Letter Box No. 17


Letters 「境界と越境」

目次

Letter 161
Letter 162
Letter 163
Letter 164
Letter 165
Letter 166
Letter 167
Letter 168
Letter 169
Letter 170


Letter 161 富士山+おやつ
日付: 2002/ 8/12 20:21
小出良幸さま

 北海道はやはり涼しいと聞いて以来、毎日のように新聞の旅行広告の「北海道」に羨望の眼差しを向けています。山も温泉もたくさんあって且つ涼しいなんて、最高ですね。「明日からは少し暑さも和らぎそうです」という声につられてテレビを見ると、「33℃」。絶句です。これのどこが涼しいのでしょう。

 凡そ10日に1つの割合でお仕事があるようで、急き立てられますね。今は学会発表の下準備真っ最中でしょうか。それに運動不足と栄養過多、バリバリの現代人ですね。(湯河原暮らしで運動不足は解消なさったのでは、と思っていましたが??)私はまだ引っ掛かったことはありませんが、人の振り見て我が振りを直そうと思います。私も、レポートや発表・授業準備のおかげで夏休みが潰れそうで、只今かなり運動不足です。桜木町図書館巡りや資料探しで動いているような気持ちにはなるのですが、実運動量は、かなり少ないはずです。

 今、「富士山」に関するレポートを書いています。と言っても、地学ではなく、文学ですから、韻文において「富士山」がどのように詠まれて来たか、ということを調べています。
 先生は季語を調べて欲しかったようですが、私は季語より「山」を調べたいと思い、いろんな山を見た結果、富士山になりました。(本当は、名所ではない山をどういうふうに詠んだかを調べたかったのですが、それだと「山」という言葉を含んだ歌を全て調べないといけないので、夏休み中には終わりません。富士山でさえも、用例が多くて参っています。)
 本当なら歌や句に詠まれている富士山と富士山から連想されるものがどのようであるかを調べていけば良いのですが、どうもそれだけでは納得がいきません。現時点で、噴火状況や溶岩の性質について等調べる必要が出てきています。つまり、非文学の調査です。明後日博物館へ行く予定なので、その折に調べようとは思っていますが、それでもわからなかったら、ClubGeoのメールに投稿しようと思っています。

 最後に、随分昔に期限切れのレポートを送ります。「この世の重大事件」のレポートです。どうも袋小路に入ってしまったようで、すっきりしないレポートですが、休憩のおやつにどうぞ。

   スガイミサト
content


Letter 162 この世の重大事件レポート
日付: 2002/ 8/12 20:21
 この世の重大事件は、「この世」が始まったことです。
 「事件」というと、例えば生物の爆発的な増加や氷河期の到来など、何某かが大きな変化をした場合をイメージします。実際、この連想は妥当な方向性にあると思われます。
 しかし、よくよく考えてみれば、この世が始まって以来、この世に存在している(した)全てのものがあって初めて、「この世の重大事件」は起こりうるのではないでしょうか。先にあげたような大きな変化だけでなく、私がここに生を受けたという非常に個人的な「事件」も、この世あればこそ、なのです。 逆に、この世がなかったら、「この世の重大事件」を問うことすらナンセンスになります。まず、この世がないのだから、あらゆる事件を引き起こす可能性を持った要素が存在しません。そして、この世もない代わりに、この世の事件も起こりません。
 以上のように、この世の重大事件の中で、1番重大な事件は「この世」が始まったことであり、「この世」があること自体が、「この世」にとって最も重大なことのように思います。(そして、「この世の終わり」という事件が起きた時、それは「この世」にとって、「この世の始まり」と同じ重さの事件であると思います。ただ、今の時点では未発生の事件なので、保留にしましょう。)

 では、いわゆる「事件」に遭遇したときのように、「この世が始まった」という事件を原因・結果の面から考察することは可能でしょうか。つまり、「どうしてこの世があるのか」「この世が生じて、どのような変化が起きたのか」を問うことができるのか、ということです。
 この問いを解くためには、「この世以前」と「この世以後」を見比べて、その変化を考えなくてはなりません。前回「この世の定義」を行なった際、私はこの世とあの世の相対的関係を考えましたが、「この世以前」「この世以後」を言い換えれば、「あの世」になります。ですから、「あの世」と「この世」を比較して、その差異を見出せばいいはずです。
 言葉で問うことは、簡単です。しかし、実際にこの問いを解くことは、不可能だと思われます。理由は、「あの世」は非認識の空間・時間だからです。

 この世の重大事件に関して、考えてはみましたが、くっきり明解な答えには行き着きませんでした。

以上■
contentへ


Letter 163 ご勘弁を
2002/ 8/13 15:16
菅井様
レポート受け取りました。
またまた、忙しくしております。
メールが、またしても、しばらく滞ります。
ご勘弁を。
contentへ


Letter 164 おげんきですか
From: "Misato Sugai" <santouka@crest.ocn.ne.jp>
日付: 2002/ 9/ 5 18:24
小出良幸さま

 イギリスの調査はいかがでしたか?
 こちらは少しずつ秋の風が吹き始めています。

 お忙しい所、急かせてはいけないと思って、言わずにしまったことを1件と質問を1件。

 まず、言わずにしまったことは、メールマガジンがダブって発信されていることです。

Dialogの78と79→8/15
地球のささやき104と105→8/29
というように、同日中に2週分のマガジンが届きました。
 単純にミスかな、と思ったのですが、ご存知でしたか?

 質問は、TerraLecture21のDNAとRNAについて。

 DNAもRNAも4種類のヌクレオチドから成っている事は、中学の時分に習いました。
でも、DNAのヌクレオチドに含まれる塩基がアデニン・グアニン・シトシン・チミンの4種であるのに対し、RNAのヌクレオチドに含まれる塩基にはチミンの代わりにウラシルが入っていると習いました。
 また、ヌクレオチドを構成する糖についても、DNAの方はデオキシリボースで、RNAの方はリボースとなっています。(こちらは高校の図説を参照して気付きました。)
 小出さんの記述だと、「RNAは、DNAとおなじ、4種のヌクレオチドからできています」となっています。そうすると、RNAとDNAのヌクレオチドは同じと読めるような気がします。糖と塩基の違いは、ないのでしょうか。

 9月ももう1週間が過ぎようとしています。夏休みも終わりに近付き、レポートが終わるのか、少々焦り気味です。

  スガイミサト

追伸:
先日山下さんから報告書の校正要望書(?)が届きました。
あんまりにもひどい内容であったことを反省し、3日悶え、1日徹夜して全面改装しました。

恩師のご不幸、お辛かったですね。TerraIncognita等で読みました。
私は、恩師ではありませんが、この夏の初めに父方祖母が亡くなって帰郷しました。
父方の祖父の三回忌が去年で、今年は何もないと思っていたのですが、亡くなってしまいました。
でも、私は祖母の通夜・葬式の時、一滴も涙を流しませんでした。
辛いとか、悲しいとか、寂しいとか、感情というもの自体が沸いてきませんでした。
いまでも、それは変わりません。それが、不思議でなりません。
新聞やテレビで見も知らない人の訃報を見聞きするだけで、涙することがあるのに、血の繋がった祖母の死に際して、悲しいとも思わないのは、私が非情だからなのでしょうか。わかりません。
contentへ


Letter 165 ごめんなさい
2002/ 9/11 14:30
連絡遅れてすみません。
元気です。
そして、メール書けなくて、ごめんなさい。
レポートの感想をも書かなければならないのに、とまったままです。
14日には博物館で話をしなければなりません。
現在、またったメールや事務仕事におわれながら、
その準備を目指していますが、大変です。
ですから、メールは、落ち着いてからにします。
こちらは、来週から講義です。
ではまた。
contentへ


Letter 166 修正の回答
2002/ 9/18 14:22
菅井様
 今回は、回答だけです。
 TerraLecture用の質問と回答のためにメールの返事をとりあえず書きます。

 最初の指摘。
「DNAのヌクレオチドに含まれる塩基がアデニン・グアニン・シトシン・チミンの4種であるのに対し、RNAのヌクレオチドに含まれる塩基にはチミンの代わりにウラシルが入っている」
 その通りです。私の説明が、間違っていました。
 講義では「RNAは、DNAとおなじ、4種のヌクレオチドからできています」と書いたのですが、「おなじような」と訂正すべきです。
 正確には、DNAのヌクレオチドに含まれるのは、アデニン(Aと略されます)・グアニン(G)・シトシン(C)・チミン(T)の4種塩基、RNAに含まれるのは、アデニン・グアニン・シトシン・ウラシル(U)の4種塩基です。

 次の指摘。
「ヌクレオチドを構成する糖についても、DNAの方はデオキシリボースで、RNAの方はリボースとなっています」
 これも、その通りです。
 DNAは、デオキシリボ核酸の略で、核酸の一種です。そのDNAを構成する単位としてヌクレドチドがあります。ヌクレドチドは、塩基とデオキシリボース(五炭糖)とリン酸が組み合わさったものです。
 RNAはリボ核酸の略で、やはり核酸の一種です。RNAもヌクレドチドからできています。DNAとRNAには、大きな違いがありま。
 一番の違いは、DNAが2本鎖であるのに対し、RNAは1本鎖である点です。
 役割の違いも重要です。DNAが遺伝情報を蓄積するのに対し、RNAはタンパク質合成のためのアミノ酸の種類や数、順序を指示する伝令の働き(mDNA)、mRNAで指定されたアミノ酸を運ぶ働き(tRNA)、そしてタンパク質合成をするリボゾームをつくる(rRNA)の3種があります。
 そのほかにも、指摘のように、塩基の部分で、DNAがA、T、G、Cの4種なのに対し、RNAではA、U、G、Cの4種からできているという点、そして、DNAのデオキシリボースの5つの炭素に結びついた水素(H)のひとつが、RNAでは水酸基(OH)に置き換わってリボースになったものであるという点が違っています。

以上、修正の回答でした。
ではまた。
contentへ


Letter 167 感性で
2002/ 9/21 08:43
菅井様
 このメールは、「Terraの科学」の第2回レポート「この世の重大事件」(2002/ 8/12 20:21付け)に対するメールです。一ヶ月以上遅れの返事です。この時代に、1ヶ月もおくれて返事をする。それも、メールでもらったものを、メールで返事するというのに、一ヶ月以上遅れは非常に失礼なことです。その点、郵便による手紙は、1月後の返事なんてそれほど珍しくなかったはずです。まった世知辛い時代になりました。などという、言い訳はさておき、返事を書きます。
 さて、菅井さんは、「この世の重大事件の中で、1番重大な事件は「この世」が始まったことであり、「この世」があること自体が、「この世」にとって最も重大なことのように思います」とされています。もっともな考えだと思います。
 私も講義で触れたのですが、「この世」の出来事で、いちばん大きな事件は、「はじまり」と「おわり」であるといいました。そして、菅井さんの指摘どおり、「おわり」は、まだ「おわって」いず、未来のことですから、事件とは、なりえません。ですから、「深く」考えると、だれもが納得する重大事件は「はじまり」、「この世の重大事件」でいえば、「この世のはじまり」になります。私の講義においては、これが教科書的な答えになるはずです。
 私が望んだのは、それを理解した上での、いってみれば、「はじめ」、「おわり」につぐ、3番の事件なのです。3番目の重大事件は、「この世」をどう定議するか、どのような視点で宇宙や地球、生命、人類、自分を見るかによって、事件の内容や見かたが変わってきます。それを、知りたかったのです。そこに、人それぞれの見方が生まれるからです。
 でも、菅井さんのユニークさは、それをあえて事件と捉えたところです。もう一歩踏み込んだところです。そして、「この世のはじまり」を事件とすると、その前後をどう考えるかということに問題は進展していきました。当然の帰着です。そして、「この世のはじまり」より後は、「この世」で、「この世のはじまり」より前は「あの世」であるから、菅井さんは、「この問いを解くことは、不可能だと思われます。理由は、「あの世」は非認識の空間・時間だからです」と回答「不能」(数学的「不能」と同じ)とされました。確かにこれも答えです。でも、そこまできたら、もう一歩踏み込んで下さい。「あの世」に切り込むのです。科学では切り込めないのなら、想像力、情緒、感性で切り込めばいいのです。
 もし、可能でしたら、菅井さんの素晴らしい切り返しを、お願いします。ではまた。
contentへ


Letter 168 レポートなど
From: "Misato Sugai" <santouka@crest.ocn.ne.jp>
日付: 2002/11/22 00:54
 私にとって宇宙とは、「等身大の私」です。
 表現が詩的すぎると思われるでしょうから、若干の補足説明をします。
 いわゆる「宇宙」、つまり私や私の住む地球という天体を含有する空間としての「宇宙」は、それとして理解できます。しかし、「私にとって」という前提と結びつく時、先のいわゆる「宇宙」が持っている性質が、この世のあらゆるものの象徴的な性質と合致することに気付きます。
 例えば、「宇宙とは、消しゴムである」ということも可能だといえます。というのは、以前どこかで入れ子に陥った「認識/非認識」を使って考えますと、抽象的な言い方ですが、私たちは宇宙についてわかっていることとわかっていないことがあります。そして、消しゴムについても、私たちはわかることとわからないことがあります。消しゴムが鉛筆で書いた線を消せることは知っていても、その消しゴムの材料がどこからきたもので、消しカスがゴミ処理場で燃やされた後どこへいくのかを知りません。「認識/非認識」を内包するという性質の相同性に着目すれば、「宇宙とは、消しゴムである」ことになります。
 すると、文法的な誤りさえしなければ、何でもありになります。なんにでも喩えられるということです。そして、私はその数ある喩えの中から、「等身大の私」を選択しました。この際に着目したのは、「認識/非認識」・「永遠/有限」といった事柄です。宇宙も「等身大の私」もこれらを内包していると思われます。「認識/非認識」は先ほど触れたので、「永遠/有限」を説明します。
 例えば、私には寿命があり、宇宙にもおそらく寿命があります。そして、その寿命という有限が、私あるいは宇宙(たとえ複数の宇宙があろうとも今私たちが含まれている宇宙は一つ)が、それ自身一つしかないという有限にして永遠の存在を作り出します。それ以上でも、それ以下でもない、「等身大」という言葉は、ここから派生しました。

 レポートは以上です。もちろん、他にもいろいろ宇宙と「等身大の私」に共通する事柄はあると思います。たくさんの共通事項を見つけることは、それ自体も面白いとは思います。でも、もっと重要なのは、その共通事項がどんな意味を持つのか、ということであるように思います。今回の場合、私にとって宇宙が等身大の私であることに、どんな意味があるのか、ということです。この答えも、比喩と似て、たくさんのバリエーションを許すと思いますが、私は、自分が今生きていることの確認をしているのではないか、と思います。この答えの根拠を示すことが、できそうな気がします。が、今日は辞めましょう。わけがわからなくなってきたので。

///////////////////////////////////////

 お久しぶりです、小出さん。お元気ですか。風邪などひかれていませんか。 普通なら、ここから始めるべきなのでしょうが、何となく、レポートを先に付けてみました。
 メールを滞らせていた間、毎日が嵐のようでした。今は吹雪です。院での研究と私生活と、いろいろな面で警報が鳴り止みません。実は、何度もメールを書きはしたのですが、途中で挫折することばかりで、送れずじまいでした。気が付いたら、何から話してよいのかもわからないくらい、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまっています。だから、何となくレポートを先に付けたのかもしれませんね。
 レポートで、「自分が今生きていることの確認」というフレーズが挙がったので、自分の生き方について少し喋ります。私は直列型の人間だと思っています。つまり、手際が悪いから一つのことしかできないということです。しかし、やっていること(電球)は常に並列つなぎ。(懐かしい回路の実験を思い起こすと、並列につながれた電球のあまりにも暗かったようにおもいます。)でも、その並列つなぎの電球に直列と同じ明かりをともそうとしているのが、私の生き方だと思います。電池を増やして。学部時代はマンガン電池か充電式のニカド電池だったのですが、院に入ってからは、アルカリ電池に切り替えました。意図的に切り替えたので後悔はないのですが、やはり電池は消耗品なので、今ちょうど切れかかっている感じです。充電式のアルカリ電池が欲しいです。それから省電力でよく光る電球も。

 妙なメールになってしまいましたが、通じますでしょうか。喩えばかりで編まれた文章ですね。故意に喩えを使ったのではなく、次々出てくるのを制御せずに並べています。たぶん、自分の考えを直接表現することに対して、自ずと拒否する思考が働いているのだと思います。そういう意味では、精神状態がそのまま表われている、私にしては珍しく素直な叙述のようにも思います。でも、受け取る側は、読みにくく、わけがわかりませんよね。さらには、発信者の私自身、今自分の考えていることがわかりません…。

 もう11月も後半、師走目前ですね。寒いですが、お仕事楽しんでください。

   スガイミサト
contentへ


Letter 169 エネルギー充填
2002/11/22 08:57
菅井様
 ほんとうに、ご無沙汰していました。私は、元気です。北海道は、昨日から結構、雪が降っています。でも、これはこれで楽しいものです。子供は喜んで、雪遊びをしています。
 菅井さんとは、本当に久しぶりです。記録を見ると2002/ 9/21付けの私のメールが最後になっています。近々、レポートに関する私の返事を書きます。お待ちください。
 一昨日は、前田君からレポートが来ました。前田君は公開を嫌がっているふうでしたが、ホームページに掲載してしまいました。一応了承するようにメールは出したのですが、返事が来ないので、とりあえず、出しました。もともとレポートは公開する前提でお願いしていますから。でも、内容より、久しぶりに前田君のメールなのでうれしくなりました。前田君も相変わらずのところがあり、うれしくなりました。
 さて、菅井さんの近況も聞いたので、私の近況です。あいも変わらず、私も忙しいですね。明日は、恩師の納骨式なので、朝一番の飛行機で金沢に行きます。そして、金沢で1泊して、東京に戻り、もう1泊します。月曜日の午前中に1箇所ERSDACというところに訪れ、昼ころ出版プロデューサーの方と会い、午後3時の飛行機で戻ります。日曜日の午後は少し暇です。しかし、秋葉原にハードディスクのパーツを買いに行きます。それと、東京駅の八重洲ブックセンターに行きます。夕方、八重洲ブックセンターに行ったら私にあるかも?
 もしよければ会いましょうか。5時30分前後に、私は八重洲ブックセンター1階(中2階?)の、喫茶店にいます。これは約束ではありません。時間があればいいです。私は、たいてい、本を買ったら1時間ほど喫茶店で休んでいきますので。無理してこなくてもいいですよ。あとは、ご飯を食べて、かえって寝るだけです。9時過ぎには、私は寝ますので。
 私もふっとエネルギー切れになることがあります。そんな時の解決法は、体が疲れている可能性があるので、よく寝て、気分転換をする。別の興味を持っていることで、まったくしなかったことに興味を向ける。仕方なしにいまやべきことを無理してやる。そうすると集中力が復活することがある。空き時間は、あまり作らないようにする。などなど、いろいろあの手この手でエネルギー切れを補ったり、忘れたり、充電したり、などを行っています。
 でも、現代社会はエネルギー消費の大きい社会です。ですから、本当はもう少しのんびりして生きたほうがいいはずです。消費よりも大切なものがあるからです。でも、難しいですよね。
 さて、前置きが長くなりました。私も、時間的余裕はないのですが、少しずつですが、精神的に余裕ができてきたので、新しいことを始めています。以下は、私の頭の整理、いやエネルギー充填のために、報告します。
 ひとつは、こちらで新しいタイプのデータベースを構築していこうと考えています。「身近な自然」というものと、「川と火山の自然史」というものです。
 「身近な自然」とは、自然教育を語るものは、自然をよりよく知っておくべきであるという考えです。それも、身近な自然をです。市民の自然への回帰を言う前に、自分自身の自然への回帰をリハビリしています。
 「川と火山の自然史」とは、博物館の「砂の自然史」の私の拡張オリジナル版です。それと、このデータベースの大きな目的は、現在の情報技術の盲点を突いていくものです。それは通信スピードです。現在、個人レベルのパソコン、デジカメ、プリンターは非常に高機能です、しかし、通信速度が遅いために、高画質のデータが間引かれています。もし通信環境がもっとよくなれば、いままでのホームページの画像はきたなくて使い物にならないという時代が近々来るはずです。との時がきてからあわてても遅いのです、私は、LANを利用して、高画質のデータベースを「川と火山の自然史」というテーマで行うつもりです。そのために、サーバを自分自身でもちます。そしてそのシステムとしてLinuxというものを使います。学部の古いパソコンを借りてきて、そのサーバを自力で作るつもりです。そのために秋葉原で買い物をするのです。
 自宅の電話も安いインターネット電話にするとき同時にADSLというものにしました。かなり早いです。大学よりはやくなりました。大学のコンピュータの設計をしている人は、東北大学の計算機をインターネットを経由して、リモートで使っています。大学では遅いので、自宅のADSLでやっているそうです。
 私も少しは、情報学をかじりつつあります。
 もうひとつは、
 ああ、もう時間がなくなりました。講義が始まります。
ではまた。
contentへ


Letter 170 人間だから
2002/11/26 07:12
菅井様
 こんにちは。
 これは、先日のレポートに対する返事です。
 菅井さんは、「私にとって宇宙とは、「等身大の私」です」と定義されました。これはこれで、わかるような気がしたのですが、その内容を菅井さんが説明されたのをみると、私が思い違いしていたことが、わかってきました。それは、多分、私が、最初にわかったような気をしたのが、早計だったのでしょう。言語とは、難解のものです。
 それを紹介します。まず、何らかの対象や事象を、二極化させられるものは、それを抱合する概念を用いれば、その対象や事象を統括的に定義可能であるという、考え方ができます。これは、単に2つに分けたものを、両方を含むようなもともとの集合を考えてるわけですから問題はないでしょう。
 たとえば、菅井さんが出された例として「認識/非認識」、「永遠/有限」などのように、あらゆるものを二極化するような対語を用意します。それを抱合する概念、ここでは、「認識できるかどうか」、「限りがあるかどうか」などの命題に置き換えれば、それは、この世、つまり宇宙を統括的に定義できるという考えが前提にあると思います。
 ここまでは、よろしいでしょうか。
 しかし、菅井さんは、「宇宙とは、消しゴムである」という例を出して、二極化さらに進めました。菅井さんは、「「認識/非認識」を内包するという性質の相同性に着目すれば」といわれますが、私が上で言ったような、広い対象や事象を二極化できるような「概念」であれば、理解できます。しかし、「消しゴム」では、それが、できないように思います。私には、「消しゴム」は、あるいは「具象的な名詞」(具体的なものをさすものの意味に使いました)は、対象や事象を二極化してないように見えます。だから、「消しゴム」では、対象や事象を統括的に定義できないと思えます。
 だから、「消しゴム」が二極化の概念を含むのではなく、「消しゴム」の中に、二極化を見出すという、人間の見方、視点、立脚点を示しているというべきではないでしょうか。それは対象の問題ではなく、人が、ものを二極化してみるかどうか、という問題になってくると思います。
 そして、ある人が、二極化してみるという立場に立てば、「文法的な誤りさえしなければ、何でもありになります。なんにでも喩えられるということです」ということでしょう。ただし、それは、十分な説明が必要となります。
 まあ、「消しゴム」は例だからいいのですが、この例にこだわったのは、菅井さんが「等身大」というものを定義に用いられたから混乱を生じました。「消しゴム」と「等身大」は、相等のものでしょうか。菅井さんは、両者とも二極化して見るんだ、ということを主張されいてる。
 このように、私は、菅井さんの意見を見たわけです。
 その主張する菅井さんが「等身大」というものを例としてだしたのは、そこに二極化を意味する多くの概念を含むからである、という言い方をされました。これは、もしかすると、概念あるいは論理の「入れ子状態」になったのではないでしょうか。
 菅井さんは、多くの二極化したような概念が自分自身の中に存在している。それもすべてひっくるめて、自分であるとされました。それが菅井さんにとって宇宙は、「等身大の宇宙」であると。もちろんその中には、無限・有限、認識・非認識、などの概念も内包してるということおです。
 入れ子状態で言い換えましょう。私は、宇宙を二極化した見方をします。私は宇宙の中に多くの二極化の概念を見出した。そんな二極化を見出だせた私の中に宇宙は定義できた、つまり内包しうるから、私の中にも宇宙はある。だから、私にとって宇宙は、等身大の私である。そんな私も、現実の宇宙に中にいる。でもその宇宙を意識しえた宇宙は、同様に二極化可能である。したがってその宇宙の私の中に入れ込むことができる。
 このような入れ子状態は、「自己参照(self-reference)」の問題といわれるもので、科学では、よくある問題です。「ニワトリと卵」問題という言い方で象徴されてます。広義のトートロジー(同義反復、tautology)でもあるわけです。
 実は、この議論もだんだんトートロジーになりそうです。菅井さんは、「それ自身一つしかないという有限にして永遠の存在を作り出します。それ以上でも、それ以下でもない、「等身大」という言葉は、ここから派生しました。」と述べられました。
 これは、菅井さんだからではなく、人間だからかもしれません。菅井さんの定義は、「人間とはなにか」への問いかけと換言できるというのは、深読みのしすぎでしょうか。
 ではまた。

contentへ 


トップへ戻る