にしても、フィーリングが合わなければ、その実を得ることは不可能です。たとえ、理解はできたとしても。
「てふてふ」や「クラムボン」が教えてくれることは、コミュニケーションの手段として認められていない言葉であっても、コミュニケーションの手段になりうる、あるいは表現の方法になりうるということです。そして、この前提には、「てふてふ」や「クラムボン」という言葉を含んだ文章なり詩なりの表現を、感じ取ることができる読者の存在が必要です。それが、先のフィーリング(感覚)ということであり、各人の個性でもあります。ある人にはわかるものが、別の人にはわからない・・・そういうこともアリなわけです。
そして、ここにある重大な問題は、そのコミュニケーションの手段として認められていない言葉を作ることです。
小出さんのレポートは、「あなたにとって宇宙とは何か」というものでした。
そして、前田くんは、宇宙という言葉ができた時と今自分が捉えている宇宙観との差異を回答しました。同じ宇宙という言葉に、いろんな意味があり、そのうちの一つとして、前田流宇宙を組み込むことはできます。しかし、あえて、前田流宇宙を別の言葉で表現することはできないでしょうか。
辞書にはたくさんの言葉が出てきます。知らない言葉、消えてしまった言葉もあります。そうした、たくさんの言葉ができた背景には、自分が表現したいものを、正確に表現しようとする心理があると思います。似て非なる言葉があるのは、それらの言葉間にある多少の違いを認識することができ、違うものとして認識したい民族的な心理の表われでしょう。
前田流宇宙を別の言葉で・・・というのは難しいかもしれません。でも、「この気持ち(状態)をどう表わしていいかわからない」ということはよくあることでしょう。そういう場面に直面した時、既存の言葉で表現できないなら、創ればいい・・・と思います。そういう言語表現のあり方を、国語ではもっと認めていいはずです。束縛せずに、自由に表現できるように、幼い頃から言葉で遊びをし、言語創造力ひいては表現能力が引き出せる教育が、大切だと思います。
徐々に徐々に話がずれてきたようにも思いますが、前田くんのレポートから思ったことをつれづれなるままに書いてみました。なるべく平易に書くよう心がけましたが、スパイス程度に固い言葉が入ってしまいました。でも、大体意味はわかりますでしょ?
「言語創造力」に関する部分は、私が初めてEPACSの研修会に参加した時、「岩石の触感等を表わす言葉が少ない」という平田さんの発表を聞いたときから、ず〜っと思ってきたことでもあります。(言いそびれて、今に至りました。)
想像力・創造力の涸渇は、想像・創造させることによって、打開できるものでしょう。大人になると、なかなか難しくなりますので、頭の柔らかいうちにお試しあれ。
長くなりましたが、これでお開きとさせていただきます。
(以上)
さて、まだ、論争は続いていますが、とりあえずは、ここまで公開します。続きの議論は、1、2日後にお送りします。
これに関するご意見は、それを公開してから、メーリングリストでお願いします。
さて、メーリングリストとは、以上のような議論するために有効なものです。そして、相手の時間や場所を気にせずに、自分もじっくりと考えて取り組めばいのです。ですから、こんな利用法あるのです。今回は、個別のメールのやり取りの中で、始まった議論ですので、公開に手間取りましたが、メーリングリストは内輪といえ、フォーマルにしゃべるところです。ですから、公開前提です。個別のメールとは違っている点がありますが、メーリングリストも有効に使っていきましょう。
長くなりましたが、水面下の議論の公開第一弾でした。
ではまた。
contentへ
Letter 187 水面下の議論(第二弾)
Club Geoの皆様
こんにちは。
水面下の議論公開の第二弾です。
昨日お送りした、菅井さんの議論に対して、私が、意見を書きました。それに対して、菅井さんが返事を書いています。以下、その分を掲載します。
(以下、小出の意見)
▼意図的逸脱が創造へ
2002/12/ 9 11:23
前田様・菅井様
こんにちは。
私が「Terraの科学(後期)」出したテーマ「あなたにとって宇宙となんですか」に関して、議論が展開しています。前田君は今のところ沈黙を守っているのですが、議論は、始まってしまいました。どれだけ続くのでしょう。それは、菅井さんと前田くんによります。
さて、これは、『「前田君のレポート」に対する菅井の意見』に対する私の意見です。もちろん、前田君への意見をその中に含んでいます。でも、実は、当たり前のことですが、私自身の考え方であります。
はじめましょう。
まず、今までの議論を整理しましょう。
前田君がレポートの中で述べた、2つの点に関して、菅井さんが意見をいっています。
1 前田君の
「宇宙とはあくまでも言葉を作った人のなかでの「宇宙」であり,今使う人の「宇宙」とは異なるかもしれない。。。それは確かだと考える。」
に対し、菅井さんは、
「@言葉は、変化するものです。そして、A言葉はそれを使う各人同士が意味を共有しているとはいえ、細部に至っては決して同一の意味を持っていないものです」
とされ、同意されています。
2 前田君の
「辞書に載っていることがすべてだ,という考えの人が少ないということ。それこそが一番だと思う。辞書では決まり文句を並べているが,あくまでもそれは人と人との間での定義であるのだから自分のなかでもその定義を使う必要は無い」
という発言に関して、菅井さんは、以下の2つに分けて、吟味されています。
@「辞書に載っていることが全て」
について、菅井さんは、
「辞書の記述は、基本的に「人と人との間で定義付けされた事柄」で」
あると、一般論を述べられています。もうひとつ、
A「辞書が採用する定義を自分の中でも使用する必要性はない」
について、菅井さんは、
「コミュニケーションの手段として認められていない言葉を作ること」、つまり、辞書にない使い方で、「前田流宇宙を別の言葉で・・・というのは難しいかもしれません。でも、「この気持ち(状態)をどう表わしていいかわからない」ということはよくあることでしょう。そういう場面に直面した時、既存の言葉で表現できないなら、創ればいい」とされています。
こう整理すると、菅井さんは、1の主張を、2でも繰りかえてしているわけです。
以上の二人の議論の要点は、「言葉には、辞書的意味がある。しかし、個々人が自分流に変化させて使ってよい」ということになるようです。つまり、われわれが、日ごろ普通にやっていることを、明言しただけです。こういっては、ミもフタもありませんので、すこし、議論を展開しましょう。
問題は、意図的に「自己流の変化」の実践ができるかどうかです。上のような原理を見抜いたことは、すばらしいことです。しかし、それで終わっては、進歩がありません。問題は、それをどのレベルで実践できるかどうか、ではないでしょうか。無意識に日常的に使うレベルから、山頭火のように芸術レベルまで、さまざまなレベルがありうるはずです。
言葉の原意を理解した上で、既存の言葉意味では、自分の伝えたいこと、表現したいことが伝わらないとき、どうするかです。黙ってしまうのも手ですが、黙れば「唇寒し」です。
私は、科学の世界の住人ですから、明確であれば、何でもありというレベルです。言葉は人それぞれで使い方が、微妙に違いがあります。それこそ千差万別です。それはよしとます。しかし、もしその言葉の微妙な意味を、自分が意図する意味で理解して欲しければ、可能な限り、理解しやすい形で示すべきである、つまり、定義を明確にして利用しましょうという立場です。
これは、立場であって、他のレベルの立場を認めないというわけではなりませんから、誤解しないように。科学とは、そういう世界なのです。なぜなら、その姿勢さへ守っていれば、作者の意図とかかわりなく、そのデータは意義を持ち、仮説、論理、理論は成立しえます。そこには、最初に出した人、提示した人、考えた人としてのプライオリティ(占有権)が発生します。
科学の世界の言語体系、あるいは論理体系、原則、掟とでもいうべきものが、そうなっているということだけです。
ところが菅井さんが住んでいる文学、詩歌などの芸術の世界は、発言者(作者、作家、詩人など)が明確にその言葉の定義をせず、読む側の感性にゆだねるという方法を取ります。(まちがっていたらごめんなさい。)もちろん、作品が、読む側の感性に触れないと、それは、無視されるという厳しい世界でもあります。
私は、もちろん、この世界も認めます。それは、言葉をどの姿勢で使うかという前提が、私に理解できるからです。
以上述べてきたように、私は、言葉が、いろいろの意味(辞書の意味から、個々人の固有の使い方まで)あることは認めます。しかし、重要なことは、辞書からの逸脱の方法、あるいは逸脱の意識だと思います。日常的には無意識、あるいは「流れ」で、小さなコミュニティ内で、言葉を使っています。それはそれでいいのです。しかし、そのコミュニティから出て、他のコミュニティでも、その言葉を使いまわすのは、無知、あるいは世間知らずというべきです。ですから、最低限の理解を共有することは、菅井さんの言うように必要です。
でも、それだけでは、つまらないのです。逸脱すべきです。逸脱にこそオリジナリティがあるはずです。でも、その逸脱は意識して、あるいは意図して行うべきです。そして、それを他者、つり他のコミュニティの集団にぶつけてみることです。
それが、成功すれば、いい研究成果であり、いい作品、感動であるわけです。失敗すれば、独善的であり、駄作、無駄であるのです。しかし、失敗を恐れては、いけないと思います。特に若いときには許されます。
たとえば、私の年齢や立場のものが、あるコミュニティで「非常識」を語るには、それなりの覚悟がいるわけです。でも、もし、同じことを前田君が語れば、許されます。菅井さんでは、微妙ですが。
しかし、逸脱にこそ創造性があります。それを、いかに、いいものにするかは、個人の能力と感性と、努力と、訓練であります。いずれにしても、こだわり、ひつこくおこなうことが、良き創造性への道です。
菅井さんのいう「前田流宇宙を別の言葉で」というのも、前田君への、同じような励ましだと思います。この意見は、前田君と菅井さんへの、そして私自身への励ましでもあります。
ぜひ、前田君も、菅井さんも、「意図的逸脱」をして、そこに創造性を見出してください。沈黙は、「無」ではないでしょうか。
意見をお持ちしています。ではまた。
(以上)
これに対して、菅井の返事があります。
(以下、菅井さんの返事)
▼実践的方法論?
日付: 2002/12/10 10:55
小出良幸さま&前田信さま
小出さんの文章中に「日ごろ普通にやっていることを、明言しただけ」とありましたが、その通りです。ただ、私が言いたかったのは、小出さんの言い換えによると「「自己流の変化」の実践」が、足りないということです。つまり、現状認識と現状打開のための方法模索の点では、小出さんも私も同意見と言うことで宜しいでしょうか。
現状認識は前回繰り返し言いましたので、現状打開・「自己流の変化」をどう実践するか、という段階から入りたいと思います。
私は、曲がりながらも言語・文学の人間なので、言語・文学の方面から斬ります。
まず、方法は2つあります。
@既存の言葉に新たな意味を付する
A新たな言葉を創造する
@は、それこそ、「日頃普通にやっていること」のレベルから、そのまま広げていくことが可能です。まず既存の言葉を利用するので、労力が要りません。「労力」とは、新しい言葉を創る労力・
A新しい言葉を創造するというのは、非常に労力が必要です。
ちょっと記号論が入ってきますが、うまく別の言葉で言えないので、ご容赦ください。
ここで言う「労力」とは、まず、新しいシーニュ(記号)を創る、具体的にはシニフィアン(文字表現)を創ることです。というのも、既存の言葉では言い表せないことを表わしたいという欲求が前提にありますから、シニフィアン(意味)は足りています。なれば、それを表現するカタチがあればいいわけです。
小出さんは、「最低限の理解を共有すること」の必要性を認めた上で、次のように仰いました。
●「でも、それだけでは、つまらないのです。逸脱すべきです。逸脱にこそオリジナリティがあるはずです。でも、その逸脱は意識して、あるいは意図して行うべきです。そして、それを他者、つまり他のコミュニティの集団にぶつけてみることです。」
私が挙げた二つの方法のうち、チャレンジャーな小出さんは、Aを希求されていることになりますが、@の方法も、A程の労力が必要ないとはいえ、重要な方法だとおもいます。
言うは易し。次に問題になるのが、そのシーニュの解釈共同体を創ることです。
小出さんは次のように仰いました。
●「文学、詩歌などの芸術の世界は、発言者(作者、作家、詩人など)が明確にその言葉の定義をせず、読む側の感性にゆだねるという方法を取ります。(まちがっていたらごめんなさい。)もちろん、作品が、読む側の感性に触れないと、それは、無視されるという厳しい世界でもあります。」
これは、ある意味間違っていません。いわゆる「芸術」の世界は、芸術表現体としての文学・絵画・音楽等それ自体が記号です。「あの文章は素晴らしい」とか「あの音楽は素敵だ」と言う感想は、それらの記号をその人が「その人なりに理解した」ということになります。あくまで「その人なりに」というところがミソです。
言葉が細部まで理解を共有できないように、その周縁事項である「芸術」もまた、細部に渡っての理解は到底望めません。究極的には「独りよがり」になってしまいます。先に引用した小出さんの文章の前には「ところが」と銘打ってありましたが、それは芸術としての文学についてであって、学問としての文学ではないからですよね。理系の皆さんは首を横に振りますが、コッパズカシイ言い方をすれば、「学問としての文学は科学」です。芸術は何でもあり、という極論が正論であるのは、それが「独りよがり」を認めることの可能な「芸術」だからです。文学を研究する人たちは、そういう「芸術」を科学するわけです。学問としての文学は芸術性の解明を目的にしているものではありません。芸術性の解明なんていうと格好がつきますが、要は好き/嫌いを問題にすることになり、それは科学ではありません。漠然とした言い方になりますが、学問文学(=科学としての文学)は、与えられた文学テクストがどういう意味を持っているのかを、いろいろな方法で解明するというのが、お仕事です。
話を戻します。
「独りよがり」がある一方で、ある一定のまとまりの中では、テンデバラバラな解釈ばかりではなく、やはり最低限の解釈を共有できることは事実です。日本人・ハマッコ・女性・男性・大人・子供・老人・・・人のまとまりは無限にありますが、それらひとつひとつのまとまりの中で、共有される解釈があるわけです。この解釈共同体は、「既存の言葉」と同列の存在です。構造が同じです。
学問文学は、そういういわば仮想の解釈共同体を暴くのもお仕事の一つです。というか、お仕事の中核かもしれません。「暴く」と挑発的な物言いになるのは、「新しい言葉の創造」とこの学問文学の作業が同じだからです。文学の新しい解釈・新しい言語の創出が、認められるためには、それを理解できる他者が必要です。支持するか否かは別として、「認められる」ことがなければ、新しい解釈も新しい言葉も否定される他なくなりますからね。
しかし、「認められる」に止めなくてはいけません。というのも、前田くんの大嫌いな「権力」と結び付いた時、悲惨なことになるからです。戦前だけでなく戦後の学校教育(特に公教育)でも、往々にして国家的解釈が浸透して(あるいは圧力となって)います。極端な例は旗と歌ですが、言及は必要性が薄いのでやめましょう。「単一民族国家幻想」なんて社会科学方面の言葉がありますが、あれも日本という解釈共同体のなせるワザです。
そして、これは国語科教育の中で、常々問題になっていることでもあります。最低限解釈の共有できる部分とたくさんの解釈を求めてくる部分があることを、文学をかじった人なら誰でも知っています。なのに、高校までの教育では最低限の解釈だけを教え、たくさんの解釈の中から、何らかの者にとって都合の良いような解釈を意図的に「正解の解釈」として教えています。最低限共有できる解釈を確認し、かつ、教員が一つの解釈を押し付けず、生徒は場合によってはたくさんの解釈が容認できることを体験する・・・バランスが大変ですが、こういう教育のあり方が、新しい解釈・新しい言葉の創造を、「正しい」方法で行なえる人間を創るのだと思います。(「正しい」というのは、無政府状態としてではないという意味です。)
言語→文学→国語科教育と次元を移りながら話してしまいました。
ここまでの意見(後半)を軽くまとめましょう。
新しい解釈・新しい言葉ができるためには、それを認める共同体(他者)が必要です。そして、その理解ある共同体(他者)は、国語の場合、新しい解釈と既存の基礎的な解釈のバランスの取れた教育によって育まれるのではないでしょうか。
いかがでしょう。
正味3時間。これから明日のレジュメを作ります。
スガイミサト
(以上)
以上が、現在までの、水面下の展開です。
これ以降の展開は、海面上で、つまりClubGeoのメーリングリストを使っていきたいと思います。だれでも、意見のある方は、お願いします。
ではまた。
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Letter 188 構造と逸脱
2002/12/13 12:32
[Clubgeo 517] より
前田様、菅井様、ClubGeoの皆様
こんにちは。
北海道、江別も、やっと雪がつもり北国らしくなりました。今までは、雪がなくただ寒いだけでした。でも、雪がふって、すこし寒さも和らぎました。子供も、ソリ遊びやスキーができるので喜んでいます。町のなかの公園にはたいてい小高い山があってスキーやソリなどの雪遊びができるようになっています。
さて、昨日まで2回に分けて送った前田、菅井、小出の議論のメールですが、これから、メーリングリストで展開していきたいと思っています。
まずは、私からです。
今までの議論をまとめておきます。
前田君の「宇宙の定義」から端を発し、「言葉」に関して、議論が展開しました。
前田君は、辞書の「言葉」とは、「言葉を作った人のなかでの言葉でであり、今使う人の言葉とは異なる」(一部変更)に対し、菅井さんは、「言葉は、変化し、使う各人同士が意味を共有しているとはいえ、細部に至っては決して同一の意味を持っていない」(一部変更)とされ、同意されています。
さらに、前田君の「辞書では決まり文句を並べているが,あくまでもそれは人と人との間での定義であるのだから自分のなかでもその定義を使う必要は無い」という発言に関して、菅井さんは、「辞書の記述は、基本的に人と人との間で定義付けされた事柄で」あるが、自己流でいいから「既存の言葉で表現できないなら、創ればいい」とされています。
私も同意しました。さらに「意図的に自己流の変化の実践ができるかどうか」ということを問題としました。
「言語」を攻める方法として、私は、「逸脱」することを提唱しました。「逸脱は意識して、あるいは意図して行うべきです。そして、それを他者、つまり他のコミュニティの集団にぶつけてみること」としました。これは、菅井さんの「創ればいい」ということに通じます。
菅井さんは、「創る」に関して、「既存の言葉に新たな意味を付する」ことと、「新たな言葉を創造する」の2つがあり、私が後者の方を推奨しているといわれました。
ところが、私は、どちらでもいい思っています。確かに後者が、大きな労力を必要とするし、才能も必要でしょう。でも、意図された逸脱には、労力も才能も必要です。それを厭(いと)っていては、創造性は生まれないと思います。
後者の労力を惜しんだものが、模倣です。模倣のほうが、すばらしさ、面白さ、完成度からいえば、本物を越えることがあるかもしれません。創造性という尺度では、本物に勝てません。
でも、模倣は、実用性、普及において勝ることがあります。つまり、前者の労力を使っているのです。実用性、普及という尺度で考えれば、模倣も、創造以上に、労力や創造性を費やしていているはずなのです。
日本のかつての繁栄は、この完成された模倣、あるいは創造性ある模倣によってもたらされたのではないでしょうか。ですから、創造も、模倣も、よいところはあるのです。この例(比喩)から、「既存の改良」(模倣)と「新たな創造」が、とちらでもいいといったわけです。
さて、菅井さんは、「芸術文学」と「学問文学」を区別し、「学問文学」は、芸術の「文学テクストがどういう意味を持っているのかを、いろいろな方法で解明する」といわれました。
このような考え方は、自然科学も同じです。自然という得体の知れないテクストに、なんらの意味、あるいは、法則、規則、構造などが、きっとあるという信念をよりどころにして、いろいろな方法で解明することをしてきました。
菅井さんは、「学問文学」にたいして、菅井さんの好きな構造主義的手法を用いて、解析をされています。
シーニュ(記号)(ここでは言葉のとしたほうがいいでしょう)の解釈共同体を創るということに触れられました。「言葉の辞書的意味」という構造と、芸術の中にすらある「解釈共同体」は、同じ構造をもっている。したがって、「仮想の解釈共同体を暴く」ことが、「学問文学」の重要な仕事であるとされました。
同意できる内容です。
しかし、前にもいったと思いますが、これが構造主義的手法の大きな欠陥でもあると思うのです。
私からすると、『「学問文学」の重要な仕事が、「仮想の解釈共同体を暴く」こと』と規定することが、構造を作り出すことではないでしょうか。そのような定義をすること自体、逸脱からかけ離れていくことにならないでしょうか。
これは、一種の「入れ子状態」です。私がいったことも、構造を意識したとたんに、「入れ子状態」になります。
たとえば、私は、「逸脱をしないさい」といいました。逸脱から創造が生まれ、それを他の集団に示しすことによって、「独りよがり」ではなく「学問」たりうる、というようないいかた、あるいは、定義をすることによって、そこに構造が生まれます。すると、その構造を意識すると、構造自体が、もはや陳腐化するわけです。逸脱ではなくなるわけです。
これが私のいう「入れ子状態」です。構造主義的手法を用いると、どうしても、この「入れ子状態」に陥ります。つまり、人にわかるように構造を提示することによって、構造主義的解釈の内容や、内容を提示するまでのプロセスにすら、構造を見出していまい、オリジナリティはいずこ、と探してしまうのです。
私は、構造主義的手法によって菅井さんが導き出した結論には同意します。しかし、構造主義的手法が、どうもなじめないのです。
実は、こんな「入れ子状態」は自然科学の世界では、いくらでもあります。自己参照問題、文学では同義反復(トートロジー)と呼ばれているものです。前田君の好きなコンピュータの言葉でいえば、ループから出れない状態(無限ループ)です。
平たい言葉で言えば、「鶏と卵と、どちらが先に生まれたか」、つまり、「鶏と卵」問題といわれているものです。このような自己参照問題は、論理的に解けません。科学には、これに類した、問題はいっぱいあります。
たとえば、「岩石とは、鉱物の集まったもの」、「鉱物とは、岩石をつくるもの」という言い方ができます。それぞれが、別のところで定義されれば、問題はないのですが、ならべて書くと、自己参照問題になります。
この問題を避けるためには、この構造を無視することです。構造を意識しないことです。なぜなら、解けない問題をとこうとすることになるからです。
もし、本当にこの問題を解こうとすると、岩石学の世界で独自に、岩石を定義し、鉱物学でも独自に鉱物を定義する必要があります。もし、岩石を鉱物を使わずに定義しようとすると、より大きな対象、たとえばマグマ、地殻、地球に定義の根拠を転換することによってなされるはずです。鉱物では、より小さい分子や原子に立脚することより、定義されるはずです。
これで、一見、この自己参照問題を解決したかのように見せかけることができます。でも、これは、自己参照問題を別の階層、岩石では、岩石とマグマなどに関係を移しただけなのです。
構造を意識すると問題解決できないのです。自然科学では、自己参照問題にどう取り組んだかといいますと、気にせずに、どんどん詳細に入っていくのです。岩石に関して、範囲や手法や、構造にかかわりなく、より深く知ることです。よりよくわかってくると、自己参照機能のおかげで、鉱物についても発展がおきます。その結果として、鉱物でも、さらに深くわかってきます。そしてフィードバックとして、岩石もさらに深くわかってくるという、生産的ループになっていくわけです。いってみれば、自己参照機能の有効利用です。
つまり、構造に囚われないことこそ、その構造を一番よく利用することではないでしょうか。あるいは、構造は、対象とするものの範疇にとどまるだけで、より上位の階層への話をすすめると「入れ子状態」が発生します。
ちょっと、まとまりがなく、話が別のほうにいきましたが、これが、私の意見です。意図された逸脱は、今での私の主張です。これは変わりません。そして、この「逸脱」とは、構造からの逸脱も含みます。
でも、菅井さん、この手法に、構造を見出さないでください。「逸脱」すら構造化されてします。それでは、もはや逸脱ではなくなりますから。
前田君、あるいは、Club Geoのメンバーの方、意見をお待ちします。
ではまた。
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Letter 189 お返事きました
From: "Misato Sugai" <santouka@crest.ocn.ne.jp>
日付: 2002/12/13 08:46
小出良幸さま
前田くんにMLで流すかどうか聞きましたところ、
「あのメールを流すと余計にいろいろと増えてしまうので,アレの存在自体を忘れていただいて結構です。というよりも,流していいときがくるまでは流さないでください。ややこしくなるのはこまるので。」
というお返事が返ってきたので、私と前田君とのやりとりは流さないことにします。
前田くんの長い反論(12KB:でも正確には反論ではない)に私の反論(11KB)でしたから、結構重いやりとりではありました。が、私の反論がもしかすると重すぎたのかもしれません。
内容は、随分昔にやった記憶のある「国家とは何か」をつついていました。私の感想文から、どうしてそこに結び付くのかは全く不明です。けれど、口火を切ったのは私なので、前田君の話に合わせて「国家論」を再提出しました。 それに、この文章にある「流していいときがくるまでは」というのが、わかりません。「そんな時がくるのか??」と思ってしまいますね。
受けられる所だけ受けて、わからない所は飛ばす・・・今の私の能力では、これが限界です。
ということで、前田くんの意見文を受け取った報告でした。
スガイミサト
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Letter 190 前田君に油揚げ
2002/12/13 12:47
菅井様
こんにちは。
メールをありがとうございます。
先ほど、メーリングリストに、今までの議論の延長線で、私の意見を書きました。ちょっと、菅井さんよりの話になったので、前田君がくいついて来るかどうかわかりません。
前田君は、まだ、自分の考えを、しっかり述べるということができないようですね。長ければいいというものではないのです。自分の意見を、正々堂々、理路整然と述べられなのは、情けないですね。それだけ長い文章が書けるのであれば、あとは、論理的に考える訓練すればいいのですけれど。本を読んで意本当に身についているのでしょうか。これは、訓練ですから、修行としてやるしかないのです。そして最終的には、自分自身の人間性がどこまで深まるかという問題にたどり着くでしょう。そこまでいけば、私からはなにもいいうことはありません。
今度の私のメールに食いついてくればいいのですが、たぶん、だめでしょう。菅井さんが食いつくような内容ですから。
だから、菅井さん、次のメールでは、前田君が食いついてくるような議論に、できれば、展開してください。私からやっても食いついてきません。これは、博物館の人も同じです。
前田君の性格からすると、喧嘩をうれば、食いいてくるはずです。私が喧嘩を売ると、逃げそうです。
とんびに油揚げ、前田君に喧嘩です。
ではまた。