目次
Letter 131
Letter 132
Letter 133
Letter 134
Letter 135
Letter 136
Letter 137
Letter 138
Letter 139
Letter 140
Letter 131 Letter 131 構造主義?
日付: 2002/ 4/18 23:50
小出良幸さま
北の春は遅いというのは、聞いて知っているばかりで、今でもストーブが活躍しているとは思いませんでした。北なんですね。でも、冬が長い分、春や夏の喜びと秋の寂しさを存分に味わい、冬の寒さを耐え抜く精神力が身につくのではないでしょうか。私は、経験したことのない北国を勝手に憧れる人の一人ですが、北国・雪国では、忍耐力のある人間が育ちやすい土壌・民族性があるのではないかと思って、憧れています。
唐突ですが、小出さんのメールの冒頭にあった「ある人がいいました」という言葉から派生した思いを、以下に書きます。
「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがい(あり)ました」・・時間・場所・人のいずれも不特定である書き出しは、物語(神話・伝説・昔話)の常套句ですが、この書き出しによって物語の普遍性が生まれます。そして、語り継がれる普遍的な物語は、一般無意識(全ての人間の心理)を象徴的に表現しています。哲学や倫理・道徳など、その規範の制限は色々でも、人間の深層に根ざしたものであるという点・何らかの行動を起こす時に無視してはならない点で、同じのような気がします。ただ、あくまで普遍「的」ですから、時間・場所・構成員(人)によって少しずつ変化が生じるのは事実です。しかし、移ろいやすい世だからこそ、人はいつも「普遍」を求めてきたのでしょう。
文学だけでなく学問研究は、その対象の普遍的な価値を見出すことと、普遍性を有するがゆえに秘めている可能性を広げることを目的の1つとして掲げているのではないかと思います。先日「構造主義文学理論」について触れましたが、構造主義文学理論では、まず作品(テクスト)の普遍的な構造(ストーリー展開など)を暴いていきます。そして、普遍的な構造が明らかになったら、もう一度個々のテクストに戻り、各々の個性(普遍的な構造との差異など)を検証します。
興味の赴く方向に構造主義があると知ったのは、学部2年の文学史(古典)の授業でした。文学史といっても、いわゆる文学史のイロハを学ぶのではなくて、文学の源流をつくってきた型(話型といいます)について学びました。目からウロコ、そんな感じでした。小出さんのように考える時の道具として学び始めたのではなく、今まで自分が行なってきた思考が、授業で提示された理論と合致し、興味を持ちました。(文学理論ゼミでは、「考える時の応用可能な道具になるかもしれません」と先生は仰いました。まさに、「基礎体力作り」ですね。)
でも、「シニフィアン」「シニフィエ」などのソシュールの用語を見、「ソシュール用語辞典」なる事典と向き合った時、「こんなのムリだ」と思い、理論そのものには軽く触れただけで終わりにしてしまいました。(もともとカタカナ語(外来語・略語)は数字と同じくらい苦手な上、ハードな内容だったので。)そして、4年の初めに、ルートヴィッヒ・クラーゲス『リズムの本質』を手にしました。韻律論を手がけるために。しかし、この哲学書の読みにくさには、疲れました。以来、理論・哲学はさておいて、テクストの構造及びキーワードを、自分で発掘することに重きを置いて、レポート・論文を書いていました。
それでも、思考の方向性は容易く変わらずに、今年再び構造主義と出くわしました。もう、半ば運命だと思っています。「ん?」と考えることが多いのですが、欧米人が“It’s easy!”と言ってから問題に取り組むのを真似しながら、この運命をモノにしようとしているところです。(理系に限らず、文系の人間にとっても、哲学書も理論書も難解であり、読みにくいです。学問の髄だからでしょうか。ちなみに、文学や言語学の論文は大概、誰が読んでも理解できると思います。)
まだ、構造主義文学理論も学び始めたばかりですが、振り返って見ると、ClubGEO関連でいろんな露頭や石を見に行った時、私が考えていたことは、死生学的(?)構造主義地質学と名付けられるのかな・・と思います。(大層なネーミングですね。)動植物も露頭も岩石も果ては地球も、「生命」をもった存在であり、それらがどのように生まれ、成長し、老い、息絶えるのかを感じてきました。すると、その生命の道筋を、1つの構造をもった型と捉えることができます。そして、その型を起点にもう一度露頭や岩石を見直すと、各々の個性が、よりはっきりと見えてきます。学問といえるほど体系的なものではないですが、思考のあり方が、やはり構造主義的な感じがします。岩石や露頭及びテクトニクスなど、地質学の用語と現象について記号論的考察ができると、一歩前進なのでしょうが・・・「地球のささやき」と近日開講の「Terraの科学」で、ヨチヨチ学んでいきたいと思います。宜しくお願いします。
最後に、また話が飛びます。通学読書についてです。
今、私は戸塚→横浜→中目黒→広尾というようなコース(電車のみ50分程)で通っています。1番長いのは東横線の横浜・中目黒間で、藤沢から新百合ヶ丘までの道のりに比べて15分ほど短くなりました。徒歩で通う小出さんに、通勤読書は無理ですが、私の場合、通学時間が長いと寝てしまいます。今は、少し短くなったお蔭で、眠らず読書できるようになりました。混むことが多いのが難点ですが、適度な読書時間が取れるようになったので、ちょっと得した気分です。
18・19日と、東京国際ブックフェア2002が東京ビックサイトで開催されます。ウインドーショッピングに行ってこようと思います。
では・・・ スガイミサト
追伸:
「文学部唯野教授」は、授業のはじめに先生が紹介なさった本です。ストーリーは単純で変わり映えがしないけれど、入門にはなるかもしれないと言っておられました。(実は、現代作家の本はエッセー以外進んで読んだことがありません。ゼミで村上龍を読んだ記憶はありますが。文学、それも近代専攻なのに・・・)
講義を組み立てるのは、大変なんですね。私は授業(講義もゼミも)が大好きです。いろんなことを考えるためのヒントを、たくさんもらえるからです。去年教育実習で授業を組み立てた時は、やりたいことがたくさんあって、それを取捨するのが大変でした。学校教育のうちは教科書に沿って、主に進めますが、小出さんの授業はきっとテキストなしですよね。なおさら大変だろうと思います。(そう言いながら、そのオコボレを戴く気でいたりしますが・・・)
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Letter 132 Letter 132 大野山・GW、そして長い追伸
[Clubgeo 413] より転載
日付: 2002/ 4/21 17:42
現代詩の授業で、先生が紹介してくださった興味深いお話を1つ紹介します。
NHKでアインシュタインの相対性理論などを紹介するシリーズがあった際に、アインシュタインとタゴール(インドの詩人・ノーベル賞受賞者)の対話が取り上げられたそうです。テーマは『人間のいない宇宙はどんな意味を持つのか』。まずその一節を。
アインシュタイン
「真理は、人間とは無関係にあるのです。私が見ていなくとも、月は確かにあるのです。」
タゴール
「それはそうですが、月はあなたの意識になくても、ほかの人間の意識の中にはあるのです。
しかし、科学は月を無数の原子とみなしたではありませんか。月を無数の原子と見るのか、光と闇の織りなす神秘と見るのか。もし人間の意識が、月を月だと感じなくなれば、月は月ではなくなるのです。」
そして、先生はこの対話の後、柳沢桂子さん(生物学者or生命学者)の言葉(詩の一節?)を紹介なさいました。
柳沢桂子
「私が羊歯(シダ)だったころ
降っていた雨かもしれない今日の雨は」
皆さんは、この3人の言葉(心)から、どんなことを思い、感じますか。いつもなら、私が思い感じたことを長々と書いてしまうところですが、それはやめておきます。
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Letter 133 Letter 133 砂を問う
[Clubgeo 443] より転載
日付: 2002/ 5/14 00:56
皆さま
砂について質問があります。
先日、近代文学ゼミで三島由紀夫の『金閣寺』を読んだ時に浮かんだ質問です。
『金閣寺』には、三島特有の隅々まで完璧に描く(情景に読者の勝手なイメージを含ませない)文学が物語の大半を占めているように思いますが、その『金閣寺』に「花崗岩の砂」が出てきます。特に注意して読むべき点ではないでしょうが、気になりました。場所は由良川の河口、舞鶴の湾です。
では、本題です。「花崗岩の砂である」とわかるためには、その川の上流に花崗岩があることを知っている、あるいは砂が花崗岩を造っている鉱物の結晶からなっていることが必要だと思いました。しかし、「花崗岩の砂」と一瞬聞いた時に思ったイメージは、透明と白と黒(ピンク色も入っているかも)の斑な小粒石です。透明と白と黒の別々の小粒ではなく、三位一体になっている小粒を思いました。
そこで、質問です。砂の粒度が細かい場合、多くは、鉱物の結晶or石基の破片(つまり鉱物の結晶同士か結晶と石基がくっついていない)の状態になると思います。もし、そうだとすると、「花崗岩の砂だ」と、砂という鉱物の集合体を一目見て認定することは、難しいような気がします。可能でしょうか。可能であれば、一件落着ですが、もし難しい場合、やはり三位一体状態の小粒が、「花崗岩の砂」を識別する最小単位でしょうか。
ちなみに、気になった「花崗岩の砂」が書かれてあるところは、主人公・溝口が「金閣を焼かねばならぬ」という想念が浮かぶところです。溝口は舞鶴湾の護岸工事を横目に見ながら、花崗岩の砂の上を波打ち際へ向かって歩いて行きます。「全てのものに動揺と不動と、たえず動いている暗い力と、鉱物のように凝結した感じ」を覚え、そのうちに、かの想念に包まれます。
先日砂をケースにしまいながら、「いろんな砂があるもんだ」と思ったのも束の間、「花崗岩の砂」の色・質感がどんなものなのか、確固としたイメージが湧かず質問に至りました。発表者によると、三島は石が好きだったらしいとのことでした。三島の描写を考えると、「花崗岩の砂」のイメージをこの機会に是非知りたいと思いました。質問のヒント・回答、お待ちしています。
スガイミサト
追伸:プロレタリアの作家にも石好きがいるとの情報もありました。文学者の石好きって、結構居るのかも知れないですね。かはづは大海に触れて驚きました。
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Letter 134 Letter 134 砂のイメージ
[Clubgeo 444] より転載
2002/ 5/14 09:00
皆様
こんにちは。忙しさにかまけて、ついついご無沙汰していました。
この1ヵ月半の間に、Clubの皆さんも、いろいろな行事や作業をこなさているようで、頼もしい限りです。
まずは、面白ければ、いいと思います。そして、さらに石や自然が好きになってくれればいいのです。ついで、その面白さをさらに膨(ふく)らますために、知識があります。頭でっかちになる必要はないですが、おもしかすると、知識は、非常に役に立つかもしれません。石や自然を相手にするときは、知識が役に立つことが身を持って体験できることもあります。そんな積み重ねから、「身を持って体験できない世界」へと知識は導いてくれます。それこそ、地岸の醍醐味です。それを知るのは、まだまだ先でもいいです。
さて、菅井さんからの砂の質問です。三島由紀夫ですか。懐かしいですね。「金閣寺」も読んだ記憶があります。でも、若い時に読んだせいか、たいくつだった印象しか残っていません。まだ、「青の時代」(でしたっけ?)のほうが、面白かったおぼえがあります。
「花崗岩の砂」は、菅井さんのいうように「透明と白と黒の斑(まだら)な小粒石」です。時には「透明と白と黒の別々の小粒ではなく、三位一体になっている小粒」もあります。花崗岩の砂は、白黒のごま塩状の模様で、なおかつ粒が粗いことが特徴です。言葉で聞くより、本当の答えは、実際に見るのが一番だと思います。丹沢に行けば簡単に見れます。
実物を見る重要性は、何度も野外観察会にいっているから、わかるはずです。実物を見て、イメージするのは、個人の頭の中です。それは、口や耳で聞いても、だめです。実物をみること。それに勝る説明はありません。これを、百聞は一見にしかず、といいます。
ただし、花崗岩の砂にもいろいろあるはずです。それは、花崗岩にもいろいろなものがありますし、砂のできかただっていろいろあるわけです。ですから、「花崗岩の砂」といってもいろいろあるはずです。しかし、「花崗岩の砂」というべき、なんらかの共通点はあるはずです。知識は、共通点は教えてくれます。
でも、知識は、見たことのないものについての個性は、なかなか教えてくれません。その個性を知ったり、見分けたりするのには、自分で実物に接し、いろいろあるというイメージをつくり上げるしかないのです。それぞれの個性を理解するのに、知識は手助けはしてくれますが、イメージは、実物から自分でつくるしかないのです。
ClubGeoに望むのは、実物をより良く知ることです。それは、自分のイメージでいいのです。そしてよりよいイメージを身に付けるために、知識を身に付けて下さい。
菅井さん。質問はいい線なのですが、三島のみた「花崗岩の砂」のイメージを知りたければ、「見てみたい」と思うべきです。
由良川にはもしかすると「花崗岩の砂」はないかもしれません。地質図では、西側に花崗岩の山があります。しかし、流域は堆積岩や玄武岩などの火山岩です。もしかすると、「花崗岩の砂」ではなく、いろいろ混じった、「花崗岩の砂」らしくない砂かもしれません。でも、それを三島は「花崗岩の砂」といいました。つまり、実物から三島の「花崗岩の砂」のイメージを知ることができるのです。それは、もしかすると、菅井さんの「花崗岩の砂」のイメージとは違っているかもしれません。
ではまた。
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Letter 135 Letter 135 近況
日付: 2002/ 5/14 01:30
小出良幸さま
こんにちは。
Terraのメールマガジンも本格的に始まって、小出さんのところにはいろんなメールが届いているのではないでしょうか。私は怠け心に火がつく前に、ゼミの課題をやってしまおうと試み、その難しさに喘いでいる毎日です。卒論を母校の論叢用に、手直しも始めました。もちろん(?)Terraのレポートも同時進行です。随分前にHPで、あるいは2本目のマガジンで10日が締め切りとあったので、絶句していたのですが、20日の締め切りならきっと出せると思います。
先ほどClubGEO宛てに砂に関する質問状を書きました。三島由紀夫は、その精緻な描写力が、私にとって難です。三島にもう少し詩心があったら、などと考えてしまいます。でも、精緻な描写力であったからこそ、私は「花崗岩の砂」に目が止まったのだろうとも思います。
前に、「文学の中に石とか地質が出てくるものはないか」と小出さんや他の方々に聞かれましたが、そのような目で文学を見たことがなかったことと、データを出せるほどの蓄積及び情報網を持っていなかったことから、「宮沢賢治くらいしかわからない」と世間周知の事を言いました。しかし、院では今までと違って、マニアックな近代文学を読んでいる人が少なくなく、聞いてみればいろんな答えが返ってきます。三島が右翼だとかナルシストだとかいうことは誰でも知っていることですが、石にも興味があったとは、本当に驚きました。岩石(地質?)学者の恋物語も書いているそうです。知りませんでした。プロレタリア作品は蟹工船を知っているくらいでしたが、もっとマイナーな作家に石話を書いている人があることだって知りませんでした。知っていることより知らないことの方が遥かに多い…当たり前のことですが、刺激的なことでした。
院のゼミでは、時代もジャンルも様々な院生が集っています。4500余もある万葉集の歌が全て頭に入っている人、源義経や三島に浸かれている人…いろんなキャラクターの人がいます。学部時代にはありえなかった、異文化交流が毎度ゼミを面白くしています。
小出さんも、私とは違った異文化交流に目を輝かせておいでだったと思いますが、その後、進展はありましたか?やることだらけで埋もれてしまいそうなことはしょっちゅうですが、入学以前に思い描いていたよりもハードなことが、楽しいです。
それでは、夜も遅いので。
スガイミサト
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Letter 136 Letter 136 ポスト構造主義は小出流
2002/ 5/14 15:41
菅井様
久しぶりです。約一月ほど、沈黙を続けていました。菅井さんの「構造主義?」にも、まだ返事を書いていませんでした。申し訳ないです。
本当に、ご無沙汰していました。忙しさにかまけて、ついついご無沙汰していました。正直にいうと忙しいです。あまり、clubgeoのようなメールリングリストで弱音を吐けないので、ここだけの話しです。
週に4コマの講義、2コマずつ同じ講義ですから、毎週、2つの講義を準備します。その準備に少なくとも2〜3日、講義日半日×2回=1日、会議日半日、そしてTerraの科学のために原稿を書き起こしに、2日かかっています。正味、5日以上使っています。
土日や祝日は家族サービスです。その他に、レポートを希望者だけにですが、3つ課しています。それが、一講義で100名前後提出してきます。学部の発表会(先日やりました)や学会の準備(要旨、発表準備)、論文も書かなければいけません。
夕方は、5時過ぎ、遅くとも6時には大学をでます。ですから、時間を作るには、早朝に取るしかないのですが、6時過ぎでないと大学は開きません。はっきりいって、オバーフローしています。
まあ、ぐちをいっても、忙しさが解消される訳ではないのです。ですから、もくもくと、日々、働くしかないのです。
三島の「岩石(地質?)学者の恋物語」面白そうですね。でも、今は、読む気力はありません。やたら軽いものか、やたらハードなものしか読めないです。なそれでも、かなか一冊が、読み切れません。
さて、菅井さんの「構造主義?」に関連してです。覚えていますか。菅井さん地質学は、「死生学的(?)構造主義地質学」ですか。なかなか面白いですね。
私もちょっと、自分の目指す地質学の立場を、構造主義的に解析してみましょう。
構造主義の復習からです。当たり前のことですが、「」は文献からそのままです。
構造主義でいう「構造」あるいはシステム(体系)という概念は、「個々の部分としての諸要素の単なる総和ではなく、それらが密接にかかわりあっている全体であり、一つの要素の変化が直ちに他の諸要素および全体に変化をひきおこすような統合的な諸関係の総体」を意味するそうです。
私のいう地質学、あるいは自然現象は構造、体系をもっているかにみえます。それは、総体として機能しているということは、自明、常識の範疇です。
構造主義において、重要な点は、構造とは、「事物の差異によって出現する関係の体系」のことで、それは「人間の歴史的・社会的実践において無意識のうちに事実上形成される」ものだそうです。
わかったような、わからないような部分です。
地質現象における構造は、自然がつくったものですが、それを定義し、解釈し、分類するのは、確かに、人間です。つまり、地質学における現象の構造は、自然が形成したものですが、体系化、構造化をするという行為では、人間が創ったとものといえるわけです。構造主義的に地質現象を解明することとは、つまり、人間の今まで構築した地質学の体系自体を吟味することに繋がるのではないいでしょうか。私はこれを解体したいのです。そして構造自体も、すべてが不変ではなく、可変の部分があるべきだと思います。
もともと、構造主義とは、1960年代に、実存主義を批判することから生まれたものといいます。実存主義とは、人間の「主体性」や「意識」や「主観的自我」を強調するものです。構造主義では、実存主義は人間のあり方の一面しかみていない、として批判します。実存主義は、西欧近代をささえてきた伝統的な「理性中心主義」とか「人間中心主義」といった形而上学的前提を排除しようとして、人間を「構造」にくみこんだのです。
ところが、構造主義では、人間が「構造」をつくるのではなく、「構造」が人間をつくるとまで、いいきるのです。
そうなると今度は、「構造」が完結した静態的な実体とみなされ、構造主義もまた、実体論的思想という西欧の伝統的な形而上学をまぬがれてはいないのです。
この構造主義の弱点は、上で述べたことにつながります。
地質現象の総体は、自然がつくります。その地質学総体の構造は、人間が構築したものです。ここまで、はいいでしょう。
しかし、構造が人間をつくるとはいっても、地質現象は、自然がつくるものです。人間が地質現象の全貌をみきっていれば、これも可能です。でも、人間は、まだ、自然や地質現象を見極めていないのです。ということは、人間の見方の変化、進化、発展に伴って、構造自体も、動的であるべきです。
私の目指すものは、地質学の従来の構造を吟味し、解体し、新たな可変の構造を持ち込みたいと考えています。可変の構造とは、もはや構造ではないのかもしれません。
構造主義では、実体論的思想、つまり、古代ギリシャから近代にいたるまでの西欧思想を一貫して支配してきた「同一性」を原理とする形而上学的思想が弱点となっているといいます。その実体論的思想を徹底的に解体し、「差異」の概念にもとづく、新たな考えとして、1960年代後半から、70年代後半にかけて、ポスト構造主義が生まれてくるわけです。
つまり、構造が支配するなかで、差異をどう形成するかが問題となるわけです。
私が目指す地質学は、二つの観点から取り組んでいます。
地質学という学問を、他の学問と、どう差異化をするかという点です。これは構造主義でも、あるいはポスト構造主義でも可能です。しかし、私にとってこれは、重要なことですが、最重要課題ではないのです。
それは、もう一つの観点のアプローチです。
個々の論点である地質現象の原理究明という点では、同一性と差異の両方に着目します。例えば、地質学における時間とは、地質学における上下とは、地質学おける境界とは、などなど、の各論点で、体系をあたらに構築していくことを考えたとき、ポスト構造主義的立場を取ることになります。つまり、まず構造ありきではなく、まず差異と同一性ありきです。
従来の地質学的での定義や法則を、その根源まで吟味して、従来のものと同一性と差異を抽出します。そして、小出流(動的に)に構造化してみる、というやり方です。
ポスト構造主義にもいろいろなものがあるようですが、「社会的諸現象の全体的構造よりも、それらの原初的な構成とそれに続くそのダイナミクスに関心を向け」、「伝統的形而上学への抵抗を今ここでの生にとどまりながらおこなおうとする実践的・現実的思想」という点では共鳴できます。ポスト構造主義といっても、反ヘーゲル主義的傾向を持つことはいいのですが、デリダの「脱構造」や「ロゴス中心主義批判」でもないし、ドゥルーズ=ガタリの「逃走=闘争」や「ノマディスム」もそぐわないし、リオタールの「物語の終焉」でもないのです。つまり、「ポスト構造主義それ自体を、哲学・思想の一つの流派と規定することは意味がない」といわれるように、私の地質学へのポスト構造主義は流アプローチは、結局は、小出流でいくのです。
長くなりましたが、いまちょっと考えているところに、菅井さんが触れたものですから・・・ついつい論じてしまいました。
最後になりましたが、菅井さんのレポートに期待しています。Terraの科学は、メールは来るのですが、レポートはそんなに多くないです。一応了承があってものは、ホームページで公開するつもりです。それと、大学のレポートも4、5編は大学のホームページで公開しています。
ではまた。
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Letter 137 Letter 137 砂・すな・スナ・suna・・・
[Clubgeo 446] より転載
日付: 2002/ 5/15 22:57
小出良幸さま&前田信さま&皆さま
早速の回答・助言、ありがとうございます。
大方の砂のイメージは、相違ないようで、ちょっと安心しました。今度博物館へ伺うときには、前田くん採集の花崗岩の砂、他各地の花崗岩の砂などを是非見てみたいです。いろんな花崗岩との比較もしてみたいです。百聞は一見に如かず、よろしくお願いします。
ここからは多分長いです。わずか2000余字。
私の言論の過去を思い出して、読むか否かを判断してください。
舞鶴に花崗岩の砂があるのか…と小説を読んで思い、今回質問したわけですが、「三島のみた「花崗岩の砂」のイメージを知りたければ、「見てみたい」と思うべきです。」という小出さんの言葉を聞いて、「やっぱり」と思いました。メールを出す前に、舞鶴までどのくらいかかるか(鈍行で)をシミュレーションしていた所だったからです。
よく、文学散歩が湘南方面では開かれていますが、私は文学と向き合う方法として、文学散歩および作家研究を重視するのは、好みではありません。(どこまで探るか、というのが、文学研究の難しいところです。)
しかし、宮沢賢治のように、(特異なまでに)地質に造詣が深かったり、三島由紀夫のように、非常に緻密な描写の中に「砂」ではなく「花崗岩の」としたりしている文学に当ったとき、鉱物や地質、天文といった、文学とシンクロできないと思われるような分野にも手を染めねば、作品世界を想像しきれないと思います。日本語学や文化学、社会科学など、いわゆる文系方面の学問や、精神分析学のような、もとより文理にまたがる学問には進んで触れていくわりに、自然科学を始めとする理数系の学問に進んで着手している文学者は、そうたくさんはいないと思います。否、少ないでしょう。そんなところにこだわるよりも、もっと別のことに目を向ける方が楽ですし、収穫も多いと思われますから。でも、作品に出てくる様々な要素、ことカルチャー(美術・音楽・服飾等)に目を向けた研究がなされるようになった今日の研究の中で、全くの理数系分野にも目を向ける必要はなかろうか・・と私は思います。(さて、誰がやるんでしょう…??)
一昨年度、冬に長瀞巡検に行きましたが、私が偶然同年度の夏に長瀞に行っていたのは、ご存知かと思います。緑色片岩や紅廉石片岩などの実物を見てみたいという思いと、宮沢賢治も巡検したという場所に行ってみることで、文学研究においてどの程度、他分野の知識や経験が必要かということを考えてみようという思いがあったからです。期間を置かず2度も長瀞へ行く機会があったのに、結局答えは出ませんでした。そして今に至るわけですが、富士山巡検へ行った時、その糸口に立ったような気がしました。
5合目の所から歩いて滝のあるところまで行きましたよね。その時の、あのスコリアの音には、しびれました。ガラスを踏んでいるような、でもガラスとは違う、平凡なオノマトペ(擬音語)では「ぎゅうぎゅう」としか表せないのが悔しいくらいの、あの音。伊豆大島の裏砂漠でも、似たような音が、足の裏から聞こえてきましたが、富士山の時よりも渋い、深みのある音でしたね。どういう加減で音が違うのかな、気温や湿度の関係かな、マグマの違いかな…いろいろ不思議に思いました。実際の所、音の違いはどういう意味を持っているのでしょうか。宜しかったら、教えてください。(HPには書かなかったかもしれません…。)
2箇所のスコリア、鴨川(千葉)や大磯などの海岸、富士山周辺の湖岸、あるいは博物館の砂利…いろんな砂・砂利の上を歩いてきましたが、@その砂・砂利自体とA視覚以外の身体的感覚及びそれら身体的感覚が呼び覚ます精神的感覚とその関係性を、ただ感じるのではなく分析すること、Bその精神的感覚が文学のなかでどう作用しているのかを分析することの概ね3点を考えることが、他分野である自然科学を文学研究の中で応用(援用?)する1つの方法かもしれないと、思います。@は地学の問題、Bは文学(文学方法)の問題、それらを繋ぐAは、全ての人が参加可能な人間の感覚の問題。
勝手に方法論を考えていますが、これは至難の業です。特にAの分析結果は、個人個人異なってしまうものであり、共通性を求めることが難しいです。また、各自が感覚を分析しえたとしても、それを言葉で表現するということが、難しいです。
詩人は簡単にこれをやってのけます。詩人は心象風景(精神世界)をそのまま言葉にできる、いわば言葉の魔術師です。若い頃の萩原朔太郎は、精神世界に溶け込んでくるオノマトペや言葉の連鎖を創造し、巧みに操りましたが、私には生み出せませんし、操れません。朔太郎を読むのでさえ苦しいのですから。(それに誰でも生み出せるくらいなら朔太郎の存在価値が消えてしまいますね。)
じゃ、どうすればいいの??――ということになりますが、はてはて、全くの袋小路です。とりあえずはできるところからやっていきましょう。世の中わからないことだらけですから、できそうなところから、チビチビとやっているうちに、天からヒントが降ってくるかもしれませんし。リンゴが落ちたのを見て万有引力が発見されたのではなくて、万有引力を導き出すだけの素地(アタマ)があったから、リンゴが落ちて来たんですものね。家康くらいのしぶとさで、リンゴが落ちるまで頑張れるかな??
不安は未知数、不安の数だけ希望も未来も待っている…そんな気持ちで、まずは花崗岩の砂、見ましょう。いや、連歌のレポートが明日まででした。急がなくては!
では、長ーいお付き合い、ありがとうございました。
スガイミサト
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Letter 138 Letter 138 砂・sand(ツナ・サンドじゃないよ)
2002/ 5/22 12:49
菅井様、皆様
「砂・すな・スナ・suna・・・」に対するメールです。ただ、タイトルに、「sand」の一語が欲しかったですね。菅井さんは、ClubGeoのメンバーだけでなく、SnadClubのメンバーでもあるわけですから。
音に対する質問は、別の機会にしましょう。それより、砂と文学を用いて、学問に対する方法論が出てきました。となると、もちろん、私は反応します。菅井さんの思う壺でしょうかね。
さて、砂に対する反応を、菅井さんは、
1 その砂・砂利自体
2 視覚以外の身体的感覚及びそれら身体的感覚が呼び覚ます精神的感覚とその関係性を、ただ感じるのではなく分析すること
3 その精神的感覚が文学のなかでどう作用しているのかを分析すること
という、順序を提示され、それに対して、
1は地学の問題
2は、全ての人が参加可能な人間の感覚の問題
3は文学(文学方法)の問題
という整理をされました。これを菅井さんは「これは至難の業」とされました。
この点についてです。もしかするとこれは、学問全般の方法論へと転換できと思います。
実は、今、私は、新しい研究の方向性をどう作り出そうか、いろいろ考えているさいちゅうです。「Terraの科学」をはじめたのも、もう少し前からはじめた「Terra
Incognita」というメールマガジンも、そんな手探り一環です。
私が現在、考えている、おぼろげな方向性が、菅井さんのいったものと、どこか似ているけれど、実はかなり違うものとなりつつあります。それを自分の頭の整理をかねながら、まとめます。
さて、菅井さんの方法論を、研究のため方法論として一般化すると、つぎの3つのステップに言い換えられると思います。
1 「もの」自体
2 観察者として、その「もの」からの情報の抽出
3 ある視点での体系化
です。
ここまで抽象化すると、方法論としては、ごく当たり前のやりかたになってしまいます。
芸術や文学を評論をするとき、「もの」を作品にかえればいいし、科学なら、自然や実物、現象に変えればいいのです。これは、ごく当たり前のステップというか、誰でもやっていることです。
ですから、菅井さんがいったやり方は、一般論を菅井流に表現しただけなわけです。
では、小出流にいうと、どうなるか。
1 自然、実物(情報母体)と、私との対峙
2 観察者として、自然、実物からの言語化、定量化(情報の抽出)
3 分析者として、情報を、ある視点(小出流)で体系化
となります。でも、これでも別に取り立てて、変わったことを言っているわけではありません。以下で、少し詳しく考えていきましょう。
1 自然、実物(情報母体)との私との対峙
まず、私は、自然物の自然状態での観察(つまり野外観察)や、詳細な観察や実験するための実物を重要視します。自然や実物は、情報母体として、無限の情報量や可能性を秘めているはずです。読みきれるかどうかは、読む側の問題でしょう。
それは、野外の自然や実物から得られるの1次情報という意味合いだけでなく、体感すること、これが一番大事ではないかと思います。この体感にも、もしかすると、無限の情報量が埋もれているかもしれません。自然の中でしか感じることのできないなにもかが、あるはずです。それは、もしかすると2では処理できないものかもしれませんが、それを記憶しておくことは、重要はストックとなるはずです。
この段階で、一番大きく作用するのが、「私」です。観察者や分析者などという客観的な用語で表される人ではなく、自分自身です。ここでは、小出です。
自然と私との対峙あるいは対面から、五感を通じてプリミティブな感覚が得られはずです。これこそ、自然、実物から得られる最大の収穫だと考えられます。これは、自然や実物を相手にするときには、決して忘れていけないステップだともいます。無限の情報源を切り捨てるのはあまりにももったいないはなしです。
2 観察者として、自然、実物からの言語化、定量化(情報の抽出)
次のステップとして、単に感じるから、観察者として観察すること、これが重要です。ここから、頭を働かせます。1で体感したことを柱として、必要な情報を、定量化あるいは言語化する必要があります。でないと、情報になりません。つまりは、情報の抽出です。
情報の抽出とは、「何か」を残し、「何か」を捨てることです。その「何か」という基準をどのように設定するかが、また問題となります。でも、これは、目指す目的がはっきりしていると、案外簡単です。目的を達成するために必要十分な基準をもうけて、情報抽出をすればいいのです。
とはいっても、実は、ここに、個性や経験、知識、今までの観察者がもてるものすべてが発揮される訳です。ここで情報の価値が決まり、分析結果に影響を与え、ひいては結論を左右する訳です。
どんなに観察力があっても、情報抽出し定量化・言語化できなかればいけません。逆に、どんなに定量化(分析能力)や言語化(文才)に長けていても、経験、知識、個性などが加味された充分な観察力がなければなりません。両者が正常に、そして高度に連携できると、素晴らしい情報抽出ができるはずです。
でも、ここでおこなうことは、あくまで1の私の体感という無限の情報源から、定量化、言語化できるものだけに取捨選択する過程です。その取捨選択に観察者の技量が加わるということです。でも、これは、ある程度誰でもできることでもあります。
3 分析者として、情報を、ある視点(小出流)で体系化
じつは、自然科学の場合、2の段階で、結果はほとんどでたも同然です。目的があり、目的の情報抽出が終われば、あとは、決まりきった手順で分析するのみです。
でも、私は、それが面白くないと思っています。そこに、誰もおこなわないような手法や考え、テクニック、流儀、方法論を用いたいと考えています。
そこで、重要なの方法論として、哲学的思考方法があると考えています。
経験主義的手法(帰納法)、合理主義的手法(演繹法)、弁証法から唯物論的手法、論理経験主義的手法、反証主義的手法、構造主義的手法、脱構造主義的手法など、あまたの論理があります。このような知的資産を利用しない手はないと思います。
先日、素粒子物理の理論を専門とされている千葉学部長と、こんな話しました(最近3時のお茶を学部長室で飲むようにしている)。彼は唯物論者で、理論を完成するには、証拠もしくは、反証が必要であるという立場です。
私は、それに2つの場合で、反論しました。それはこうです。
証拠がない場合、あるいは証拠が現時点で期待できない場合(地球創生期、冥王代の出来事など)、その理論は証拠がないので完成を見ないことになります。となると、証拠がなさそうな世界や分野では、理論は構築できないのか、あるいは理論化する必要性すらないということになるのではないか。というのが、第1の反論です。
逆に、大量の証拠がある場合(生物学の進化説などの場合)、どれが正しいかを、どのようにして決めるのか。ある説に対して、証拠、反証が一杯ある、となると、どれがいいかは決められない。というのが、第2の反論でした。
そして、私としては、理論のみでも、論理の中身、論理体系同士の勝負をすれば、いいのではないか。真実はどちらかかは、わからないけれど、少なくとも、どちらの説が、よりもっともらしいかを、なんらかの評価基準で検討しようということです。そうすれば、証拠の有無や過多というあまり客観的でない評価より、ずっとましな評価ができるのではないか、というのが私の主張です。
このような考え方自体が、多分、小出流です。
ですから、私は、これから、自然に接っすることを怠らず、哲学書を読んでいこうと考えています。野外から学ぶ地質哲学あるいは哲学的地質学のような分野を開拓できないかなと考えています。
長くなりました。ではまた。
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Letter 139 Letter 139 急かずゆっくり
日付: 2002/ 5/15 23:33
小出良幸さま
ClubGEO宛てのメールに、殊のほか時間を割いてしまったので、今日は要のことを少しだけ。昨日いただいたメールのお返事は、明日か週末に!(多分レポートと一緒位になると思います。)
で、要のことです。テーマは、「急かずゆっくり」です。
新天地での生活、なかなか大変そうですね。どんな学校なのか、イメージは真っ白ですが、小出さんが今までよりもずっと忙しくなる予感はしていました。ある意味予感は外れていないようですが、想像を越えているようですね。
私も新天地で、楽しく慌しくやっています。私はO型で魚座で動物占いはコアラです。何を言っているのかわからないかもしれませんが、信じるも八卦の占いでこれらに共通することは、「のんびりマイペース」です。人を翻弄するほどのマイペースではないと信じています。(翻弄しているのは母くらい。)なので、のんびりゆっくり、オーバーフローする波の上に乗っているイカダのような感じで、行きましょう。
「構造主義?」から1ヶ月経っていましたか。言われて始めて気付くくらいです。私にとっては、小出さんからメールが届くことより、小出さんが生きているかの方が気になります。それにあたっては、春休みほどの頻度ではないですが、時々HPの「思いつくまま」を見て、小出さんが生きていることは確認(?)することができるので、あまり問題ありません。(HPの新たな使い方ですかね。)
以上、短くするはずだった要がちょっと長めですが、終わります。
スガイミサト
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Letter 140 Letter 140 泣き言レポート
日付: 2002/ 5/21 00:45
小出良幸さま
ツツジも咲き終わり、学校ではバラがあちこちで満開です。昨日は曇りで、時折にわか雨が降りました。小出さんは、お仕事軌道に乗ってきましたか?
20日の24時が、今過ぎました。TerraLectureのレポート、結構長いのを書きました。結果的には小出さんが導き出したのと似ていますが、「ヨシ!」と思えるようなものができました。そして、そのできたメールが、、、、消えました。何の加減だか、全く見当つきません。草稿含めて足掛け10日かかって、「さあ出すぞ」というときに、消えました。もう、どうしようもなくて、頭やら手やら足やら、そこら中にぶつけて、うめいていました。ファイルを探しても見つかりませんでした。そうするうちに、24時は過ぎていました。
高校や学部の頃と違って、物思いに耽ったりして夜を明かすことはなくなったのですが、このところあまり寝ていません。ここ4日は座ったまま寝てしまっていました。授業の下準備(レジュメや予習読書等)のためです。時間の使い方が悪いのだと思い、夕食後はずっと下準備をせっせとやっているのですが、殊予習読書が重く、昨日は徹夜でした。一週間のうちに『金閣寺』『千羽鶴』などを一冊ずつ読んで発表者の意見を批評するのですが、そう簡単に読みこなすことはできません。他の下準備で時間的におされるのはもちろんですが、さらっと飛ばし読みしようとしてもできるような内容でもなく、飛ばし読みでは意見が言えないのが目に見えてますから、できません。
目も頭も活字の波間で泳ぎ、常に虚ろです。支えは唯1つ、授業で率直な意見を言い、議論に参加できる楽しみを味わうこと。どんなにヘロヘロでも、ゼミの時は「やってきてよかった」と思いながら、楽しくて仕方ありません。
このような徒然の文章ならすらっと書く気力が残っているのですが、消えてしまったものをもう一度書き直す気力は、挑戦しましたが出てきません。
今日は寝て、明日明後日、できたら送るかもしれません。でも、期日違反を思って送らないかもしれません。何も送らずにしまうのもどうかと思ったのと、気が違いそうなのとで、報告だけです。
スガイミサト