目次
Letter 171
Letter 172
Letter 173
Letter 174
Letter 175
Letter 176
Letter 177
Letter 178
Letter 179
Letter 180
Letter 171 行きたかったです
日付: 2002/11/24 21:02
小出良幸さま
こんばんわ。
今日は、行けませんでした。正確には、辿り着けませんでした。
お昼ご飯を食べてから、1時過ぎに家を出ました。
東京駅なぞ、新幹線乗り換え以外では滅多に行くところではないので、流行の「丸ビル」でも見学しようかと思って早目に出ました。定期があるので、東急東横線渋谷周りで安く行く計画でした。横浜駅で急行に乗り換え、武蔵小杉を過ぎた頃、急に寒気がしてきました。ドア横の席だったので、乗り降りの際の換気で冷えたのかなと、初めは思っていました。が、自由が丘・中目黒と行くうちに、寒いのか熱いのか、よくわからないようになり、渋谷に着きました。頭がずんと重い感じがして、降りるに降りれず、ちょっと休んでから降りようと思いました。何分経ったかは、わかりません。カーッと熱くなって、ふと気が付いたら車窓が動いていました。
多分、風邪です。咽喉も痛くないし、頭も痛くないのですが、節々がまだ少しギシギシしています。横浜でユンケルを飲んだので、フラフラせずに帰って来れました。帰宅後は寝て、先ほど夕食を食べ、今は落ち着いています。明日は2限が休講なので、お昼までのんびりできます。今日は早寝します。
お会いできなかったのは、かなり残念でした。行けるつもりだったので、余計です。また、この界隈にいらっしゃる時、ご一報ください。参上いたします。
最後になりましたが、前田少年のレポート面白く読みました。いろいろと思うことを、断片的にメモりました。多分ClubGEOのメーリングリストに送ると、少年がひねてしまいそうな気がするので、辞めようと思いますが、小出さん、お読みになりますか?前田くんに送るか、前田君と小出さんに送るか、送らないか…どうしようかなと思っています。もしご入用なら、文章に起こします。院のレポートもあるので、ちょっと時間が必要ですが。
以上、妙なテンションに乗って、ちょっと長めになりました。
風邪にはくれぐれもご用心ください。
スガイミサト
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Letter 172 お気をつけて
2002/11/26 08:42
菅井様
こんにちは。
今日送るメールは2通目です。実際には、レポートに対するメールは、行きの空港と飛行機の中で書き、今日の朝、送ったのです。これは、先ほどみたメールに対して、今日、書いたメールです。
さて、風邪のようで、お気をつけください。私も今日はいつものように大学に来たのですが、なんか、けだるさ、があります。少し疲れがたまっているようです。
今日は、秋葉原で買ってきたコンピュータのパーツを組み立て、セットアップにチャレンジする予定です。11月中にサーバを開設する予定のでした。今日1日でできるでしょうか。やってみます。
私は、予定どおり、秋葉原で買いものをして、3時ころ八重洲ブックセンターにつきました。あまり本は買う予定ではなかったのですが、やはり一通り見ていくと、抱えきれないほどの本となっていました。ついついあれこれ買ってしまいました。いまや、インターネットで必要になったとき買えばいいのですが、見るとついつい買ってしまいます。読む時間もないのに、です。
本の宅配も頼み、4時半ころ喫茶店へ入りました。5時半ころまでいて、1冊だけ手元に残した新書を半分ほど読みました。宅配も、コーヒーも、本をたくさん買うとサービスで無料となります。それで、時間をすごしました。これは、いつものパタンーですので気になさらずにいてください。
菅井さんの前田君へのご意見興味あります。私は、内容については、深入りしませんでした。さらりと書きました。でも、興味はあります。ぜひ、送ってください。急ぎませんから。
ではまた。
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Letter 173 メタファーとメトニミー&月曜日
日付: 2002/11/26 23:29
小出良幸さま
前田少年への感想文、了解しました。メモから文に起こしましょう。
そして、今日の中心はレポート返答「人間だから」に対するメールです。
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鶏が先か、卵が先か…久しぶりに聞きました。入れ子状態で言い換えられた部分は、非常に的を得ていると思います。とても、イイと思います。
ただ、やはりどう捉えるかの問題として、入れ子と同様に、「比喩」という関係性による捉え方もできると思います。(一般に比喩といわれているものは、言語学的にたくさんの問題をはらんでいるようですが、勉強不足と必要性の点から詳述は避けます。)
「比喩」といってもいろいろ種類がありますが、ここでは「隠喩(仏・メタファー)」に限ります。メタファーは一言で言えば、「月見そば」の喩です。月見そばの上に乗っかっている「卵の見た目」と空にある「月」が似ているから、「月見そば」という喩が成り立ちます。これは見た目の類似性による繋がりですが、「宇宙とは等身大の私である」という定義を成り立たせている繋がりは、「認識/非認識」や「無限/有限」といった同じ概念が双方に見出せるということです。つまり、相同性の原理が働く関係です。
小出さんが提示してくださった入れ子型サンプルは、相同性の原理ではなく、逃走的関連の原理と同じだとおもいます。そして、これはメタファーと共に重要な比喩の概念「換喩(仏・メトニミー)」に換言することができます。メトニミーとは、語によって指される事物・事態同士の接触・含有・因果関係による喩です。「横綱に土!」「お銚子もう一本!」のように、負けたから土がつくから負けることを土がつくと言ったり(因果)、お酒の入っているお銚子をお酒という代わりに言う(接触)ものを指します。入れ子・イタチゴッコの喩…逃走的関連にあるといえましょう。
今回の場合、私がメタファーで考えたことを、小出さんはメトニミーで考えたと言うことができると思います。このメタファーとメトニミーという二つの概念は、ラカンが精神活動の二大組織原理として精神分析学に応用しています。(もちろん、言語学の方では構造主義言語学に応用されていきます。)そして、多分、思考回路の方向性が私と小出さんとでは違う(まぁ、違う人間なのだから大なり小なり違って当たり前なのですが…)ということだと思います。精神分析学もやはり勉強不足で詳述できないのが残念ですが、おそらく、そういうことでしょう。
が、最後に面白いなぁと思ったのは、たとえ思考回路が違っても、その回路を経て出た結論なり、考えなりに同じ意味を見出せてしまうことでしょうか。私は自分でこの定義をし、定義を支える論(小出さんにはちょっと広範すぎる「消しゴム」の比喩を使いましたが)を立てながら、「これは、自分とは何か・人間とは何か…といったいわゆる根源的な謎に向かっている」と感じていました。そして、小出さんが抜粋した部分を再読して、「やっぱり、そうだったか」と確認しました。「人間だから」という理由は、まだ私の中ではどうも腑に落ちない感じですが、概ね合点です。
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レポート続編は以上です。
私は自分が思っている以上に、物事の相同性を見出すのが好きなようです。つまり、区別するより繋げる方が好みです。『話が聴けない男と地図が読めない女』だったでしょうか、読んではいませんが内容を聞く限り、後者型であると思います。でも、英語力(特に読解)は低いし、小学生の頃から国語は全教科の中で最も不得意だったし、中高の現代文テストは平均点を下回ることのほうが多かったはず。そんなでも、近代文学をやっているのだから不思議です。(否、そんなだったから(?)できるのかな??)
病は快気しました。日曜日によく寝たので、月曜の3限には出られました。ただ、出ないほうが正解だったのかな、と少し後悔しています。
作家論という2時代前の研究方法を使っている三島由紀夫崇拝者(御年53歳)による『金閣寺』でした。オバサマは・・・熱意は院生よりおありで、年嵩なりに知識も豊富(研究方法・文学理論は除く)。謙虚な方のようなのですが、頭が固めで気が強い。数多ある先行研究をつなげるばかりで作品そのものに対する自分の読みが提示されない。よって、院生は皆一様に白目です。あからさまに「嫌い」と言う人もありますが、悪気があってのことではないので、苦しいです。
同じ近代の研究をする者として、昨日は出ることにしました。かのような嫌悪や修論のために出席者は半数以下でした。私は意見をしましたが、肝腎の「古さ」「固さ」「読みの狭さ」には、さすがに触れられませんでした。先生は、多分小出さんと同じくらいの御年ですので、オバサマより年下で、少しやりにくいらしいのですが、「読みが狭い」と控えめに忠言なさり、私は大きくうなずいてしまいました。オバサマもうなずかれていたようでしたが、多分脱却は・・・。筋金入りの固定観念は、そう簡単に消えないでしょ。私も固いほうではありますけれど。
快気が吹っ飛ぶくらい悩ましい1時間を過ごしたノリで、月曜日のひとコマを書き連ねてしまいました。どう接したらよいのか、本当にわかりません。参りました。4限の文学史がとても楽しかったので、救われました。
久しぶりにメールを送って2通目に、久しぶりの長いメールになりました。 明日は今後の計画について先生のところへ相談に行きます。もちろん、授業もありますが今後の難題の方が重要です。その模様は、また。
スガイミサト
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Letter 174
菅井様
久しぶりに能弁な菅井さんのメールを見ました。
頭の固い人は世の中にはたくさんいます。多分、自分から見て「頭の固い人」は、大部分(8割以上)でしょう。というのは、社会常識的にみて「頭が固い人」と自分とは意見が会わない人も、その分類に入れてしまいがちだからでしょう。
そのようは授業に対するやり方はいくつかあります。まず、いやいや聞く授業は時間の無駄と考え、逃避する。2番目、単位のため、さまざまな人がいることを知った上で、適当に消極的に授業を聞く。3番目、世の中の大半はそのような人々だから、そのような人々への接し方の訓練として、実験的にいろいろ接触や議論を試みて、どのような対処がありうるか訓練しておく。4番目、これは正攻法ですが、納得するまで、力つきるまで議論していく。もちろん順番が上がるほど精力を使います。あとは自分で考えてるしないようですね。
さて、レポートに対する意見ありがとうございます。
(このメールは書きかけで、出さなかった)
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Letter 175 ひとこと
日付: 2002/12/ 5 03:34
小出良幸さま
前田くんのレポートを読んでの感想を送ります。
前回「メタファーとメトニミー・・・」で「月曜日」に関する記述は、喋りす
ぎたと思います。忘れてください。
スガイミサト
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Letter 176 レポート感想文
日付: 2002/12/ 5 03:35
前田信さま&小出良幸さま
前田くんが小出さんに出したレポートを読んで、思ったことを書きました。 いつもながら、言葉尻を掴むようなものの言い方が癪に障るかもしれませんが、思ったことをなるべくストレートに書いたつもりです。
前田くんには、事前のお便りを出しませんでしたが、もしよかったら、お読みください。
それでは、はじまり、はじまり〜。長いです。3500字超。
___________________________
「宇宙とはあくまでも言葉を作った人のなかでの「宇宙」であり,今使う人の「宇宙」とは異なるかもしれない。。。それは確かだと考える。」
「かもしれない」と言いながら「確かだと考える」とは、いささか誤文法ではありますが、内容は、正論です。
@言葉は、変化するものです。そして、A言葉はそれを使う各人同士が意味を共有しているとはいえ、細部に至っては決して同一の意味を持っていないものです。この2つの理由から、上の意見は正論だと言うことができ、支持できます。
「辞書に載っていることがすべてだ,という考えの人が少ないということ。それこそが一番だと思う。辞書では決まり文句を並べているが,あくまでもそれは人と人との間での定義であるのだから自分のなかでもその定義を使う必要は無い」
ちょっと長い引用になりました。ここでは2つのことに焦点を絞って考えてみましょう。
@「辞書に載っていることが全て」
もし、これが正しければ、私が今研究している「文学」は、成立しないことになります。極端なようですが、本当のことです。辞書の記述は、基本的に「人と人との間で定義付けされた事柄」です。というのも、言葉は人同士のコミュニケーションの必要性から生じたものですからね。当然です。ただ、ときどき、言葉の表面上の意味だけでなく、生活の中で、あるいは文学などでよく使われる影の意味を記している辞書もあります。例えば、「花」なんかは、確かに数多ある植物の「花」を総じて言いますが、時代によって「花」といえば「梅」を指し示し、今は「桜」を指します・・・といったように。それでも、もちろん、全てをカバーできるわけがありません。言葉は生き物、常に意味が増えたり変化するものですから。辞書を作るに当っては、その意味が定着しているかどうかを見極めなければいけないというのも、重要事項の一点です。一方で、定着していなくても、いつどんな言葉が、どのような意味で用いられたかというのは、できるだけ残す必要はあります。それは、私たちがどのように言葉を選択し、使っていくのかということを考える材料になるからです。(これは、個人的趣味ではなくて、知的財産としてという意味です。)
A「辞書が採用する定義を自分の中でも使用する必要性はない」
必要性というのは、個々人の判断ですから、何ともいえません。つまり、自身が要らないと思ったら、それはきっと彼方にとって要らないということなのでしょうね、としか言いようがないということです。逆に考えると、必要がないと自分が思ったからといって、他人にも必要がないかといったら、それは否だということです。
挙げ足取りはこれくらいにして、本題。辞書が載せている意味というのは、非常に基本的なものです。そして、先ほども言いましたが、言葉はコミュニケーションの手段です。となれば、辞書にある意味を無視して、言葉を使うことができるのかという問いは、不可能という答えしか残されていません。
しかし、私はそうではないことを知っている人の一人です。思っているのではなくて、あえて知っていると言いましょう。
前田くんは、国語が嫌いそうですが、詩は好きですか?
詩を読んでいると、辞書には絶対にない表現、つまりコミュニケーションの手段として認められていない言葉がたくさん出てきます。でも、そのような言葉に限って、詩のイメージを読み手に喚起させる力を持っています。私はこういう言葉を「感じさせる言葉」と言います。よく「言葉が生きている」と言いますが、その原理はこの「感じさせる言葉」にあると思います。
また、感じさせる言葉をうまく使って表現できている詩を「感じる詩」と言います。連綿と書き綴られた感じる詩の中で、言葉は蠢(うごめ)いて感じられます。怖いくらいに。そして、頭で理解する言葉ではなく、感覚的な言葉と、その言葉によって読み手の感覚を最大限引き出させる感覚的な詩は、近代文学殊に近代詩の成果の一つだと思います。
話を元に戻します。
「てふてふうらからおもてへひらひら」
これ、ご存知(?)山頭火の吟。たぶん知っているとは思いますが、「てふてふ」は蝶のこと。でも、これをさも物を知っている人の如くに「ちょうちょううらから・・・」と読んではいけません。詩情が壊れます。山頭火はそのように指示しているわけではありませんが、「てふてふ」と文字通りに読むことによって、その蝶の羽が空気をうつ感覚が甦ってきます。
ちょっと鑑賞してみましょう。やわらかな羽は「てふてふ」とゆるやかな翼音を音もなしに感じさせる。それは障子か何かの影になって、まだ光のあたっていない庵の中の蝶の姿かもしれない。どこかゆったりとしている。おもてへでてきたら、今度は日の光を浴びてその可憐な姿をみせた。庵の中の自分はその美しさを目の当たりにする。そして、蝶は軽やかに「ひらひら」飛んでいった。
この鑑賞は、私の勝手な解釈です。何の注釈書も見ていません。(というか、注釈書はありません・・・。)だから、違うかもしれません。でも、こうして立てた自分の解釈が文学研究の基本でもあるのでご容赦。
で、問題は「てふてふ」です。古語で「てふ」を引けば「蝶」と出てきます。いろいろ引いてみても、「てふてふ」とは「蝶の羽が空気を打つ感覚を写した語」とは出てこないでしょう。由来として出てきても、意味としてはもう消えてしまったわけです。意味が消えたのがいつかという詳しいことはわかりませんが、「てふ」を「ちょー」と読むようになたのは室町時代の終わり頃だったと思いますから、山頭火の頃にはあえて「てふてふ」と読むことの方が新鮮だったと言えます。そして、辞書にはないけれど、翼音の感覚を「てふてふ」によって表現したということになります。
詩でなくても、例えば絵本でも童話でもいいでしょう。
宮沢賢治に、「やまなし」という童話作品があります。その中に「クラムボンは笑ったよ」というカニのお喋りが出てきます。この、「クラムボン」は、世界中の誰に聞いても、その実体(つまり、クラムボンとは何か)を知っている人はいません。よく、想像上の生き物として、人魚とか麒麟とか龍などがありますが、そういうものとも違います。そういう意味では永遠の謎といえます。しかし、「やまなし」の世界が合う人には、「クラムボン」が意味としてでなく、感覚としてわかるから、不思議です。
でも、そういうものです。文学にしても、何にしても、フィーリングが合わなければ、その実を得ることは不可能です。たとえ、理解はできたとしても。
「てふてふ」や「クラムボン」が教えてくれることは、コミュニケーションの手段として認められていない言葉であっても、コミュニケーションの手段になりうる、あるいは表現の方法になりうるということです。そして、この前提には、「てふてふ」や「クラムボン」という言葉を含んだ文章なり詩なりの表現を、感じ取ることができる読者の存在が必要です。それが、先のフィーリング(感覚)ということであり、各人の個性でもあります。ある人にはわかるものが、別の人にはわからない・・・そういうこともアリなわけです。
そして、ここにある重大な問題は、そのコミュニケーションの手段として認められていない言葉を作ることです。
小出さんのレポートは、「あなたにとって宇宙とは何か」というものでした。
そして、前田くんは、宇宙という言葉ができた時と今自分が捉えている宇宙観との差異を回答しました。同じ宇宙という言葉に、いろんな意味があり、そのうちの一つとして、前田流宇宙を組み込むことはできます。しかし、あえて、前田流宇宙を別の言葉で表現することはできないでしょうか。
辞書にはたくさんの言葉が出てきます。知らない言葉、消えてしまった言葉もあります。そうした、たくさんの言葉ができた背景には、自分が表現したいものを、正確に表現しようとする心理があると思います。似て非なる言葉があるのは、それらの言葉間にある多少の違いを認識することができ、違うものとして認識したい民族的な心理の表われでしょう。
前田流宇宙を別の言葉で・・・というのは難しいかもしれません。でも、「この気持ち(状態)をどう表わしていいかわからない」ということはよくあることでしょう。そういう場面に直面した時、既存の言葉で表現できないなら、創ればいい・・・と思います。そういう言語表現のあり方を、国語ではもっと認めていいはずです。束縛せずに、自由に表現できるように、幼い頃から言葉で遊びをし、言語創造力ひいては表現能力が引き出せる教育が、大切だと思います。
徐々に徐々に話がずれてきたようにも思いますが、前田くんのレポートから思ったことをつれづれなるままに書いてみました。なるべく平易に書くよう心がけましたが、スパイス程度に固い言葉が入ってしまいました。でも、大体意味はわかりますでしょ?
「言語創造力」に関する部分は、私が初めてEPACSの研修会に参加した時、「岩石の触感等を表わす言葉が少ない」という平田さんの発表を聞いたときから、ず〜っと思ってきたことでもあります。(言いそびれて、今に至りました。)
想像力・創造力の涸渇は、想像・創造させることによって、打開できるものでしょう。大人になると、なかなか難しくなりますので、頭の柔らかいうちにお試しあれ。
長くなりましたが、これでお開きとさせていただきます。
スガイミサト
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Letter 177 <追記>
▼第1回レポート:あなたにとって宇宙とは何ですか?
From: "Makoto MAEDA" <verde@tecnet.or.jp>
日付: 2002/11/19 20:14
前期はなかなか書くことができなかったのですが,今回からはできる限り書いていきたいと思います。尚,なるべく公開は避けていただきたいです(はずかしいから(笑))。また,蛇足がつきすぎたので少し本人も困っていたりします。これを書くに当たっては,固定観念に「とらわれるように」書いたので,事実は一切気にしていません。科学をも気にしていません。悪しからず。
<あなたにとって宇宙とはなんですか?>
自分にとっての宇宙とは,地球は含まれず,大地から見上げることのできる夜の暗闇。この世界にあるものすべてが宇宙とは考えず,いまいる世界とは別の枠として捕らえている。理論的に説明されるものでも,結局は自分で(理論ではなく)確かめなくては信じることはできない。さらにいえば,望遠鏡から覗いたものが果たして本物なのか・・・それでさえ簡単にはわからないのである。
しかし,いえることは,「宇宙」という言葉を作った人が考える意味で現在まで使ったほうが使いやすいということ。はじめに使った人と違った意味なのでは,もしかしたら「宇宙」とはいえないかもしれない。宇宙とはあくまでも言葉を作った人のなかでの「宇宙」であり,今使う人の「宇宙」とは異なるかもしれない。。。それは確かだと考える。
この世で一番確実なのは今,存在するものがある。ということだけであってそれが「宇宙」なのかまたは「宇宙」ではないのか?などということは,はたして意味があるのだろうか?人もすべてが宇宙と考える人もいれば,それは含まれないとも言う人がいる・・・それは,それぞれの人のなかで考える宇宙というものが違うだけのことであって,言葉はもともと「正しい意味」があるとは思えないから,いいことだと思う。
さらに深くとれば,それは辞書に載っていることがすべてだ,という考えの人が少ないということ。それこそが一番だと思う。辞書では決まり文句を並べているが,あくまでもそれは人と人との間での定義であるのだから自分のなかでもその定義を使う必要は無い・・・・・すばらしいことだとは思いませんか?
少し横道にそれましたが,自分にとっての宇宙とは,星や小惑星,チリ,または他の質量のあるものではなく,膨張を続けている(と説明されている)空間のことである。ということだと考えている。しかしこれは前述の観念に次第に縛られていくことによって変わっていってしまう考え方だと思う。考え方とはその一瞬一瞬で変わるものであり,後々ではまた変わっていると思う。それはそれでおもしろい。。。。。。
しかしわれながらよくここまでわかりにくい文章を作ったものだと感心します(哀)。このごろは本を読みすぎて眠くなっているのでいつも頭がぼお〜っとしております。読書の秋とはよく言ったものです。最近ではレジストリをいじくり始めていますが,そろそろやめておかないとシステムが壊れる気がします。博物館にはこのごろいけていませんが,家でじっくりとホームページをつくったり,整理をしていたりします。最近ではDLLに興味が出てきました(レポートとなにも関係ないですね)。ではメルマガの発行もがんばっていってください。
▼現状と変化
2002/11/20 07:56
前田さま
ご無沙汰していました。お元気ですか。
本を一生懸命読んでいるようで、いいですね。本には、人類の知識が一杯詰まっています。一杯読んでください。どんな本でも、いいと思います。どんなにくだらない本でも、少なくともその文章書いた人は、その時点では、一生懸命書いたはずです。でも、できれは、一生に読める量からいえば、質のいいも、感動できるものが読めたほうが幸せですが、なかなかそんな本に出会うのはむつかしです。
私も読みたいのですが、最近は、なかなか読めません。目的があればある程度時間が作れますが、現在は、小説の類は、全く読めません。あるいは、読まないことにしました。時間がないからです。
湯河原にいた時は、通勤のために電車に往復で、1時間ほど乗っていたので、それを読書時間にあててました。それがなくなりました。つらいです。ですから、趣味の読書はやめました。最近は集中に読んでいるのは、子供受けの地質学や科学の解説書と、Linux関係の本です。Linux関係の本は、最近読みだしました。どちらも、現在の仕事と関係するからです。
さて、レポートの内容に関してです。
レポートありがとうございました。できれば、名前なしでもいいですからホームページに掲載したいのですが、よろしいでしょうか。
前田君は、宇宙とは、「大地から見上げることのできる夜の暗闇」で、それは「膨張を続けている(と説明されている)空間のことである」とされています。「固定観念に「とらわれるよに」書いたので,事実は一切気にしていません。科学をも気にしていません」と書かれているので、内容については、深入りしないことにしましょう。
さらに、「考え方とはその一瞬一瞬で変わるものであり,後々ではまた変わっていると思う」とされています。確かに、人間は、変化します。そして、その状況や自分の考えも変化していきます。ですから、「宇宙」の定義など、変化していもいいと思います。
でも、大切なことは、自分の中で、その変化をしっかりと、認識し、変化の根拠を整理しておく必要があります。
なぜなら、もし、「お前、この間、Aといったのに、今では、Bといっているぞ」と指摘されたとします。そのとき状況が、利害が関係するとなると、重大です。でも、相手が、納得する理由が説明できれば、いいのです。そのためには、自分自身が、その変化に気付いておく必要があります。相手に指摘されてからでは、その場のしのぎのことしか言えないかもしれません。それでは、お粗末です。
ですから、まずは、自分自身が、その変化を理解しておく必要があります。今回のレポートのお題は、利害が生じようがありません。まして、「あなたにとって」という前提が付いてます。ですから、好きに考えていいわけです。
でも、一生懸命考えれば、それは、思考の訓練にもなるし、一所懸命考えたことは、無駄にはならないと思います。もしかすると、将来どこかで必要になるかもしれないからです。
通学電車の中ででも、考えてください。私は、歩いている時、よく重要なことについていろいろ考えています。頭は疲れないのです。体や目は疲れることがあっても、頭は結構使っても疲れません。ですから、体や目が疲れたら、体を動かしながら、考えつづければいいのです。頭は、もっと使わなければなりません。私の頭も、まだまだ働きが足りないようです。ただ、時間が余りないので、年齢が増えるに従って、時間を有効に使う技術も必要となります。まあ、おいおい分かってくるでしょう。
ではまた。
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Letter 178 意図的逸脱が創造へ
2002/12/ 9 11:23
前田様・菅井様
こんにちは。
私が「Terraの科学(後期)」出したテーマ「あなたにとって宇宙となんですか」に関して、議論が展開しています。前田君は今のところ沈黙を守っているのですが、議論は、始まってしまいました。どれだけ続くのでしょう。それは、菅井さんと前田くんによります。
できれは、この一連のメールをClubGeoのメーリングリストに流したいと思います。問題があれば、連絡ください。
さて、これは、『「前田君のレポート」に対する菅井の意見』に対する私の意見です。もちろん、前田君への意見をその中に含んでいます。でも、実は、当たり前のことですが、私自身の考え方であります。
はじめましょう。
まず、今までの議論を整理しましょう。
前田君がレポートの中で述べた、2つの点に関して、菅井さんが意見をいっています。
1 前田君の
「宇宙とはあくまでも言葉を作った人のなかでの「宇宙」であり,今使う人の「宇宙」とは異なるかもしれない。。。それは確かだと考える。」
に対し、菅井さんは、
「@言葉は、変化するものです。そして、A言葉はそれを使う各人同士が意味を共有しているとはいえ、細部に至っては決して同一の意味を持っていないものです」
とされ、同意されています。
2 前田君の
「辞書に載っていることがすべてだ,という考えの人が少ないということ。それこそが一番だと思う。辞書では決まり文句を並べているが,あくまでもそれは人と人との間での定義であるのだから自分のなかでもその定義を使う必要は無い」
という発言に関して、菅井さんは、以下の2つに分けて、吟味されています。
@「辞書に載っていることが全て」
について、菅井さんは、
「辞書の記述は、基本的に「人と人との間で定義付けされた事柄」で」
あると、一般論を述べられています。もうひとつ、
A「辞書が採用する定義を自分の中でも使用する必要性はない」
について、菅井さんは、
「コミュニケーションの手段として認められていない言葉を作ること」、つまり、辞書にない使い方で、「前田流宇宙を別の言葉で・・・というのは難しいかもしれません。でも、「この気持ち(状態)をどう表わしていいかわからない」ということはよくあることでしょう。そういう場面に直面した時、既存の言葉で表現できないなら、創ればいい」とされています。
こう整理すると、菅井さんは、1の主張を、2でも繰りかえてしているわけです。
以上の二人の議論の要点は、「言葉には、辞書的意味がある。しかし、個々人が自分流に変化させて使ってよい」ということになるようです。つまり、われわれが、日ごろ普通にやっていることを、明言しただけです。こういっては、ミもフタもありませんので、すこし、議論を展開しましょう。
問題は、意図的に「自己流の変化」の実践ができるかどうかです。上のような原理を見抜いたことは、すばらしいことです。しかし、それで終わっては、進歩がありません。問題は、それをどのレベルで実践できるかどうか、ではないでしょうか。無意識に日常的に使うレベルから、山頭火のように芸術レベルまで、さまざまなレベルがありうるはずです。
言葉の原意を理解した上で、既存の言葉意味では、自分の伝えたいこと、表現したいことが伝わらないとき、どうするかです。黙ってしまうのも手ですが、黙れば「唇寒し」です。
私は、科学の世界の住人ですから、明確であれば、何でもありというレベルです。言葉は人それぞれで使い方が、微妙に違いがあります。それこそ千差万別です。それはよしとます。しかし、もしその言葉の微妙な意味を、自分が意図する意味で理解して欲しければ、可能な限り、理解しやすい形で示すべきである、つまり、定義を明確にして利用しましょうという立場です。
これは、立場であって、他のレベルの立場を認めないというわけではなりませんから、誤解しないように。科学とは、そういう世界なのです。なぜなら、その姿勢さへ守っていれば、作者の意図とかかわりなく、そのデータは意義を持ち、仮説、論理、理論は成立しえます。そこには、最初に出した人、提示した人、考えた人としてのプライオリティ(占有権)が発生します。
科学の世界の言語体系、あるいは論理体系、原則、掟とでもいうべきものが、そうなっているということだけです。
ところが菅井さんが住んでいる文学、詩歌などの芸術の世界は、発言者(作者、作家、詩人など)が明確にその言葉の定義をせず、読む側の感性にゆだねるという方法を取ります。(まちがっていたらごめんなさい。)もちろん、作品が、読む側の感性に触れないと、それは、無視されるという厳しい世界でもあります。
私は、もちろん、この世界も認めます。それは、言葉をどの姿勢で使うかという前提が、私に理解できるからです。
以上述べてきたように、私は、言葉が、いろいろの意味(辞書の意味から、個々人の固有の使い方まで)あることは認めます。しかし、重要なことは、辞書からの逸脱の方法、あるいは逸脱の意識だと思います。日常的には無意識、あるいは「流れ」で、小さなコミュニティ内で、言葉を使っています。それはそれでいいのです。しかし、そのコミュニティから出て、他のコミュニティでも、その言葉を使いまわすのは、無知、あるいは世間知らずというべきです。ですから、最低限の理解を共有することは、菅井さんの言うように必要です。
でも、それだけでは、つまらないのです。逸脱すべきです。逸脱にこそオリジナリティがあるはずです。でも、その逸脱は意識して、あるいは意図して行うべきです。そして、それを他者、つり他のコミュニティの集団にぶつけてみることです。
それが、成功すれば、いい研究成果であり、いい作品、感動であるわけです。失敗すれば、独善的であり、駄作、無駄であるのです。しかし、失敗を恐れては、いけないと思います。特に若いときには許されます。
たとえば、私の年齢や立場のものが、あるコミュニティで「非常識」を語るには、それなりの覚悟がいるわけです。でも、もし、同じことを前田君が語れば、許されます。菅井さんでは、微妙ですが。
しかし、逸脱にこそ創造性があります。それを、いかに、いいものにするかは、個人の能力と感性と、努力と、訓練であります。いずれにしても、こだわり、ひつこくおこなうことが、良き創造性への道です。
菅井さんのいう「前田流宇宙を別の言葉で」というのも、前田君への、同じような励ましだと思います。この意見は、前田君と菅井さんへの、そして私自身への励ましでもあります。
ぜひ、前田君も、菅井さんも、「意図的逸脱」をして、そこに創造性を見出してください。沈黙は、「無」ではないでしょうか。
意見をお持ちしています。ではまた。
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Letter 179 ML=OK
日付: 2002/12/10 08:31
小出良幸さま
おはようございます。
昨日は、初雪でした。こんなに早く雪が降るなんて、珍しいことだと周囲の人間は皆一様に驚いている模様です。
そんな中、聖心院日文専攻・史上初の忘年会でした。前に鬱屈したメールをお送りしましたが、たまらなくなって、あの後「忘年会をしよう!」と発起したのでした。
先生に向かって授業を批判したりして、今更ながら「喋りすぎた」と反省している次第です。先生方が怒ってないことを願うばかりです。
ところで、前田君とのやりとりですが、私はOPENにされても構いません。
ただ、小出さんの予想に反することが起きています。というのも、アノ後、前田くんから反論がきて、私もそれに対して1通反論文を出しました。つまり、ちょっと話が進んでしまった、ということです。これは想像のつくことかと思いますが、前田くんの反論メールは、私の最初の意見に正面から批判するものではなく、ズレていました。ですから、今回の小出さんのメールと併存できるような内容ではありません。
提案としては、メーリングリストでは、小出さんのメールに続くような形で、繋げてはいかがでしょうか。
もちろん、前田くんの了承があっての話になると思いますが。
どうも、お酒アレルギーらしいということが、今わかりました。文化の日に飲み会があったのですが、その翌日、目が曇って、充血し、ヒリヒリするので目医者に行った所、アレルギーと診断されました。原因は聞き忘れましたが、今また同じ症状が出ています。きっと酒アレルギーです。日本酒がおいしいだけに、ショックです。
以上、主題はMLでした。
スガイミサト
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Letter 180 雪が解けてきました
日付: 2002/12/10 10:55
小出良幸さま
一日に、それも朝から2通も3通もお手紙を送ります。
前田くんの了承があるかどうかわかりませんが、意見があるので書きました。小出さんのHPで前田くんのレポートが出ていることは、メルマガを読んでいればわかることでしょうし、公然のことなので、前田くん以外の皆さまは、突然私や小出さんの意見文がやってきても、理解できるだろうと今思いました。
ということで、意見文パート2です。
スガイミサト
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