Letter Box No. 16


Letters 「境界と越境」

目次

Letter 151 
Letter 152 
Letter 153 
Letter 154 
Letter 155 
Letter 156 
Letter 157 
Letter 158 
Letter 159 
Letter 160 


Letter 151 仮HPのお知らせ
日付: 2002/ 6/ 7 23:37

春の中国巡検に参加された皆様へ

お久しぶりです。皆さまお元気ですか?
早くもあれから2ヵ月半あまり経ちました。ワールドカップも始まりましたね。

本日のお知らせは、中国巡検の仮HPについてです。
雑多な記録ではありますが、私が作ったのを勝手に公開しています。
アドレスは http://www6.ocn.ne.jp/~aoiyama/top_ms.htm です。
ご感想・ご批判はこちらへ→ santouka@crest.ocn.ne.jp 。

ただ、「風物集」というページだけは容量オーバーのようでサーバーが受け付けないため、開きません。あしからず。
また、夏ごろにはもう少し文章を足してきちんと完成させるつもりです。

以上、皆様への感謝を込めて・・・・ スガイミサ
content


Letter 152 ご無沙汰(近況)
2002/ 6/10 16:28
菅井様
 長らくご無沙汰しておりました。何から書いていいかわからないくらい一杯返事を書くべきメールが溜まってしまいました。
 少し、整理します。

レポートに関するもの
 世(2002/ 5/27 22:37)

構造主義に関するもの
 スナドクラブ会員!(2002/ 5/23 00:11)
 逸脱という方法(2002/ 5/24 23:35)

近況に関すること
 どうでしたか、東京?(2002/ 5/30 21:15)
 仮HPのお知らせ(2002/ 6/ 7 23:37
でした。
 どこから手をつけていいかわかりませんので、とりあえず、簡単なところから、「近況に関すること」からです。
 5月29日から30日は、東京に学会で出かけていました。ところが、夏風邪でしょうか、29日の朝から、激しい下痢に見舞われ、必死の思いで、東京にでました。そして、発表のなった29日は、平田、山下両氏と新宿で飲みました。しかし、品川に泊まっていたので、その日の帰りはらくちんした。
 会期中に、風邪の方はだいぶおさまってきたのですが、帰宅して6月1日あたりから、今後は咳と鼻詰まりの症状が出る別に風邪にかかってしまいました。4日には、大学に復帰したのですが、先週1週間不調でした。
 さらに6月にはいってからは、寝不足です。というのも、いつも私は、夜9時から10時頃に寝ます。ところが、サッカーのワールドカップがあり、それをテレビで見てから寝るので、大抵、11時前後に寝ることになります。ですから、寝不足です。多くの人は、11時までに、サッカーは終わるので、寝るには適当な時間帯かもしれませんが、私は、生活が、朝型なので、こたえます。
 以上のような状態だったので、忙しい上に疲れているので、返事が遅れました。申し訳ありませんでした。
 ホームページはざっと見ました。いくつかリンクミスがありました。
 北海道巡検は非常に残念です。菅井さんにはぜひ来てもらいたかったですね。小さい女の子たちが心配です。それに、番頭さんとしてだけでなく、菅井さんが感じる感性で、北海道の岩石をどう見るか、ぜひ聞きたかったです。もし菅井さんの予定が変更できることを期待しながら、あと少し待っています。
 3時のお茶を学部長室で飲むようにしています。今日は、定年された田中一さんがこられて盛り上がりました。80歳近いの頭が働きいまだに現役です。もともと素粒子物理学が専門ですが、北大の計算機センターをつくり、定年後札幌学院大学では、社会情報学部を創設され、社会情報学会も設立されたスーパーマンのような研究者です。彼は、哲学についても造詣が深く、参考になります。ただし、彼は頭が切れすぎると、私が考えたようなことはすでに考えたことがあり、もう要約した言葉でポンといわれるので、ついていけません。
 ちょうど時間となりました。今日は近況だけでした。
 では、次はいつになるかわかりませんが、返事についは、いつも気にはしているもですが、時間が・・・
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Letter 153 いつでもOK…気にしない気にしない
日付: 2002/ 6/11 22:37

小出良幸さま

 こんにちは。今日から入梅だそうです。
 W杯の劇的な1勝からはや2日経ちました。
 江別or札幌はW杯ムードで盛り上がっているのでしょうか。地元横浜は、開催日こそ盛り上がった様子でしたが、もともと人間の多い場所だからか、平常と変わらない気がします。外国人が多数見にきているとも聞きますが、横浜も広尾も在日外国人の多い地域なので、見分けがつきません。(特に広尾は、道を歩けば外国人にぶつかるくらい、もともと外国人だらけです。)

 病後の仕事に追われている小出さんを捕まえて、長話も何なので、端的に一言。
 メールが複数貯蓄されてしまったようですが、気にしなくっていいですよ。 それこそ、「小出さんと他者が共に認識できている小出さん自身」と「小出さんが認識できていないけれど他者には認識できている小出さん自身」を私は認識しているわけですから(?)、小出さんがどのような人か、多少はわかっているつもりです。
 小出さんから返信がすぐ来ない時、その理由は概ね3つだと思っています。第1位は身体的不調。第2位はお仕事貯蓄。第3位は家族の不調。これらに「巡検・調査」を加えれば、大抵その内に収まるのではないでしょうか。(小出さんの場合、「怠け」or「無視」という項目がないようですが、当りでしょうか。私は「無視」はできませんが、「怠け」のために返信が遅れることはシバシバです。)

 北海道巡検に行けないのは、本当に残念です。
 今日、北海道巡検に行く夢を見ました。何しろ夢ですから、ClubGEOの面々に加え、原田さんまで出てきました。でも、札幌空港に到着するまでで、巡検自体の夢はありませんでした。そこが、また残念です。今日あたり巡検夢が見れるでしょうか…。

 ということで、中話を終わります。

   スガイミサト

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Letter 154 物語と概念の入れ子
2002/ 6/18 14:56
菅井様
 またまた、ご無沙汰しておりました。
 大学の入試問題を作成を午前中一杯やって、今やっと終わりました。来て1年も経たないので、辞退したのですが、人材がないということで、強く頼まれました。それに、科目は、地学でなく、地理です。しょうがないので、教科書と参考書で、にわか勉強をして、つくり上げました。

 さて、早速ですが、本題に入ります。
 構造主義でしょうか、研究手法論、物語り論でしょうか、何と言っていいかわかりませんが、要は、
 スナドクラブ会員!(2002/ 5/23 00:11)
に対する、返事です。

 今までの話の復習です。

 私が、菅井さんの
「@その砂・砂利自体とA視覚以外の身体的感覚及びそれら身体的感覚が呼び覚ます精神的感覚とその関係性を、ただ感じるのではなく分析すること、Bその精神的感覚が文学のなかでどう作用しているのかを分析すること」
という三島由紀夫の「金閣寺」に登場する砂に対するコメントして、
小出流として
1 自然、実物(情報母体)と、私との対峙
2 観察者として、自然、実物からの言語化、定量化(情報の抽出)
3 分析者として、情報を、ある視点(小出流)で体系化
と整理しました。
 すると菅井さんは、
「1の部分が異なります。もし一般化するなら、「他分野の視点で捉えられた「もの」」となると思います。というのは、前回の私のメールの心は「異分野(殊地学)と文学の影響関係を考えるにはどうすればよいか」だったからです。」
されました。
 私の「芸術や文学を評論をするとき、「もの」を作品にかえればいい」に対し、
「単純に仰いましたが、実際は、そうではないというのが本音です。」
と強く菅井さんは反論されました。
 さらに物語論と読者論で、私の方法論に対する反論を展開されました。長い論述なので、入試問題つくりに疲れた頭には、内容を理解するのに時間がかかりました。
 以下に、整理します。

 「物語」に関するすべての体系(以下、物語体系とよびましょう)は、
1 「物語世界」
2 「物語論」
3 「読者論」
の要素からなるといわれました。
 多分、その中身は、多様で、変化に富み、その以外のもの、例外も多数あるはずでしょう。でも、これが、物語体系の主要なものであるとしましょう。
 まず、1の「物語世界」です。菅井さんは、物語体系の中で、まずいちばん最初に、「物語世界」があるといわれました。「物語世界」とは、いってみれば、物語体系の素材に当たる訳です。
 次の、2の「物語論」とは、
「その「物語世界」の中の様子を語り手(作者)が必要な所だけ勝手に選び、勝手に順序を決めて、「物語内容」として提示」
すると、菅井さんは、定義されています。そして、
「その「物語内容」を叙述したものが「テクスト」」
とされました。
 いいかえれば、「物語世界」から、作者が必要とする情報を「物語内容」として抽出し、「作者」の手法で提示すこと、となります。そして、提示したものが「テクスト」になるということです。作者による情報の抽出からテクストまでの加工・提示のプロセスが「物語論」となる訳です。
 「物語世界」から「テクスト」の過程を研究をするのが、「叙法」だそうですから、「叙法」とは、作者の情報抽出から加工、提示における手法研究のようなものですね。ここでは、主題とはなれるの深入りしないでおきましょう。
 最後の3の「読者論」は、
「テクスト(作品)を受け取った読者がどのように物語(詩的)世界を再構築するか」
とされています。つまり、作者によって提示された情報を、読者がどう解釈したかということになります。
 したがって、再度、整理(この整理を物語体系のM体系としましょう)すると、
M1 「物語世界」:素材
M2 「物語論」:作者による情報抽出から加工、提示
M2’「叙法」:研究手法論?
M3 「読者論」:読者による情報の解釈
となります。
 これを、自然科学(これを自然体系のN体系としましょう)と対比しますと、
N1 「物語世界」:自然、あるいはものや、現象
N2 「物語論」:研究者による情報抽出から加工、提示
N2’「叙法」:研究手法論?
N3 「読者論」:別の研究者による評価
なり、実は、似たような体系となっているような気がします。
 先ほど、小出流の整理(これを小出流のK体系としましょう)で示した
K1 自然、実物(情報母体)と、私との対峙
K2 観察者として、自然、実物からの言語化、定量化(情報の抽出)
K3 分析者として、情報を、ある視点(小出流)で体系化
という整理と、どことなく類似点があります。
 K体系は、ある一人の自然とある研究者との関係という次元の捉え方であったのが、N体系では、自然体系と研究者集団というより大きな集合での解釈となっています。
 また、K2とK3は、N2に含まれ、M2に対比されます。ですから、K体系をN体系やM体系に対比するためには、
K1 自然、実物(情報母体)と、私との対峙
K2 観察者として、自然、実物からの言語化、定量化(情報の抽出)
K3 分析者として、情報を、ある視点(小出流)で体系化
K4 提示した体系化の評価
あるいは、再整理(新しい小出流としてNK体系としましょう)して、K2とK3を一緒にして、NK2とし、K4を新たにNK3とすれば、一致させることができます。さらに、個人をさらに客観化してやれば
NK1 自然、あるいはものや、現象:情報母体
NK2 言語化、定量化、体系化して提示:情報の抽出と提示
NK3 提示した体系化の評価:情報の評価
となりそうです。
 一種の入れ子状態に陥りつつありますが、これでいいのです。いや、これぞ、私が探し求めている方法論の一端です。どんなに展開していっても、あるパターンがある時、それは、そのパターンを研究すればいいのです。
 理論や論理、素材、体系、なんでもいいのですが、ある集合や体系(あるいは全体像が把握できなくてもいいのですが)など、ある概念で示される全体があり、それを作者、研究者(これも、誰でもいいのですが)など、抽出・加工者がいて、あるテクスト、論文、作品、理論、仮説、法則(これもどのようなものでもいいのですが)などの提示物、そしてそれを味わう読者、評価する教育者、判断する研究者(これもどのような形で、だれでもいいのですが)などする第3者がいるという、条件さえ整えば、それを横断的に関係論として議論できるのではないかというのが、私の考えです。あるいは、その関係抽出に今までのありとあらゆる手法を利用すればいいのです。
 例えば、
1 概念全体
2 そこからの有意の情報の抽出と提示
3 評価
というプロセスがあるとします。これを例えば、1-2-3系とよびましょう。
 1-2-3系を考えるためには、この最終プロセス1-2-3系の確かさと適用範囲を充分把握しておかなければなりません。
 そして、それが把握されれば、単純化された1-2-3系のみを深く考えればいのです。その技術として哲学者が昔から考案してきた、各種の手法を用いたいというのが、私の考え方です。
 そこで、培ったものを、拡大あるいは転用していけるのなら、1-2-3系で議論した内容は、そのまま他の個々の場面、体系、そして地質学の現象(堆積現象、火山現象、断層、連続、不連続)や、地質学的概念(地質学的時間、空間など)にも利用可能であるはずということです。
 まだ、1-2-3系はできてないのですが、この夏(7月13日から23日まで)カナダのニューファンドランドで先カンブリア−カンブリア紀境界を一人で調査に行きます。そのときは、地質学的露頭で野外調査するのですが、いちばん見たいのは、地質学における境界と、連続、不連続で表されるような概念です。それが、野外のもの、自然と対峙した時に見えるかどうかです。できれば、インスピレーションのようなものが湧いて、見直してみたいものです。
 長くなりました。ではまた
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Letter 155 構造主義風還元主義からの逸脱
2002/ 6/21 14:06
菅井様
 北海道は、晴れると暑いのですが、曇ると肌寒く、上着は欠かせません。でも、寒いのは着るのことで対処できるので大丈夫。暑いのだけは対処できませんので、暑さが少ない北海道は、住むにはいいところです。それに、着飾らない素朴な感じで、故習や閉鎖性がなく、住みよいです。北海道は、今、いい季節です。
 さて、これは「逸脱という方法(日付: 2002/ 5/24 23:35)」のメールに対する返事です。とうとう一月遅れの返事となってしまいました。
 私が構造主義的手法に着目しているのは、「構造」ありきという点です。「構造」とは、「総体の部分どうしが持続的に保つ複合的関係」のことです。だから、「部分の関係」という「構造」さえ見出せば、あとはその「構造」だけに着目して、論理を展開していくという手法です。ですから、前回の「物語と概念の入れ子(2002/ 6/18 14:56)」というメールでおこなった手法は、構造主義的手法とも、いえるはずです。
 かたや、科学の世界には、還元主義的手法というものがあります。ある事象を原因や要素、素過程など、「最小の単位」まで分解してしまうことです。さらに、「最小の単位」を「因果関係」として組み立て、同じ事象にたどりついたら大成功です。ですから、この「最小の単位」と、その構築が、この事象において、「因果関係」の本質、ですよ、という論理手法です。このやり方は、従来の科学がとってきた手法で、近代科学のいちばん主要な方法論となってきたものです。多くの科学者は、いまだに、この手法を使っています。
 でも、考えてみると、構造主義は、還元主義の「最小の単位」を「部分の関係」に、「因果関係」にたどりつく構築を、「構造」に置き換えれば、同じような方法論のような気がします。つまり、構造主義とは、還元主義と似た「構造」をもつような気がします。
 前回、私が述べた手法は、構造主義的といいながら、還元主義的手法が、色濃くあります。前回のメールでは、ある種の結論、あるいは「まとめ」めいたものができましたが、よくよく考えていくと、その方法論に真新しさを感じないのです。つまり、私には慣れ親しんだ土俵、手法、還元主義的手法ということです。
 私は、いまだに科学をするときは、基本的に還元主義的手法を使っています。20数年間、この手法に、慣れ親しんだ、つまり、毒されてきました。いや、この手法しか使えない人間になってしまっているのです。ですから、構造主義といいながら、構造主義風還元主義をしているような気がします。何をやっても、物事を分析しだすと、ついつい還元主義的手法でみているような気がします。これから何とか逸脱したいものです。
 菅井さんのいうように「妄信的に構造主義を取り入れるのではなくて、批判的に取り入れればいいんだ」と思います。ですから、今、私が上で述べたことは、前回のメールを構造主義し、それを批判的に取り入れたことになります。そして、菅井さんのいうように「重要なのは、そこから先、個別のテクストに戻り、差異・個性を見出すこと」だと思います。
 でも、考えると、「批判的に」構造主義を取り入れるぐらいなら、最初から、重要なことである「個別のテクストに戻り、差異・個性を見出すこと」に専念した方がいいのではないかと思ってしまいます。たしかに、私が前回のメールで構造主義的考え、今回、批判的に考えました。でも、これは、自分の最終的な論理にたどり着くまでのステップであって、他人に対してアウトプットする場合、例えば論文や報告を書くときには、表面に出てこなくていいものです。いってみれば、自分の勉強、あるいは、ブレインストーミング的な部分なのかもしれません。
 近道をするなら、最初から、「個性」、つまり特異性の抽出の解析に向かった方がいいのではないか、という気がします。それか、近道でも遠回りでもでもない、まったく別のルート、だれも通ったことのないルートを探る方法です。それこそが、独創性、オリジナリティが発揮できる道だと思います。
 私の「構造」あるいは「同一性」にも動性・可変性を求められないか、あるいは「それでは構造にはならないかもしれない」という考えに、菅井さんは、「確かにその考えでは、狭い意味での「構造」を明らかにすることにはなりません。でも、広い意味では、「構造」の範疇に入るかもしれません。というのは、考え方の問題ではないか」といわれました。この論理展開は、実は私が前回のメールでやったことを、素材を変えて、菅井さんが同じことやっているような気がします。わかります。
 「たにし長者」の話は、先日、長男に読んだ本で知っていました。すこし展開が違いましたが、ストーリは同じです。でも、菅井さんのアプローチの仕方が、「構造」ありきです。構造主義の「構造」を考えるという手法自体に構造主義が入ってきています。私が、還元主義を抜けられないというジレンマとおなじものが、菅井さんの論理にも、感じられました。
 菅井さんの「たにし長者」の論法は、こうした方がいいと思います。
 「たにし長者」は、面白い。その面白さは、従来の話型を逸脱していることである。それは、文学における構造の可変性を示唆し、実際人間が昔も今も求めているものは「話型+α」の語りではないか、というような論理展開をすれば、構造主義は単なる分析手段の一部に格下げできます。となると、そこにはオリジナリティがより強調されます。これは、アウトプットのテクニック問題ですが。
 でも、「たにし長者」の話を構造主義だけでなく、分解あるいは解析すると、全く「面白さ」がなくなります。「話型は人間の「ココロ」と密接に繋がっていると思います。だからこそ、脈々と受け継がれる」のに、「ココロ」の部分がどこかに行ってしまった気がしました。
 では、「面白さ」を解明できない論理って、必要、あるいは重要性があるのでしょうか。地質学で解明するのは、地質現象の構造であり、部分であり、要素であり、因果であります。現象の不思議さ、面白は、解明できません。科学者は毒されていますから、そんなプロセスを「面白い」と思っています。でも、それは、独りよがりのような気がします。自然が見せてくれる驚異や面白さを、科学としていかに解明するか。それが、重要ではないかと思います。そして、その驚異や面白さと、構造、部分、要素、因果が結びつけば、それこそ、すばらしものオリジナリティが生まれるような気がします。
 私は、「ポスト構造主義(可変構造主義?)」でも、ポスト還元主義でもなく、従来のすべての枠組みから「逸脱」したいです。「逸脱」によって、自然の驚異や面白さの真相に近づければいいと思います。そして、その方法論が、あわよくば、人の心を動かすものになったらいいのですが。
 まだまだ、道は遠いようです。でも、おぼろげながら、目指すべき方法が見えつつあるような気がします。
 ではまた。
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Letter 156 もう少し
日付: 2002/ 7/10 18:48

小出良幸さま

2通のメールを頂いてから、随分日にちが経ってしまいました。
14日までに卒論を短縮した物を大学に送るため、メールを返信できずにいます。博物館のお手伝いもしたいと幾度となく思うのですが、卒論優先です。Terra Lectureのレポートも同じくです。

もう少し、お待ち下さい。
以前「思いつくまま」に来週からカナダ巡検…とあったように思いますが、もうそろそろ旅立ちですか?お気をつけて行ってらしてください。

今日は台風が近づいているそうで、先ほどから大雨です。
北海道は、その点ほとんど台風がこないんですよね。ちょっとだけ、羨ましいです。

では。  菅井美里
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Letter 157 ゆっくりゆっくり
2002/ 7/11 07:16
菅井様
ご無沙汰しています。
返事は、急ぎませんよ。
人間には、状況に応じて優先すべきこともあります。
ゆっくりゆっくり、気にしないでいいですよ。
あれ、このような内容、菅井さんに言われたことがありますね。

でも、先のことでも、忘れてはいけないこともあります。
私は、先のことを忘れやすいので、早めに終わらすか、
スケジュールノートにメモをするかしています。
でも、重要なことは、ついつい気にかかって、落ち着きません。
ですから、可能な限り、優先事項を早く終わらせ、
気になることも早く終わらせることにしています。
性分なのですね。

さて、私は、13日から23日まで
カナダのニューファンドランドというところに行ってきます。
地質調査ですが、以前から続けてみている、
先カンブリア紀とカンブリア紀の境界の調査です。
以前、東京大学の磯崎さんが、そこにいかれたことがあるので
資料をかりて、一人で行きます。
昨年の7月のカナダのロッキー山脈への巡検につづいての一人旅です。
リフレッシュしてきます。

今年は、写真をデジタルに切り替えました。
そのために少し不安があります。
予備で、アナログカメラを持っていこうとも考えましたが、
思い切って予備もお古のデジカメを持っていくつもりです。
データ吸収のために、ノートパソコンを持たなくてはなりません。
果たして、少量化がはかれたのでしょうか。
疑問があります。
まだ、荷造りしてないのでわかりません。

ではまた。
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Letter 158 読後感想文
From: "Misato Sugai" <santouka@crest.ocn.ne.jp>
日付: 2002/ 7/22 23:40
小出良幸さま

 10日間の巡検、どうでしたか?面白かったですか?
 私はこの10日間、例の卒論手直しやら強制読書(月末の講義で使う小説)やら、本と付き合ってばかりいました。お蔭様で随分鬱屈した気分になりました。そして、自分に足りない最大のものは“生命の躍動感”だと認められるようになってきました。

 「物語と概念の入れ子」と「構造主義風還元主義からの逸脱」、うなづきながら読みました。1つとしてイチャモンをつけるところはありませんでした。
 ただ、読んだ後、もう一度考えたことを少し書きます。

 「体系」或は「概念」「構造」、言葉がどれかは別として、骨組みのあり方は同じようだと、私は理解しましたが、よいでしょうか。だとすると、今私が抱えている謎も地質学的に捉え直すことができるかもしれません。もしできたら、解決口が見つかるかもしれません。

 謎とは、「読者論」です。もちろん、他のパーツにも問題はありますが、今1番大きな謎は、やはり読者論です。

 小出さんが考えていることの中心は、自分の研究をどういった方向へ向け、どのように提示するかという部分にあると思いますが、良いでしょうか。ここまではいいのですが、受けて側は、どのようであるべきでしょうか。「物語と概念の入れ子」で「NK3 提示した体系化の評価:情報の評価」となっている部分で、その評価を行なう第三者がどのようであるべきか、ということです。
 例えば、文学の場合、何某かの作品を読んで、解釈をします。学校教育の中で、「国語」といえば、今でこそ表現を重視するようですが、文章読解は大きなウェートを占めています。そして、授業の中で、作品のテーマを導き出します。そのような授業をちゃんと受けると、その授業の先生を中心とした「解釈共同体」の一員になります。だから、変な…というか、解釈共同体の枠を越えた個的な解釈は表に出にくくなります。
 先に言った読者論の極みは、この解釈共同体と離れた個的な解釈が、作品の意味を良く言えば多様化、悪く言えば無政府化してしまうことにあります。そんなことはありえないと、フィニッシュなる人は言っているそうですが、危険性は否めません。やっぱり共同体と個のバランスは大切です。
 では、小出さんが今後提出するものは、どのように受け取られるとイイナと思いますか?
 「誰もおこなわないような手法や考え、テクニック、流儀、方法論を用いたい」という言葉と今回のメールによれば、やはり個的なやり方を提出するということになると思います。そして、城川での講演会のお話、その他の発言を考えると、個的に受け取って欲しいということになるのでしょうか。すると、無政府化の一点になりませんか?でも、還元主義ジレンマは、文学の解釈共同体と同様に、小出さんが地質学(自然科学)共同体という枠組みから完全に抜け出す歯止めになっているような気がします。ならば、フィニッシュ的に絶対、共同体からは抜け出せないのだから、どんなに個的なものを提出しても、また逆に個的に評価されても、無政府的に、つまり孤独な点にはならない…ということになるのでしょうか。
 なんだか頭がもやもやして、よくわかりません。どう思いますか?

 そして、思ったことをもう一点。
 小出さんは、私のたにし長者試論を「「ココロ」の部分がどこかに行ってしまった気がしました。」と仰いました。実際、「心」はどこかに行ってしまっています。逆に「ココロ」はここにあります。あえて「心」と「ココロ」を使い分けたのは、いわゆる情動としての「心」とそのような情動を起こすようにプログラミングされた仕組みとしての「ココロ」は密接ながら別物だからです。それこそ、構造主義がもたらした心理学や精神分析学の対象となっている「ココロ」(個人を超えて、民族などの共同体の深層にある意識)が文学ではどのように現れているかということに焦点を当てています。
 どうしてその作品を面白いと感じるのか、という単純な疑問を解き明かすにあたって、「ココロ」との関連を考えることはストレートなやり方だと思います。
 情動としての「心」は、もちろん「ココロ」によって生じるわけですが、「心」を文学研究に持ち込むことは可能でしょうか。つまり、共同体の記憶ではなく個的な情緒を持ち込むことの可能性です。「「面白さ」を解明できない論理って、必要、あるいは重要性があるのでしょうか。」という疑問と通じるような謎です。
 私は、文学研究に限らず、科学的手法による「研究」に個的な情緒を持ち込むことはできないと思ってきました。今も思います。(それに、極力持ち込まなくても、筆勢と出来上がった論に個的な情緒は出てしまいます。)
 そして、一般的な必要性・重要性を問うのではなく、自分自身にとっての必要性と重要性を第一に考え、その結果が他者に評価されたり、一般的に重要なものになったら儲けもんくらいの気持ちでやるのがイイと思っています。また、消費社会の道理を考えると、評価できる他者を作り出すことが、不可能ではないかもしれません。新しい消費を生み出すために新製品を作るように、いろんな理論が各年代ごとにブームを起こすのだから、新しい価値観に基づいた論を提示すれば、従来の論に飽き足りた他者が、うまく評価してくれるかもしれません…。(小出さんが求める「評者」はこのような人でしょうか?)

 では、最後に余談。
 個人的ですが、私はいつも孤立主義的に生きてきたと思います。女性には集まりたがる性質の人が多いようで、幼い頃からそれが嫌でした。固定的なメンバーで生活するのはつまらないですからね。それに固定的なメンバーよりも、一人のほうが気楽です。結果、深くなく浅くない人付き合いを未だにしています。高校までは、それで充分楽しかったです。クラスや学年、学校という離れられない共同体の中で生きているため、共同体に属しているという安心感と個的に自由に生きる擬似独立心とのバランスが、ちょうど良く取れたのでしょう。しかし、大学に入ると別世界です。一応〇大学〇学科〇年生という共同体に属してはいますが、その意識は非常に低く、安心感を得られるようなものではありません。で、地域共同体・地縁組織を意識するようになりました。博物館のボランティアも然りです。もっと身近な戸塚辺りの地縁組織にも興味があるのですが、まだ覗きに行っていません。…と、こういう人間だから、構造主義に魅力を感じたのではないかと思います。個を越えた人間の深層心理の繋がりに、喜びを感じたのだと思います。
 私という人間は一人しかいないのだから、嫌でも個性はあるわけです。そしてその私という人間は、〇〇の子であり、〇〇で育ち…というプロフィールも永遠に変わらず、その中で培った共同体の記憶も消えません。ただ、その割合は、共同体の記憶が大部分で、個性はほんの僅かだと考えられます。氷山のイメージですね。だから、私は本を読む時も、まず下層の共同体の記憶を引き出します。すると、読み終わる頃には、なぜかその作品の個性が見えたような心持になります。(先行研究者が認める各作品・作家の個性とは違うかもしれませんが、それで良いのだと思います。)

 久しぶりに長くなりました。4時間くらい経ったでしょうか…。
 では、お開きです。

     スガイミサト
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Letter 159 暑いです
日付: 2002/ 8/ 3 17:16
小出良幸さま

北海道巡検、いかがでしたか?
授業を休んでいけばよかったなんて、授業予定変更を聞いて思いました。
悔しいので、昨日は紅葉坂の図書館へ行ってきました。

暑いのでメール確認を怠っていました。
そして、小出さん発メールマガジンを今日一括受信しました。
TerraIncognitaも今日受信しました。
おもしろかったです。
レヴィ・ストロースを人類学や神話学の方面では知っていましたが、地質学に
も言及していたとは、知りませんでした。
感想を…と思いましたが、あまりに暑いので、辞めます。

TerraLectureのほうも、話の展開の仕方が、軽やかなので、読み
やすく、面白いです。

とにかく横浜は暑いですが、小出さんのメールマガジンを読んで、心が軽く
なったので、御礼に一筆献上しました。

良い夏を!!

   スガイミサト
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Letter 160 涼しいよ
2002/ 8/ 6 11:56
菅井様
 とりあえず、連絡をします。
 まず、最初に、北海道は涼しいです。当地の人は、これを暑いといいますが、なんのなんの、日陰に入れば涼しいし、夜は窓を閉めないと寒くて寝れないほどの「厚さ」です。厚さ寒さも相対的なものです。ですから、暑いのが苦手な私には、いい環境です。
 大学には冷房もありません。もちろん自宅もです。そういえば、扇風機をまだ出していませんし、必要と思ったこともありません。うらやましいでしょう。これも北海道を選んだ遠因の一つです。
 さて、私もしばらくメールを見ていませんでした。それは、大学が、完全休止状態だったからです。事務の人たちは8月1日から9日まで休み、12、13は来て、そのためと18日までお盆休み。まあ、大学は入れるのですが、各種の整備が、この時期されます。研究室の清掃、電気整備、インターネットの整備。それで、今日まで、何もできませんでした。
 土曜に出たのですが、9時頃には清掃で、追いだされました。日曜日も荷物がきていたので、でたのですが、9時に停電になり、終了作業中だったのですが、突然電気が切れて、あせりました。幸い、今朝きて電源を入れたのところ、無事だったので、ほっとしました。昨日は、人間ドックでした。運動不足と栄養過多で、悪いところが一杯指摘されました。健康には気をつけましょう。
 でも、私は、今日から夏休みのノルマの始動です。今日で、採点はおわり、あとは、集計です。
 自分の整理ために夏休み中すべきことを整理しましょう。

・長期教育(ClubGeo)についての論文:地学教育学会誌
 8月9日まで、できれば仕上げて、投稿
・地質哲学の論文:大学紀要
8月27日まで、投稿は9月末。
・地学教育学会(8月18日発表、8.17〜8.21)
8月16日まで、発表準備
・EPACSシンポジュウム(9月14日発表、9.13〜9.15)
8月30日まで、発表準備
・イギリス海外調査(8月31日〜9月10日)
・査読論文1件
8月中

以上なんか、非常に多忙です。我ながら思います。
 講義期間中は、講義をつくるのに精一杯で、夏休みになったらしようと回した仕事が、膨れてしまいました。
 でも、可能な限りやること、これが、私の信条です。少々荒っぽくても、あるまとまりをつけること、それが、次へのステップとなります。これを、繰り返せば、なんとかなるのです。
 これは、私の性質や能力について、46年間く付き合ってきて出した、自分なりの自分の御し方、方法論に関する結論です。
 ついつい長くなりました。では、また。
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