目次
Letter 141
Letter 142
Letter 143
Letter 144
Letter 145
Letter 146
Letter 147
Letter 148
Letter 149
Letter 150
Letter 141 緊急にすべきこと
2002/ 5/21 07:16
菅井様
ファイルがなくなったのなら、とりあえず、ファイル名でコンピュータを検索してみることです。
検索のしかたは、「スタート」の項目を選び、その中の「検索」にカーソルをあわせ、「ファイルやフォルダー」で、ファイル名を入れます。もしかすると、最新バージョンではないかもしれませんが、見つかるかもしれません。コンピュータをいろいろいじる前にやったほうがいいですよ。ファイル名も「ABC.DOC」としたら、可能性として「ABC.*」や「*ABC*」などと試してみることです。*はどんな文字でもいいという意味の記号です。いろいろ試してだめなら諦めるしかないです。たぶん、どこかに残っていると思うのですが・・・。
もしなければ諦めて書き直すことしかないですね。でも、かなりの部分は、頭の中に残っているので、案外すらすらと書けるかも知れません。
幸運と、自力復活を祈っています。
取り急ぎ用件まで
content
Letter 142 レポート:この世とは
From: "Misato Sugai" <santouka@crest.ocn.ne.jp>
日付: 2002/ 5/22 20:46
私にとって「この世」とは、「私が認識できる世界」です。狭義でも広義でも、「私が認識できる世界」の一言で総括することができます。
以下、私にとって「この世」とは何か、そして「この世」を考えることがどういう意味を持つのかについてまとめました。私が導く「この世」は、TerraLectureで導き出されたものとほぼ同じになります。しかし、「この世」の最小単位・最大単位をよく見てみると、多少なりの差異があります。まず、TerraLectureの中で、岩波国語辞典第2版から導かれた「この世」の狭義を使って私の現世観を紐解いていきましょう。
●時間的定義●
『この世とは、時間的には「一瞬(認識し得る最小の時間)」から「認識し得る最大の時間(宇宙の始まりから終わり)」までの長さの中で、場合に応じて伸びたり縮んだりするものである。』
「自分の生きて住んでいる現在の空間」が狭義の「この世」と考えられましたが、「現在」とは、いつからいつまでを指すのでしょうか。過ぎてしまった「過去」とこれからやって来る「未来」の間が「現在」であることからすれば、一瞬一瞬の「今」が「現在」です。
しかし、生活の中で「現在」という言葉を使う時、ほんの一瞬を指して言うことはあまりないと思われます。例えば、いま、私はメールレポートを書いています。また、今、私は学校へ通っています。これらのように、その場合に応じて「現在」の示す時間の長さは変化します。では、長い「現在」はどのくらいまでを指すのでしょうか。先ほど「現在」は過ぎてしまった「過去」とこれからやって来る「未来」との間だといいました。言い換えれば、もう経験できない時間とまだ経験できない時間です。つまり、どちらも経験できない時間になります。そして、TerraLectureの狭義中では「自分」を標の中心に据えていますから、最大限「自分」の経験し得る時間の長さを広げると、「自分の人生長さ」になるのではないでしょうか。(ただし、自分の人生の中でも、認識の有無を考えると、極幼期は、たとえ経験していても含まれにくいかもしれません。)
私は、「この世」を「私の生きている世界」と大まかに定義付けしましたが、TerraLectureの狭義と最も異なる点は「現在」という枠を設けていないことです。では、どこまで「私が生きている世界」の時間は伸びているのでしょうか。私は、人間の認識できる時間の最大値まで伸びると思います。過去から今まで生きた人間が、様々な方法で考えてきた「時間」で最も長いものは、「宇宙の始まりから終わりまで」ではないでしょうか。いつ始まり、終わるのか、明確な答えを出せる人はいませんが、「時間」が宇宙の始まりによって生まれたと仮定されれば、「時間」の終わりは宇宙の死になると思います。TerraLectureの中でも、「宇宙」は「この世」の広義でしたが、私を含む人間が、認識し得る最大限の時間は、宇宙の始まりから終わりまでになります。
この狭義・広義の「時間」の長さの中で、場合に応じて「私が生きている世界」の「時間」の長さは変化します。それは、「現在」が示す時間が伸び縮みするのと同様です。
●三次元的定義●
『この世とは、三次元的には「自分自身(認識し得る最小の空間)」から「認識し得る最大の空間(宇宙)」までの大きさの中で、場合に応じて拡大したり縮小したりするものである。』
時間的定義を考える時に「認識」を指標としましたが、三次元的定義を考える場合にも、「認識」が定義の指標になります。
三次元、つまり「縦・横・高さ」のある空間において、私が認識できる最小のものは何でしょうか。私の日常生活は、東京〜小田原間で行なわれています。しかし、家から、行き先である大学と博物館と横浜周辺に辿り着くまでの間は、移動するだけですから、何もりません。といって、行き先の大学や博物館の中を知っているかというと、知らないことだらけです。では、家ならどうでしょう。大概のものは、どこにあるかわかります。でも、大掃除の時、想像していなかった場所から妙なものが出てくることはたくさんあります。自分の部屋は、無くなったと思っていたペンが、机の向こう側から、先日出てきたばかりです。・・・私は一体何を知っている(認識できている)のでしょうか・・・そう、「私」かもしれません。もちろん、「自分が認識できる自分」と「自分が認識できない自分」では、「自分が認識できる自分」は氷山の一角です。その氷山の一角、「自分が認識できる自分」が最小限の「認識」になるのですが、「認識」では形がありませんので、三次元に存在させるなら、「自分自身」になります。
では、「認識」できる空間は、最大どこまで広がるのでしょうか。最小限の「認識」空間を導く時、「認識」できていそうで、できていない自分の部屋・家・大学などが挙がりましたが、「認識」そのものは針の先ほどの小さな点に過ぎないと思います。小さな点がくっついたり、大きくなったりすることで、そのものを「より認識した」と思うわけです。すると、最小限の「認識空間」は、その「認識」の点のうち、距離的に最も遠くにあるものの所までになります。結論から言えば、やはり「宇宙」の大きさまでです。地球、太陽系、銀河系・・ときて、「宇宙」までなら、「認識」の点があります。例えば、宇宙はビッグバンで生まれたらしいこと、宇宙は生まれて以来膨張していること、年齢が120億歳くらいであること、などが科学的な方法によって明かされてきています。一方、「宇宙」を越えたところに何があるのか、私はわかりません。科学的な方法で何か明らかになっていることがあるのでしょうか。もし、あるとすればそこまでが最大限の人間の「認識空間」になりますが。
もちろん、「認識空間」でも、最小限〜最大限まで、どれをとっても「非認識空間」になり得ます。「私自身」の中で「認識できているもの」より「認識できていないもの」の方が既に多いのですから、他の人間・地球・・・宇宙まで、更にわからないことが出てきて当然、とも言えます。そして、「自分自身」〜「宇宙」までの「認識空間」の中で、場合に応じて「この世」は大きくなったり、小さくなったりします。
●「この世」と「あの世」は同じ?●
これまで、「この世」について考えてきましたが、「この世」について考えるとは、「あの世」について考えることでもあります。つまり、今まで「この世」と書いてあった部分を「あの世」に換え、「認識」「認識できる」を「非認識」「認識できない」に換えれば、「あの世」になります。そして、そうすることによって見えることは、「あの世」と「この世」が、同じであるということです。「この世/あの世」という二律背反の項は、一方の概念が明らかになることによって、もう一方の概念が明らかになります。しかし、対置されるからには理由があって、私の導き方では「認識/非認識」がその実質的な軸になっています。「100%認識できる世界/100%認識できない世界」が、「この世/あの世」ですが、スラッシュは二律背反であることを示しますが、実際はその間が、無限にあります。「あの世」と「この世」は連続性を持っているのではないでしょうか。
そうすると、「イデア論」のように、現実は100%のイデア世界の模倣に過ぎないのかもしれない、と思えてきます。いや、実際100%認識できる時間も空間はなく、100%の「あの世」も「この世」もない。その100%のない世界の中で、「あの世」と「この世」、「認識」と「非認識」が混ざりあっているのだと思います。私たちが、自分自身に気付き、自分自身を確立するために、いわば混沌とした世界の中で、「認識」あるいは「この世」を広げていくのではないでしょうか。そして、混沌の中に埋もれてしまわないために、個人が成長(老化)し、生命が進化(退化)する中で、「認識」の点を増やし、あるいは大きくていくのではないでしょうか。(当然ながら、この過程で、「認識」できないことが世の中にたくさんあることを知るのだと思います。年齢を重ねるごとに、「あの世」を考えるようになるのは、自分自身が「死」に近づくことに気付くからだけではないかもしれません。思春期の若者が「死」について考えることがあるのは、世の中にはわからないことがたくさんあるということに気付き始めるからかもしれません。)
以上。■
contentへ
Letter 143 動的認識
2002/ 5/23 08:13
菅井様
レポートを受け取りました。このメールは、レポートと一緒にホームページで公開しますので、そのつもりで書いています。このメール内では、「菅井さん」と書いていますが、ホームページ上では「Sさん」にします。
以下本文です。
一度書かれたレポートが、操作ミスで消えてしまい、再度書き直されたようですが、ご苦労様でした。でも、大作で、深い内容です。面白いです。
菅井さんの最終的な「この世」の定義は、時間と三次元的(空間)の別々にされていました。合体してまとめると、「この世」とは、
『「一瞬」から「認識し得る最大の時間」までの中と、「自分自身」から「認識し得る最大の空間(宇宙)」までの中で、場合に応じて拡大したり縮小したりするもの』(小出が再構成)
とされました。
さらに、認識に言及され、「認識できる(認識)」は、「認識できない(非認識)」の中に含まれ、その量たるや非認識のほんの一部に過ぎず、認識できる程度も、100%から0%までの間があるということでした。
「この世」の最大側と最小側は、私が講義でおこなった内容と似ています。しかし、その動的な捉えかたと導くプロセスが面白かったです。
確かに菅井さんの定義を見ると、当たり前のことのような気がします。でも、菅井さんのユニークさは、「この世」を固定したものと考えず、「場合に応じて」延びたり縮んだり、拡大したり縮小したりします。そこが面白いです。
私は、最大と最初を認めながらも、視点が違えば変わるととらえただけでした。そこには視点を定めれば「この世」は限定された、固定されたものがありうると考えていました。
ところが、菅井さんは、認識とは「場合に応じて」可変である。つまり、多分、じっとしてくれないような「ぐにゃぐにゃ」したものであるということです。多分、扱いにくい代物でしょう。
私なりに少し扱ってみると、以下のように、まったく扱いがたい代物となりました。以下参考までに、紹介します。
可変である認識は、その程度にも100%から0%まであます。もっと厄介なのは、「認識」が「非認識」のほんの一部に過ぎないのです。まあ、「非認識」は「あの世」のことなので、「あの世」がいくら広くなっても、「この世」の知ったことではなのですが、「認識する」人にとっては、そうはいきません。
「認識も非認識」を「認識している」のは、人なのです。だから、「この世」+「あの世」も認識という立場では、「人」のなかに存在するのです。
でも、「認識している人」ですら、もしかすると「非認識」のほんの一部になるかもしれません。それは、その【『「認識も非認識」も認識している人』を認識する】存在(神ではないでしょうね)(以下ではややこしいので括弧の内部を省略します)を想定することができます。となると、そんな【『「」』】存在も、認識してしまう人がいるわけです。
(人は神の存在すら内部に取り込めるのでしょうか。独り言)
では、そんな[【『「」』】存在も、認識してしまう人]の認識があるとすると、当然、その認識では知り得ない非認識があるわけです。そんなことを考え、さらに認識する存在が、・・・・・
と完全な「入れ子状態」あるいは無限ループに入ってしまいます。いったん「認識」という言葉がでてくると、即座に、その外の「非認識」を考えることができるわけです。
このようなループに入るのは、議論の進める方向を間違えてのでしょうか。それとも、認識を視点を固定をせずに動的に捉えたことが原因のでしょうか。わかりません。真実をついているようでもあり、逆に捉えどころがなくなるようでもあり、不思議な世界に入り込んでしまいました。
ちょっと、支離滅裂なコメントになりました。申し訳ありません。
最後にポツリと、菅井さんは、「思春期の若者が「死」について考えることがあるのは、世の中にはわからないことがたくさんあるということに気付き始めるからかもしれません」と意味深い発言が述べられています。
この内容は、「003 Tantoさん」の発言と呼応するものがあるように感じました。菅井さんもホームページでTantoさんのレポートをご覧になってください。
ではまた。
contentへ
Letter 144 できました
From: "Misato Sugai" <santouka@crest.ocn.ne.jp>
日付: 2002/ 5/22 21:00
小出良幸さま
レポートがようやくできました。前に作ったものが消えたのは、宛先を書かない状態で「送信」を押してしまったためのようです。いろいろ考えながらいじっていたら、そのようにするとメールが消えることがわかりました。今度からは真っ先に宛先を指定してから書き始めようと思います。
そして、レポートですが、前のものと大分違ったものになりました。前のものは、この世を導き出す過程を詳細に書いてあったのですが、今回のものは、過程は削減され(細かく思い出せないので)この世を導き出すことでどんな意味が生じるのかという部分が増えました。どちらが気に入っているということもなく、強いて言えば、足して2で割ったものができたらよかったな、といったところです。でも、TerraLectureの本旨とは筋違いな内容です。ご了承ください。
それでは本題・・といきたいところですが、今日はこれまで。今日発表(構造主義の文学版「物語論」の発表担当でした)があったので疲労しています。本当は10分で要約する予定が、質問やら先生の合いの手で80分に延びてしまい、びっくりでした。(聞いていた皆さんも退屈だったのでは・・と少し心配です。) そういうことで、今日はレポートのみで、しばし休憩したいと思います。
スガイミサト
contentへ
Letter 145 レポート、ご苦労様
2002/ 5/23 08:35
菅井様
レポート、ご苦労様でした。先ほど送ったコメントも一緒にして、早速ホームページで公開しました。
最後に付け加えたのは、実は、Tantoさんのレポートが、意味深で、すごく気になったからです。私のコメントも、少し、大げさすぎたかもしれません。
でも、私自身の反応のしかたも気になっていました。そのとき、火曜日に大学時代の寮の仲間たちと飲みました。その飲み屋が、寮の先輩がやっている「かきとワイン」の専門店でした。
実は、その先輩は、数年前まで大学で臨床心理の教員されていて、北大病院でも働いていたそうです。現在も、臨床心理治療師(?)の資格で、昼間、同じ店でカウンセリングをされています。
そこで、そのメールの内容と、私の回答の概略を紹介したら、反応してあげることが大切ということでした。私、相談に応じてくれというので、昨日彼女とのやり取り一式をメールで送りました。
すると、彼は、丁寧にメールで回答を送ってくれました。
彼のやり方は、彼女のメールを徹底的に分析するものでした。その論理的で徹底したやり方に感心しました。かれは、結論として、いくつかの可能性(統合失調症、うつ状態)が消され、「本来の性格に由来」するとしました。そのような症状のときは、彼女への「働きかけはあまりうまく」いかないようで、やるならと、いくつかの方法が示してくれました。私にこのような方法ができるかどうかわかりません。でも、精一杯誠意を持って対応するしかできません。
いまは、彼女からの反応待ちです
ということで、菅井さんも彼女のレポートと私のコメントを読んでみてください。
ではまた。
contentへ
Letter 146 スナドクラブ会員!
[Clubgeo 448] より転載
日付: 2002/ 5/23 00:11
小出良幸さま&皆さま
のっけから、小出さんの揚げ足を取りました。SnadClub・・・(笑)。ミスタイプにしては、あまりにも洒落がきいているので思わず。
「sand」を入れなかったことをすみませんと言いたい所ですが、実は恣意的に書きませんでした。端的に言うと、日本語の表記法へのこだわりによるものです。あそこに「sand」を入れたら、いつしかの国名論議に逆戻りになってしまいますよ。
ということで、休憩返上で小出さんのメールで気付いたこと数点について書きます。
本編3486字、お好きな時にお好みでどうぞ。
私のおぼろげな方法論を、研究のため方法論として一般化してくださったのですが、1の部分が異なります。もし一般化するなら、「他分野の視点で捉えられた「もの」」となると思います。というのは、前回の私のメールの心は「異分野(殊地学)と文学の影響関係を考えるにはどうすればよいか」だったからです。
おそらく、『金閣寺』を例として、研究方法1が「砂・砂利自体」となったために誤解が生じたのだと思われます。「砂・砂利自体」を「地学の問題」としたところから、行きましょう。つまり、主観を入れず、科学的な視点で捉えられた「砂・砂利」は、それこそ唯の「もの」です。地学に限らず理化学の対象は、全情報が詰まった「もの自体」です。(産地などはラベルがないとわからなくなってしまいますが。)その全情報を読み取り、どんな「もの」なのかを叙述するのが、皆様のお仕事ですよね。
他方文学は、語り手(作者)によって情報がコントロールされた状態のテクスト(文章)が研究対象になります。つまり、テクストの中に出てくる砂や砂利などは、語り手による情報の制御の網をクリアしたものなわけです。そして、私たち読者は、網の目をかいくぐったテクストを読み、物語(作品)世界を再構築することになります。ここで重要になってくるのが、網の目をかいくぐった「もの」からどれだけ情報を得られるか、です。
このときに、例えば「花崗岩の砂」であったら、それがどんなものなのか、色は?形は?踏んだ時の音は?・・・ということを想像する必要があります。そして、実際には、そういった「花崗岩の砂」のことを文字で表されたものを見て終わり・・では、やっぱり語り手(記録者)によって情報の制御がなされるので、実物と科学的なデータに触れないと意味がないと思います。
そして、現段階では科学的なデータ―をもし見せていただいたとしても、チンプンカンプンなので、それを理解できる能力の必要性が出てきます。服飾・建築などの文化論なら、そんなに尻込みしないのに、文学研究者が科学に手をつけないのは、それらに勝る努力が必要だからだと思います。ということで、ClubGEOに入って以来、私がやってきたことは、実物に触れること。そして、実物を感じること、文章(テクスト)にすること。研究方法の1の半分と3を除いてやってきたことになります。言い換えれば、誰でもできる部分をやってきたのです。そして、その残った部分が難しい、となるわけです。
小出さんの一般化してくださった理論にイチャモンを付けたのですが、だからといって、あの一般化理論を否定してはいません。あれはあれで、成り立っています。例えば、今日授業で発表をした「物語論」という理論も充分当てはまっています。
整理するため一般化された理論を引きます。
1 「もの」自体
2 観察者として、その「もの」からの情報の抽出
3 ある視点での体系化
「芸術や文学を評論をするとき、「もの」を作品にかえればいい」と単純に仰いましたが、実際は、そうではないというのが本音です。(第一、「評論するとき」に限らず、皆さんが本(オハナシ)を読むときには、「もの」を「作品」にした状態で読んでますでしょ?)「物語論」と「読者論」を使って、考え直します。
「物語論」では、「物語世界の情報を選別・加工(制御)」を明らかにする研究領域があります。「読者論」は、不勉強なので適当な言葉が見つかりませんが、「テクスト(作品)を受け取った読者がどのように物語(詩的)世界を再構築するか」といった感じです。
順序だてて説明しましょう。「物語世界」がまずあって、その「物語世界」の中の様子を語り手(正確には第一の語り手=作者)が必要な所だけ勝手に選び、勝手に順序を決めて、「物語内容」として提示します。その「物語内容」を叙述したものが「テクスト」です。この「物語世界」が「テクスト」になるまでの研究をするのが、「物語論」の中の「叙法」という領域です。
私たちが本屋へ行って、買う書物は、「テクスト」の1つです。で、そのテクストを手にした私たちは「読者」となり、そのテクストを読んでいきます。読む作業は、ただ文字を目で追っているのではありませんね。文字を読んで、物語の情景を想像しているはずです。この読む作業を、文学論的に言うと、テクストから物語世界を再構築しているということになり、これを研究領域とするのが「読者論」です。
小出さんの、「芸術や文学を評論をするとき、「もの」を作品にかえればいい」というのは、文学論で言う所の、「読者論」に相当するかと思います。しかし、文学研究者は自然科学研究者ほど特権的な位置にないので(?)、つまり文学研究は誰でもできることであると考えているから(?)、研究者自身が「読者」の1人に過ぎません。だから、「評論するとき」というような研究者の特権的な言い方を、私は好みません。皆が本を読むのよりも、少しだけ科学的に、少しだけ詳しく読んでいるだけなんです。(つまり誰でも再検討できる読み方を提示し、テクストにでてくる「花崗岩の砂」や衣服・音楽・建物などについて、それがどういう意味を持つのかを考えてみる、ということです。)
また、小出流方法論は、文学で言う「叙法」の範疇です。もっと言えば、「自然や実物」は「物語世界」、小出さんや皆さんがなさる研究で、いろんなデータを出してきて取捨選択するのは「物語情報の制御」、出てきた論文は「テクスト」です。学会や雑誌で発表し、それを受け取る読者は、「物語世界の再構築」をしている・・となります。
小出流の方法論1で、自然や実物の無限の情報量を「読みきれるかどうかは、読む側の問題でしょう。」なんて言葉が出てました。まさに、自然科学研究者は、「自然や実物」の「読者」なんですね。そして、文学における読者が全ての人に開放されているのと同様、自然科学の「読者」もまた、全ての人に開放されて欲しいですね。もちろん、文学の読者が文字を理解できないといけないように、自然科学の場合、理論やデータを理解する力が必要になります。国語の授業も減るけれど、理科の授業も減ったらしいので、この先どうなるかは暗雲たちこめるばかりの気もしますが。まずは、研究者の位置が、文学では「読者」の一人に過ぎないように、自然科学の研究者も、「自然科学の一読者に過ぎない」くらいの、精神的なバリアフリー化(小出さん的言えば科学のユニバーサル化?)が必要かもしれないですね。(挑発?!皆さま目が三角ですぅ!)
また、小出流方法論3では「誰もおこなわないような手法や考え、テクニック、流儀、方法論を用いたい」とあり、哲学書に興味の矛先が向いておられるようですね。実際、方法論を得るのに、哲学書は役に立ちます。文学の場合、哲学書に加えて思想学書が役に立ちます。(もとよりこの2つはかぶることが多いですけれど。)そこで、ちょっと前回から今回にかけて私が書いていることと小出流方法論をもう一度ズームアウトしてみます。私は、文学をかじっているので、文学テクストにある「もの」が他分野でどのように捉えられているのか・・と言う風に自然と考えてしまっています。でも、一般化理論の上で繋がった自然科学否、地質学の側からも、同じように異分野へのアプローチはできないでしょうか。それこそ、理論的には可能な気がしますが。(文学では、それぞれのテクストは、すべて相関関係にある・・といったような考え方(間テクスト性)があります。これは、異分野間でも応用できると思います。つまり、文学や芸術と地質学・自然科学との影響関係を考察するということです。科学が文学に影響しても、文学が科学に影響することはないだろう・・・そんなふうに思うでしょうか。でも、可能性はゼロではないと私は思います。)
文学の専門用語がぱらぱらでてきましたが、以上の内容ご理解いただけますでしょうか。小出さんによる理論の一般化は、文学も自然科学も、あらゆる学問に使える方法論だったのですが、これを考えることよって、少し頭がすっきりしました。「(学問としての)文学は科学だ」って言ったら笑われてしまったことがありましたが、やっぱり手法的には文学も科学も、果ては全ての学問が、同じだと思うんです(・・・to Mr.Y&Mr.N)。今まで、「私はおかしいのかな」と思いながら、方法論が分野を越えて共通するらしい謎を抱えていました。私の頭の中では自然科学も文学もいつも同じようなアプローチをして見えるからです。やっぱり繋がってた!嬉しい収穫でした。
では、ヤットお開きです。寝れます。え〜、今回は三時間の中作でした。
スガイミサト
追伸:思う壺を越えてました。底なし沼です。
contentへ
Letter 147 逸脱という方法
日付: 2002/ 5/24 23:35
小出良幸さま
今日東京で夕立が降りました。傘を持っていなかった私は、研究室(ゼミをする部屋)で過去の雑誌・紀要を見たり、図書館へ行ったりしながらやむのを待っていました。厳格なカトリックの学校ですから、学校のつくりや全体の雰囲気はいたって洋風で、中庭には今たくさんのバラが咲き誇っています。バラの絢爛豪華な感じは好かないのですが、学校で咲いているバラは中世欧州の懐かしさが漂っていて、好きです。殊、今日ように夕立で葉や棘が柔らかくなり、緑も一層深みを増している様子は、足を止めてつい見入ってしまいます。
気が付いたら、3つのメールが同時進行状態ですね。「この世」レポートと構造主義系統2本。今回は「ポスト構造主義は小出流」に対する返信です。
構造主義によって、文学や言語学の研究は飛躍的に進歩したと思います。例えば、昔話や神話の研究は、その源流となる「話型」を見出し、言語学では音韻論という新しい研究分野が開拓されました。では、近代文学ではどんなふうに構造主義が応用できるのか、がちょっと難しいんです。というのは、読み継がれて生き残った古典は、その読み継いできた人たちによって既に洗練されていること、「心理描写」が少ないことという共通点があります。よって、洗練されず、心理描写を特徴とする近代文学とは性質が異なります。ですから、中には「構造主義をやたらと日本の近代文学に当てはめて使うのは問題だ」という意見の研究者もいます。実際、構造主義に振り回されている研究者もあるようです。また、小出さんの仰るとおり、文学の構造主義も「実存主義の否定」が前提にあるので、テクストの主題や個別の価値を無視することになります。加えて、「皆構造からは離れられないんだ」ということを悲観的に捉えるようになると、絶望の極みにはまるでしょう。
しかし、妄信的に構造主義を取り入れるのではなくて、批判的に取り入れればいいんだと思います。構造主義は、あくまで構造を明らかにすることですから、そこで終えてしまうと、個々の文学の「個性」が消えてしまいます。重要なのは、そこから先、個別のテクストに戻り、差異・個性を見出すことです。これは、「読み(作品を創り上げること)の可能性」を広げることです。ClubGEOでは「文学研究は皆が本を読むのと同じ事をしているだけ。誰でもできること。」といった趣旨のことを言いましたが、「誰でもできること」というのは、無限に読みが提示されるということになります。(もちろん、提示された個々の読みが、妥当であるか否かを検証するのが、「読む」から「研究する」へのステップになります。)
小出流構造主義では「従来の地質学的での定義や法則における同一性と差異を動的に構造化する」という試みがもたれているようですが、文学の場合は、今のところカルチュラルスタディーズの一環として文学を捉えるという方法が出てきています。私のやりたいと思っていることは、まさにコレです。人は環境によって創られるとは、よく言ったもので、人に影響されやすい私は、思考の赴く先までカルチュラルスタディーズでした。というのも、「日本文化学科」の端くれだったお蔭で、ただ単純に「文学は芸術であり、芸術は文化であり、文化は人であって・・・」などと考えるうち、ポスト構造主義の先に、自然とカルチュラルスタディ―ズがありました。そして、カルチュラルスタディーズの先に薄らぼんやり見えるのは、哲学(特に美学)と心理学です。つまり、「ココロ」の問題です。
小出さんは、「構造」あるいは「同一性」にも動性・可変性を求められないかとお考えですよね。「それでは構造にはならないかもしれない」とも仰いました。
確かにその考えでは、狭い意味での「構造」を明らかにすることにはなりません。でも、広い意味では、「構造」の範疇に入るかもしれません。というのは、考え方の問題ではないか、ということです。
構造主義による文学批評では、「話の構造を明らかにする」ことになりますが、いろんなパターンの話型(話の骨組み)を逸脱することが、文学の面白さになっていると考えられます。小出さんが求める動性・可変性とは違う方向性かもしれませんが、文学の例として話します。
「異常成長譚」という話型があります。「桃太郎」や「かぐや姫」のように、(小さく)生まれてあっという間に大人になってしまうという話です。しかし、生まれてから何年経っても大きくならないという「たにし長者」という話があります。大きく生まれて小さくなるのではないので、「異常成長譚」の正反対ではありませんが、従来の、「異常成長譚」からすると、明らかに逸脱しています。(異常な成長には違いないので、意味的には含まれてしまいそうですが。)「たにし長者」は、小さい「たにし」がばあさんから生まれ、いつまでたっても大きくならず、ある娘が神社にお参りに行くことで「たにし」が立派な青年に変化するという話です。小さくあり続けなければ、意味のない、面白くない話です。重要なのは、ここです。基本の話型を逸脱して、なお面白い。面白くなければ、失敗したことになりますから、話型の逸脱を検証する材料にはなりません。「たにし長者」は、文学における構造の可変性を示唆しているような気がします。(ただ、文学の範疇を狭く考える場合、昔話や神話は文学にはなりません。しかし、そういう線引きをする人に「文学とは何ですか」と言っても、明確な答えは返ってきません。私は線引きできないから、言語表現を広く文学としてもいいのではないかと思います。)
また、現代でも、話型が含まれている物語がたくさんあります。私が思うには、話型を逸脱することは、作品の個性になります。また、今でもあらゆる所に存在する話型を見てみると、話型通りでもよほどの個性が肉付けされていないと「ああまたか」になり、話型から逸脱しすぎてても「面白くない」となっているようです。話型は話型としてありますが、実際人間が昔も今も求めているものは「話型+α」の語りではないか・・・ということです。思いつづけて3年経ちましたが、コレを打破する考えに、まだ会っていません。そして、究極的には、話型は人間の「ココロ」と密接に繋がっていると思います。だからこそ、脈々と受け継がれる(人類共通の遺伝子みたいなものですね)のではないでしょうか。私は、こういうつながりが、すごいなぁ〜と思います。確かに個性は重要です。でも、その個性は、人類の歴史の上に存在が保証されているようなものではないでしょうか。言い換えれば、話型の入った物語を楽しく読めることは、人間であることの証明になるのかもしれませんね。
以上、飛躍だらけですが、何か参考になるでしょうか。キーワードは「逸脱」です。Metamorphicの対話記録に「境界と越境」とありますが、「逸脱」も「越境」も同じようなものです。私が最初のメールを送った時、「“越境”は、人の心を動かすことになると思っています」と書いていました。文学において、話型を逸脱することが「面白い」と人の心を動かしていると思います。小出さんが考慮中のポスト構造主義(可変構造主義?)も、従来の「構造」の枠を「逸脱」するものになるのではないでしょうか。そして、「逸脱」し、それが人の心を動かすものになったとしたら、スゴイことですね。面白そうです。楽しみです。気軽に頑張ってください。
では、今度は「この世」レポートの返信を書きますので、しばしお待ちください。
スガイミサト
追伸:
ちなみに「たにし長者」論は、オリジナルです。学部2年のときのレポート
の一部ですが、
contentへ
Letter 148 追伸の追伸
日付: 2002/ 5/24 23:46
追伸:
「逸脱という方法」のメールで、追伸が中途半端に切れていました。以下、追伸の全容です。
ちなみに「たにし長者」論は、オリジナルです。学部2年のときのレポートの一部にもなりましたが、先生は私の論を認めてくださったようです。また、先日同じような話を文学理論ゼミでしたら、「そうかもしれませんね」と先生は仰いました。僅かな人の反応ですが、結構マンザラデモナイようです。
スガイミサト
contentへ
Letter 149 世
日付: 2002/ 5/27 22:37
小出良幸さま
「この世」レポートの続編と、小出さんのはまった入れ子に関する考えです。
「この世」レポートで私は「この世」と「あの世」が可変であると言いました。そして、あの場ではうっかり言い忘れましたが、その「この世」と「あの世」で、1つの「世」という体系があるのではないか、とも考えています。宇宙は膨張しつづけていますが、宇宙の外側には、何があるのでしょうか。宇宙の大きさが空間的なこの世の最大値としましたが、この最大値は今この瞬間も広がりつつあるわけですよね。
また、何か(A)を理解(認識)したと思った時には、それと同じだけのわからないこと(非認識)が見えてこなければ、それは本当にAを理解したことにはならないのかもしれません。「無知の知」・・あの時代から、イヤ、生命がものを考えるようになってから、現代(私が基準じゃ問題ありかもしれませんが)まで、言葉を言い換えるばかりで、変わってません。
本題に戻ると、「この世」の果てである「宇宙の果て」が広がり続けるということは、それに比例して「あの世」が広がることになります。総じて、「世」が大きくなる・・・世間の幅が広がるということにもなりましょう。こんなふうに思うと、ブロードバンド化の進みつつある昨今よく聞く「世界が広がる」というフレーズも、意味深に感じられるような気がします。
そして、小出さんは<【『「認識も非認識」も認識している人』を認識する】存在>という深みにはまりかけたようですが、もう少し引いて見ると、いたるところに<【『「」』】存在>がいるのではないでしょうか。というのは、全ての人が<【『「」』】存在>であると言っても過言ではないと思うからです。少し復習しながら考えてみます。
『「認識も非認識」も認識している』
これは、入れ子の1番基本になっている形です。まず、「認識」がどの程度のものかを「認識」できるのは、自分以外の誰でもありません。他者には不可能です。(最大限想像することはできますが。)ですから、「認識」を認識することは、自分自身でしかできません。
そして、難しいのは、「非認識」を認識することです。つまり、先ほどいった無知の知です。なにしろ、わからないのですから難しいです。例えば、身近なボールペンが、どんな材料で、どんな工程を経て今ここにあるのか・・といったようにわかりやすい「非認識」なら、調べればすぐに答えは出るかもしれません。でも、そのボールペンを作っている元素は、どうやって宇宙に生まれたのかという問題に答えることはできるでしょうか。もっと広く、宇宙の外側には何があるのか、という問いに対して、私は完全に無知です。空間も時間もないのかな・・と想像してみても、想像がつきません。それこそ「無」の状態なのでしょうか。だったら、その無がどうして乱れ、宇宙ができたのか、謎は深まる一方です。しかし、「非認識」を認識するということは、こういうことも含むわけです。ただ、ボールペンの材料が何か・どういう工程を経ているかという問いに対しては、私以外の誰かが答えることができますね。
とすると、まず、「認識」を認識することは自分自身です。「非認識」を認識する場合、ことによっては私にとっての「非認識」が他者にとっては「認識」の範疇であることもありうるということになります。これは、小出さんの入れ子構造が出来上がってしまう理由ですね。「入れ子」は内に向かって絶えることはない無限性を秘めていますが、それは考えても止まらないのでストップです。ですから、ここからは、入れ子の1番外側はどうなっているのかを考えてみましょう。
(詳しくは知りませんが、心理学でいう「自分の知っている自分」と「他人の知っている自分」というのも、この関係と同じ気がします。)
問題を更に続けます。私にとっても他者にとっても「非認識」であることを認識する場合、それは本当に「無知の知」以上の何物でもなくなってしまう・・・ということです。それは例えば宇宙を超えたところに何があるか、私を作りボールペンを作っている元素がどうして宇宙にあるのかです。誰にも答えられない、「無知」がここにあります。そして、このように言葉で示せるものは、「非認識」の中でもまだまともかもしれません。言葉で言い表すことのできない「非認識」があるのだと思うからです。そして、言葉で言い表すことのできないものですから、言いようがありません。「深層心理」といわれる部分、そう、「自分も他人も知らない自分」というのと近い存在が、おそらく言葉にならない「非認識」です。
この言葉にならない「非認識」を認識する者はいるのか、いないのか。キリスト教徒は、小出さんが半疑形で言った「神様」と答えるかもしれません。佛教徒なら「仏陀」と答えるかもしれません。日本の神道なら・・・と言いたいところですが、神道だけはそれに値するような存在は不明のようです。全知全能の存在は古事記にも日本書紀にも「名」がないのです。当に、今問題の言葉にならない「非認識」と同じです。
では、各々が明確に答えられるか否かを問わず、これらの「非認識」を認識する者に共通することは、第一に「この世の者ではない」ということです。キリスト教的「神様」は、完全に「この世」の者ではありません。一方、「仏陀」は、「この世」の輪廻から解脱した者ですが、あくまで、人です。そして、解脱≠死ですから、「この世にありながらこの世の者ではない人」ですね。では、名無しの日本の「非認識」を認識する者は、どこにどのような形として存在するのでしょうか。
私は、「世」には存在しないとだけ言えると思います。まず、日本神話の世界観は、「高天原―葦原中つ国&常世の国―黄泉の国」という三階建て構造です。私たちが今生きている世界は葦原中つ国になります。常世の国は、葦原中つ国と水平に繋がっているとされる理想郷です。高天原は日本の神々がまします所、黄泉の国は、概ね死後の世界と同じに考えられていますが、混沌とした世界と言った方がいいかもしれません。で、普通なら、神が1番優れている存在だと思われますが、日本の神々の長に近い存在・天照大神は、これらのどこにも帰属しない存在に、助けを求めることがあります。・・・私的に言い換えると、「世」には存在しない存在、あるいは「世」以外の所に存在する存在です。「世」ではないところとは、「非認識」であり、実態的には(?)宇宙の外側から自分自身までの間に無数に存在する「非認識」の点、となります。前回は、「自分自身〜宇宙」とこの世・あの世の大きさを言いましたが、今回は「宇宙の外側〜自分自身」と起点が逆です。なんと言っても、私が「認識」を認識することができるのに対し、相手は完全に私もその他の人も認識できない「非認識」を認識する存在なわけですから、私たちとは対置された存在と考えるのが妥当です。ならば、「非認識」を認識する存在の領域は、私と全く正反対の起点から始まるのではないでしょうか。
またしても長々と、今度は「この世」も「あの世」も越えた「世」と「世でない領域」について広げてしまいました。それも、科学的な事柄と文化論的な事柄とがごちゃ混ぜです。そして、最後に一言付け加えるなら、この「世」と「世でない領域」は宇宙の果て〜自分自身の間で、またまた伸び縮みすると思います。
以上■
スガイミサト
contentへ
Letter 150どうでしたか、東京?
日付: 2002/ 5/30 21:15
小出良幸さま
こんにちは。久しぶりの東京はいかがでしたか?会場が渋谷区だったので、行けるかな・・と思ったのですが、参宮橋なんですね。空き時間には行けない距離だったので、行けませんでした。同じ渋谷区なのに電車で行くと微妙な遠さがあるんです。小出さんが発表なさっていた頃、私はゼミでフランス語と格闘していました。(耳で音声を聞いても、どの言葉を発音しているのかわからなくて参りました。)
Tantoさんのメールは、小出さんから返信が来た段階で読み、2度それに対する返事を書いたのですが、口外にするべきではないようなことばかりが文面に並んでしまうので、送りませんでした。私はよく、小出さんをはじめ科学を仕事としている皆さんに対して、批判的なことを言うことがありますね。この間もClubGEOでしてしまいました。半分はジョークのつもりなのですが、言った後で「しまった」「ジョークの域を越えているかも」と反省します。しかし、Tantoさんのメールに対しては、そのような迂闊さは厳禁です。また、自分が今までに経験し、考えてきたことにTantoさんの声を照らして、批判してしまいます。面と向かってなら絶対言わないような批判も、メールでは次々口をついて出てきてしまいます。でも、それは私の理性が許しません。だから、書いたメールを2度とも送りませんでした。
少し前、佐藤さんから38億年前の生痕(化学?)化石の母岩が火成岩だというニュースが入りましたね。思わず「えー??」と言ってしまいました。多分インターネットを使った調べごとレポートに、その石のことを書いたはずなので。定説が覆る時に専門家の皆さまが受けるショックは、この数倍なのでしょうが、私もショックでした。38億年前説を立証するには、他の石を探さないといけないようですね。春に湘南地学の講演会で、磯崎先生が付加体には古い岩石がくっついて残っているかもしれない、と仰っていましたが、もとよりそんな古い岩石が地上に残っていること自体が稀なのだから、あったら儲けくらいの感じなのかなとも思いました。
そして最後に、小出さんのコンピュータ病魔にやられていませんか?また、今日変なメールが送られてきました。勝手にインターネットに繋がるので、即刻完全削除しました。よって、うちのコンピュータは平気でした。
以上、少し前のこと2件と速報1件お伝えしました。
スガイミサト
contentへ