Letter Box No. 10


Letters 「境界と越境」

目次

Letter 091 
Letter 092 
Letter 093 
Letter 094 
Letter 095 
Letter 096 
Letter 097 
Letter 098 
Letter 099 
Letter 100 


Letter 091 beyond KOIDE?
2001年12月1日 15:37
小出良幸さま
 ただいま午後3時、宮内庁の記者会見で4時43分、内親王さまがお生まれになったという報告が流れています。当然(?)母子ともに健康だそうです。皇后さまは涙ぐまれたそうです。
 嬉しいニュースを耳にしながら、目は、小出さんのメールを読んでいます。喜びと辛いのと入り混じっておかしな気分です。昨日に引き続き、今日も涙しています。
 インターネットは距離を越えるなんていいますね。本当に、そうだと思っていましたが、小出さんが札幌に行くというお話を伺って、「嘘だ」と今思っています。一時間くらい電車に乗ればお会いできたのに、今度はそうはいきません。そういう意味で、インターネット神話を盲信することは出来ません。小出さんが仰る通り、小出さんを知っている人は皆、ショックを受けると思います。現に受けています。前から転進願望がおありだということを知っていても、です。
 昨日今日とジャンボブックの展示換えですよね。もし私が行っていたら、何の役にも立たなかったと思います。部屋で一人でメールを見ているから、少しは冷静ですが、小出さんにお会いしていたら目を合わせられなかったと思います。
 でも、小出さんが望むのは、そういう気持ちを乗り越えることだろうと思います。そして、その先にあるものを模索していこうということだと思います。だから、次回博物館へ伺うときは、何食わぬ顔をして行けるようになろうと思います。
 そこらじゅうでご出産特別番組です。まずは、それを見て、落ち着いてから卒論をやります。短く終わらせるつもりだったのに、45分かかってしまいました。「Break Through」の返信を待ってから、またメールします。
  スガイミサト
○追記○
死んでしまうわけでもないのに、同じ日本の中で移るだけなのに、何でしょうね、この気持ちは。卒業式でも泣かなかったのに。この頃小出さんの声が聞こえてこないので、なんかあったかなと思ったのが当たってしまったからでしょうか。
 そういえば、ボランティアの皆さんには転身なさることを仰ったんですか?今日。それに、テクノリサーチ、何かあったのでしょうか。
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Letter 092 詩を一つ献上
2001年12月2日 13:29
菅井様
 まず始めに、散文詩を一つ。

 君、嘆くなかれ。
 誰にでも、転進あり。
 誰にでも、新天地を求むる気持ちあり。
 新天地に向かう旅人に、涙は禁物。
 明朗なる笑顔にて、
 彼の希望を浴て、
 共に新天地へ思いを馳せよ。

 このメールは、菅井さんの「Break Through」と「beyond KOIDE?」に対するメールです。

 まず、忙しさについてです。菅井さんのお母さんの「忙しいって、心を亡くすって書くでしょ。」という言葉、身にしみました。一つしかない心を、すり減らさないように大切にします。

 天皇家については、ノーコメント。

 「ボランティアの皆さんには転身なさることを仰ったんですか?今日。」
 まだ言っていません。

 「テクノリサーチ、何かあったのでしょうか」
 別に特別なことはないのですが、いくつかの問題が発生してきました。
 まず、IT不況によって、プロバイダーも、経営が苦しくなってきている点です。テクノリサーチも例外ではないようです。そこで、同業者同士、経営の効率化を図りたいと考えているようです。以下の内容は、先日テクノリサーチに別件で行ったとき、私の転進についてと、今後の話をした時、杉之間氏から出た話しです。
 まず、近隣のプロバイダーが、似たようなサービス(無料掲示板、5個まで無料のメールアドレスの与える、無料の地域情報の発信などなど)をやっているが、その効果のほどは少ない。また、大手プロバイダーが、無料のメールやメーリングリスト、ホームページなどをおこなっており、今後新規のユーザの増加は見込めにくい。
 このような問題を解決するためには、経営の効率化を図り、似たようなサービスは統合して、無用な出費を抑える。また、現在のユーザを逃がさず、特徴のあるプロバイダーとなって、有料化のメリットを示し、望むらくは新規ユーザの開拓をする。などでしょう。
 小田原近郊では、インターネットに関する技術をもっているのは、テクノリサーチともう1社くらいだそうで、共通のユーザサービスは、技術力のあるテクノリサーチが行うようです。現在、コミニ亭としてユーザに公開しているサーバを、その目的に利用するようです。少し前に、コミニ亭のサーバが、ウイルスのアタックを受けて停止したを契機に、サーバを再編しました。そのために、それまでテクノリサーチの無料サービスとしておこなってきた、コミニ亭というメールマガジンが休刊になりました。私がメールマガジン「地球のささやき」を始めたきっかけになったメールマガジンです。それまで「地球のささやき」のホームページをコミニ亭のサーバに置いていたのですが、再編の邪魔になりそうなので、私のホームページに移動しました。
 もう一つの方法として、特徴あるプロバイダーの目玉として、EPACSが作ったデジタル博物館が一つの売りになると、杉之間氏は考えているようです。
 次の問題が、EPACSデジタル博物館と、いなくなる私と、テクノリサーチの関係です。EPACSデジタル博物館と私との関係を経営戦略にどう位置付けるが、考えどころです。EPACSデジタル博物館は5年目に考えるといってましたので、その時期が来たということです。EPACSデジタル博物館は残すということになりました。それは、このデータベースが、教育関係の書籍に紹介されたので、すぐにやめてしまうのは、社会的道義に反することなので、残すことにしました。それに、博物館のPACGeoやClubGeoは、今後も活動していきますので、テクノリサーチのバックアップは必要です。また、データベース「身近な自然史」は、今後も増殖していくタイプですから、増えれば増えるほど効果の出てくるデータベースです。
 私との関係は、無関係にするというのが一番手っ取り早いのですが、私も杉之間氏も、今までアンバランスではありますが、Give&Takeの関係をしてきて、気心も知れているので、その関係を解消するのはもったないと(少なくとも私は)考えています。
 これは、私が彼らの申し出にどう対処するかの問題になるのかもしれません。私立大学の教員ですから、公務員時代は難しかった産学の共同がかなり自由のできます。個人レベルの付き合いで終わらせるのなら問題はないです。それとも、産学レベルまで持ち上げるのか、その点はまだ、私自身の新天地での様子がわからないので、未定の部分があります。

 以上が、テクノリサーチについてです。
 最後に、菅井さんの心の問題です。
 人間には、上の下手な詩で書いたように、新天地を目指して生きている人もいます。あるいは、菅井さんや、小嶋さん、前田君のように、「卒業」という区切りによって、強制的に新天地に放り出される人もいます。私は、点々と移動する人生を送ってきましたので、新天地へ飛び出すことが楽しくてしょうがありません。わくわくします。もちろん今回もです。それが望もうと望まざるに係らず、どうせ、新天地に向かうのなら、楽しみましょう。楽しみのない人生なんぞ、糞食らえです。そして、新天地は、私にとって新たな可能性や興味、能力を発見させてくれました。今回の新天地もそうなることを願っています。
 人間には個性や感情があります。だから私と同じように感じろ、振舞えというべきではありません。だから新天地に対して、例えば菅井さんが不安を感じることもあるでしょう。それを、楽しめとは言う権利はありません。でも、少なくとも私は、自分の新天地を楽しもうとしています。それには、涙は似合いません。希望には笑顔が似合います。

 さて、最後に、私の転職理由の文章を
http://www.ykoide.com/newworld/indexnew.html
に載せました。気が向いたら読んで下さい。
 ではまた。
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Letter 093 転進観&返句
2001年12月2日 22:27
小出良幸さま
 気が向いたので、「転職にあたって」を読んでしまいました。
 かなり首が疲れましたが、一気読みしました。
 HPについている日付を見たら、まさにリアルタイムでした。
 なぜか、笑っています。オカシイ。
 小出さんの仰ることは、正当だと思います。
 居心地のいい環境は、確かにいいけれど、新しいものを求めにくくなります。鬼気迫っているときは非常にクリエイティブでも、平和な所では意志をはっきり持っていないとクリエーターにはなりにくいんですよね。逆にいえば、転進はクリエーターになる方法の一つでしょう。
 また、研究者観も同感です。研究者である以上、究めようという努力を怠ってはいけないし、研究者という職業が対外的評価を受けることによって、活性化されることは、非常に有意義だと思います。
 ただ、小出さんのお話を読んで、これは、教師にあてはめてはいけないなぁ、と思いました。理由は簡単、「教育とその結果は、非常に息の長いものである。」からです。11月18日のお言葉をパクリました。確かに、教師にも、怠慢な人がいて、子供の成長の妨げになるような場合があります。そのような教師は、対外的評価によって裁かれて然りです。でも、教育を受けているそのときにはわからなくても、ずっと時間が経ってから、効果が現われることが少なくないからです。(私は、教育の本質は、人間形成だと思っているので、長期的な視点を最重要事項と考えます。教師になりたい気持ちはずっと変わりませんが、この重要事項が、私の最大の不安材料です。)
 対外的評価を教師にする場合、子供や親が中心になるでしょう。子供や親を信用しないわけではないですが、ある一時の感情で、「イイ先生」「ダメな先生」を決めつけることが多いと思います。宿題を出さない先生はイイとか・・。そのお蔭で、本当にイイ先生が消えてしまったら、と思うと、対外的評価が即リストラになることは、教師に限り望めません。再教育なら大歓迎ですが。
 話を戻します。「新天地は、私にとって新たな可能性や興味、能力を発見させてくれました。今回の新天地もそうなることを願っています。」とのことですが、私も、新しい環境が小出さんにempowermentしてくれると思います。ただ環境が変わっただけでも、何らかの内面的な変化があるものです。まして、小出さんは自己変革の意志があるわけですから、ただ環境が変わる人よりも得られるものは大きいのでは?
 人の振り見て何とやらで、小出さんの言うことやることを見て・聞いて、私には転進願望を実現する実行力が足りないと思います。今までも、思ってはいました。でも、目の前でハッと転進してしまう人を見たのは初めてです。だから、グサッときました。小出さんの転進が、私の転進に転化したとき、小出さんが狙ったショック療法効果になるのでしょうね。
 このように書くということは、もちろん、私の転進方法が模索段階であることを示してもいます。小出さんが札幌にいかれるまでには、何らかの変化が訪れるでしょうが、今まで小出さんに言っていたことと違うことをするかもしれません。卒論を一通りやってみて、芸術を学術論文にすることの矛盾にぶつかりました。散文ならまだしも、韻文は想像の域が広いものです。論じることによって、表現の可能性を探るどころか、作品イメージ自体が壊れてしまう危険性があると思いました。難は逃れましたが、同じように山頭火を料理しようなど、今は考えられません。(朔太郎については、今度Club Geoで)
 最後になりましたが、杉之間さんはじめテクノリサーチの皆さんも、大変そうですね。好転することを祈っています。端っこでテクノリサーチの恩恵を受けているのに何にも出来ないのは寂しいですが、気持ちだけでも。
  以上!
    スガイミサト
○追記○
センスのない自由律句を返詩(かえしうた)の代わりに送ります。
<見ている星は違っても見ている空は同じ冬空>
--Do you know what I mean?
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Letter 094 再返歌
2001年12月4日 16:34
菅井様
<見ている星は違っても見ている空は同じ冬空>
--Do you know what I mean?

 言葉どおりの意味と浅い意味は理解できるのですが、その奥の心が読めません。まだまだ修行が足りませんね。

 ところで、前回のメールは、菅井さんにしては、誤字が2件ありました。誤字の内容より、今まで菅井さんには、このようなミスがない文章を書かれていたのに、今回はミスあったので、少し気になります。私は誤字、脱字、誤変換だらけですので、しょうがないのですが、菅井さんの場合は珍しいので気になります。卒論の疲れなら、いい(あまりよくないかもしれません)のですが、私の転職によるショックなら、「少しだけ」責任を感じます。大丈夫ですか。
 さて、「杉之間さんはじめテクノリサーチの皆さんも、大変そうですね」そう、大変ですが、これも、企業として起こるべきことです。その代わり、儲かる時は際限なく大きくなれます。それが、公官庁との違いです。テクノリサーチは、今日明日つぶれるといいうような、そうそう緊急を要することでもありません。でも、企業経営者として、よりよき経営や将来設計を、常に心がけていくべきことなのかもしれません。その一環と考えればいいのではないでしょうか。
 教育については、ここでは述べません。
 次に、「今まで小出さんに言っていたことと違うことをするかもしれません」もちろん、そうあるべきです。大いに結構。なぜなら、予測のつかない人生、それぞ、人生の醍醐味。自分で興味ある分野を勉強し、探求した後、その展望を変更すること、それを進歩と呼はずしてなんというべきか。ぜひ、早く、新しい夢を形作って、聞かせて下さい。夢を語る人間は素晴らしい。夢を語れるときが、一番輝いている。
 「芸術を学術論文にすることの矛盾にぶつかりました。散文ならまだしも、韻文は想像の域が広いものです。論じることによって、表現の可能性を探るどころか、作品イメージ自体が壊れてしまう危険性があると思いました。」では、菅井さんは、韻文を創る側になるか、散文を評論するする側になるということですか。よくわかりませんが、気になります。
 人の人生に自分の人生をかぶせるのはよくないのですが、人生の先達の言葉(いや中年の繰言かもしれませんが)として聞いて置いて下さい。
 前のメール(ClubGeo)でも書いて、繰り返しになりますが、もう一度言います。否定的に考えないことです。韻文がダメだから散文ではなく、韻文より散文の方が、自分のスタイルにあっている、などと前向きに考えることです。それに、私自身そうでしたが、今これがやりたい夢があるのだが、条件が許さず、できないこともあります。それを、逆境と考えず、こんな経験は二度とできないという前向きの姿勢で考えてみてはどうでしょうか。逆境も幸運も考えようです。そこが人間の面白いところです。ちょっと考え方を変えるだけで、そこが夢膨らむ地となるのです。それに、人間を長くやっていくにつれ、さまざまな経験をしている方が、将来きっと役に立ちます。それに、その方が絶対面白い人生になるはずです。これだけは、私が実践しているので、確信をもっていえます。

再返歌(こういう言い方でいいのですか)です。

 同じ冬空の中にいる。
 君、そこに矛盾を見出す。
 我、そこに希望を見出す。
 同じ冬空に、見出すものを異にする。
 しかし、そこにあるものは、冬空のみ。
 いずれ訪れる春空には、
 二人とも転進あるのみ。
 君も我も、歩む道は異にすれど、
 望むらくは、共に、冬空の向こうに希望を見、
 春空に向けての転進。

 これは、他意はありません。言葉どおりの歌です。
 ではまた。
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Letter 095 一息
2001年12月6日 13:27
小出良幸さま
 こんにちは。
 今週は卒論の微調整をしています。来週の提出に向けてアアデモナイコウデモナイと細かい修辞にこだわっています。担当教官と私は感覚が違うらしく、私が、「ここはこう感じる」と言っても、「そんなバカな」と言われてしまいます。挙句、「そんなこと誰が言ってるの?」で一蹴されてしまいます。蹴り返す余力は無いので、「そうかなぁ」と言って、文句のついた箇所は削除したりしていました。でも、終盤に入って、隅っこに押しやられていた「負けてなるものか」と言う意志に火がつき始めました。文章も、顔から火が出そうなところばかりです。
 一昨日昨日とメールの返信を書いていたのですが、なかなか難しくて書き終わっていません。明日明後日位には返信を出します。
 そこで、今回はBreak Timeです。
 お題は誤字について。
 前回の誤字が小出さんのせいであるかはわかりません。小出さんよりも打つスピードの遅いですから、小出さんよりも誤字が少ない可能性はありますね。でも、誤字脱字、ショッチュウあると思いますよ。近頃はコンピュータと向かい合ってばかりで、手書きで字を書くことが減り、書こうとすると字が思い出せないことが多々あります。漢検2級が泣いています。・・・まぁ、せっかくですから、前回の誤字は小出さんのせいにしておきましょう(^。^)
 後2つ授業が終ったら、帰れます。帰ったら、返信の続きを書きます。
 歳末お仕事の続き、気負わずに適度にガンバッテクダサイ。
   菅井美里
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Letter 096 大磯論文&未来など
2001年12月9日 22:39
小出良幸さま
 卒論提出目前になって、「目の前にぶら下がらないと何もしない」と厭味を言われながら、コンピュータと修辞の相談をしています。バラバラと話がまとまらないので、箇条書きにしてみました。
 大磯の論文を途中まで読ませていただきました。
 P.4左段下から4行目に「分析方法は、小出ほか(2000)によって。」とありますが、詳細を記す時には中止法で文章を終わりにするのでしょうか。疑問に思いました。
 先行研究文献がたくさんあったり、細かい数字がたくさん並んでいて、「これを読むのは大変だろう・・」と思いました。学校に行って、印刷してちゃんと読みます。
 杉之間さんの話ですが、経済が人にとってどんな影響を与えるのか、少し感じられたような気もします。社会は人の意志で変えることが出来ても、経済は極めて無常です。企業は景気に左右されながら、生き残るように努力しないといけないんですね。私はまだ外側の人間ですから、簡単に一喜一憂してしまうけれど、企業はどんな時も頑張らないといけない。常にサバイバル・・巧く転換できるといいですね。
 それから、未来について。
 私は、中学から今まで、多くの友人に、計画的・現実的でギャンブルをしない人生を歩んでいるように思われてきたと思います。実際、文系に転向したのも、そういう理由からでしたから、アナガチ、その見方はあっています。でも、本当の性質は、無計画・夢想的なものですから、いざ現実として、大学を出るとなった今、自分の夢が、現実の延長線上にないような気がしてなりません。何日か篭って考えてみたいと思います。
 大島巡検について。
 小嶋さん、行けないってメールがあった([Clubgeo 313])と思いますが、行けることになったのですか?葉月ちゃんが行きたがっているんですね。(小出さんもでは?)まぁ、22・23に最終決断しましょう。
 最後に、年賀状。
 大学1年生以来、自分からはほとんど年賀状を出さないでいたのですが、今年からまた出してみようという気になりました。つきまして、博物館の地学の皆さまにも年賀状を・・と思ったのですが、喪中の方いらっしゃいますかね?あと、年賀状嫌いの方とか。
 昔は年賀状とか暑中見舞いを出すのが大好きでした。出していた相手は、多い順に学校の先生・友人・親戚です。1年の時、お世話になった先生方に今の自分を見ていただけるほど、自分が成長していないことに気が付いて、出すのをやめてしまいました。でも、来年は大学最後の年です。小出さんも来年は札幌に行ってしまうし、記念的な意味で、もう一度出してみたいと思います。
 以上、いろんな話でした。
   菅井美里
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Letter 097 卒論を越えて
2001年12月15日 14:41
菅井様
 連絡遅れました。申しわけありません。また、私は、風邪をひいてしまいました。小出家では最後です。子供は、つぎからつぎへの、よくもまあ、あれこれいろいろな風邪をひくなあといいうほど、風邪をひきます。親も、そのお相伴に預かっています。
 さて、卒論がぶじに終わって、お疲れ様でした。人間、自分の限界に近い状態を味わう方がいいと思います。それも何度も。そのような経験をするたびに、自分の限界が広がります。例えば、私の卒論の時も、菅井さんと同じように、大変でした。その後も、学会発表では、毎年、同じ苦しみを味わっています。その結果、最近では、少々の時間は使いますが、最初の頃ほど緊張したり、講演原稿を用意したりしなくなりました。内容をしっかり頭に入れておけば、だいたい発表は、原稿なしで、OKです。最近では、書いた原稿より、話し言葉で講演した方が、聞く人には分かりやすいなどと、嘯いています。また、論文書くことも同じです。大変なのですが、書きたいことがあれば、研究途上でも、ある一定時間、ある一定の努力をすれば、完成します。そして、研究途上のものは、完成度が上がれば、また次の論文への進化していきます。これも、経験なせる技です。
 年賀状の件は、お任せします。このようなことは、人が要求するものでもないし、出す人がどう思うかの問題ではないでしょうか。私自身の好みは、もちろんありますけれど、あまり関係ないのではないでしょうか。私も年賀状を出しています。だたし、現職場の人には一切出しません。
 最後に、杉之間さんとは、再度会って、話をしました。今後のことについてです。一応、方針めいたものは、おぼろげながら、でました。
・EPACSのデータベースはサーバに置いておく。
・「地球のささやき」はサーバに置いておく。
・データベースを作りたい人には、余力の許す範囲でサポートする。
・そのアナウンスはする。
・現在のところ、身近には人材がいないので、自主開発はしないし、できない。
・新しいサーバの内容は、私がいなくなる前に、完成する。
・メールマガジン「コミニ亭」は、装いを変えて発行する可能性がある。
・プロバイダー業は、赤字を出さない程度に維持する。
・基本的な収入源は、現状の大手企業のソフト開発とする。
などなどです。
 一応、プロバイダー業として、顧客のサービス向上になれば行うが、余力の範囲でやるといいうことです。社会貢献を今までの経験から、あまり役に立たず、会社として重要と考えられることのみとする。でも、プロバイダーの個性を出すには、EPACSのデータベースは使うということです。これは、私も望むところです。
 以上、これもいろいろな話でした。
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Letter 098 夢の実現に向けて
2001年12月18日 11:49
菅井様
 今後、私の新天地での活動のひとつとして、ClubGeoをターゲットにしながら、自分自身の夢に一歩近づくために、ひとつ考えていることがあります。
 私は自分の専門とする地質学と地球科学を、大学の授業で、4コマほど担当することになっています(その詳細は未定です)。その講義の内容を、あるいは全く独自に進行するかもしれませんが、高校生(前田君)以上はもちろん、小学生(青木さん)もしくは中学生(小嶋さん)にも理解できる程度の内容として、一般に配信しようかと考えています。できれば、授業の同じペースで、メールとして流していこうかと思います。その媒体として、ClubGeoのメーリングリスト、もしくは別のメーリングリストを利用して、発行していこうかと思います。そして、それをさらに推敲したものを、書籍として発行できればと考えています。1年で、予定している内容をすべてカバーできるかどうかわかりません。とりあえず、1年目は基礎篇として始めていこうかと考えています。全体としては何年かかけて、1冊の本としての内容になればと考えています。
 このような目論見が、どれくらい続くかわかりません。あるいは夢の途中で途切れるかもしれません。でも、そうのような日々の努力が、私の目指す普及書への一番の近道ではないかと考えています。このような発想に至ったのは、菅井さんの質問に答えているうちに、手抜きせずに、でも分かりやすく、岩石学で私が知っていることを心おきなく伝えたいと考えたのです。
 そこで、もしそうなれば、ClubGeo、特に菅井さんにお願いしたいことがあります。それは、毎回の講義メールに対して、意見や質問、あるいは分かった、分からなかったを表明して欲しいのです。つまり、このメールマガジンを、一方通行のものでなく、わかったこと、わからなかったことを、生徒の側から発言して、盛り上げて欲しいのです。
 ClubGeoのメーリングリストではなく、別のメールリングリストを使うかもしれません。もしかするとメールマガジンでおこなうかもしれません。ですから、その質問も公開することがありえます。ただし、菅井さんという名称ではなく、ある学生の質問というかたちでだすつもりですが。どうでしょう、このような企画に賛同いただけるでしょうか。
 そこで、問題になるのが、菅井さんの4月以降の身の振り方です。何か思うところがあるとのことなので、それによって、今のようなことが頼めるかどうかということです。本当は前田君や小嶋さんがその任にあたってくれればいのですが、今までの行動をみているとまだ信頼性がありません。ですから、菅井さんに白羽の矢が・・・・
 急ぎませんが、意見をください。
 ではまた。
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Letter 099 第二次日本回帰
[Clubgeo 332]より転載
Tue, 25 Dec 2001 23:18:45 +0900
平田大二さま&小出良幸さま
 一ヶ月ほど前に質問をしました。その質問に対するお二人の感想を読んでの、私の感想と質問した理由です。いつものことですが、随分蛇足が多いので、Club Geoでは送りません。歳末ですので、息抜きに読んでください。なお、朔太郎に関する発言は、私説に基づくものです。
 私が何で皆さんに質問したかと言うと、私が持っていない・一瞬では気付けない「荒寥とした風景イメージ」を誰か持っていないか、気付かせてくれないかと思ったからです。結果から言えば、自然の風景から荒涼なイメージが喚起されることはないようです。こちらの気持ちに風景を近づけることはあっても。
 平田さんは、「高層ビルが立ち並ぶ大都会」を「人間の活動が一番渇いていて、荒涼としている」と仰いました。無機質なビル街は、高度経済成長を終え、お金ではない何かを求めようとする都会在住日本人にとっては、きらびやかなネオンも、摩天楼も、もはや憧れの対象ではなく、「荒寥とした」イメージを感じさせます。
 朔太郎も、その境地に辿り着き、『氷島』の詩編を作ったと思われます。朔太郎は有名な『月に吠える』『青猫』で、近代的都市に憧れ、その中で酔っていました。しかし、いろいろな状況が、近代的都市の輝きを奪っていきます。離婚も一つの原因になったと思われます。そして、酔いから醒めた朔太郎が見ざる終えなかったものは、自分自身でした。でも、彼はすぐに自分を見つめたのではありません。故郷上州に心の拠り所を求めます。古い町並み、暖かい人びと、古き良き時代の日本を求めようとしました。しかし、既に都市化の波に飲まれていた前橋は、朔太郎が求めた古き良き時代の日本の面影を失いつつありました。朔太郎は、都市からも故郷からも切り離された孤独を味わうことになります。『氷島』には、その孤独が「精神の飢え」として描かれ、自分以外の全てのものが、色褪せてしまっています。
 小出さんからは、回答は「なし」と答えられましたが、詩に対する感想を戴きました。「自分自身の過去や未来まで、負のイメージで塗りつくしています。」そして、負のイメージで砂礫を語ることが、許せないと詩そのものを一蹴されました。
 確かに、暗い詩です。そして、暗い詩集です。だからでしょうか、『氷島』を高く評価する評者は少なく、朔太郎の表現の涸渇だと言う人もあります。でも、私は『氷島』に可能性を見ました。
 精神的孤独の直視が、彼の詩風を一転させましたが、彼は小出さん顔負けプラス思考の持ち主です。『氷島』が最低な評価をされても、「輸入文化からの脱却と固有文化の発信」を自分の経験を元に主張しつづけます。括弧書きした所は、いつかの小出さんの主張です。そう、小出さんは心外に感じるでしょうが、私には朔太郎と小出さんの主張したいことが同じに思えてなりません。
 朔太郎の場合は、「口語・自由律」による詩作が現時点で限界にあるとし、「文語・定型律」を見直しました・・・つまり舶来の表現形ではなく、現段階では日本的な表現形のほうが日本人の心を語るのに合っていると考えたみたいです。朔太郎のように、西洋への心酔から醒め、日本的なるものを見直そうとした日中戦争前後の文壇の流れを、「日本回帰」と言うそうです。ただ、朔太郎が主張したのは西洋化否定でも、国粋主義でもありません。<anti>ではなく<beyond>の思想を、彼は持っていました。後戻りできない西洋化と、西洋化によって純日本的な表現形ではもはや語れなくなってしまった日本人の心に、彼は気付いたのだと思います。だから、既にある表現方法ではなく、新しい表現を求めようとしたのではないかと思います。朔太郎は、とてもクリエイティブな人間です。
 私は、バブル崩壊以後の日本が、かつて興った「日本回帰」と似たような歩みをしていると感じます。雅楽や狂言、俳句などに、近年スポットライトがあたっていることも、その延長線上にあると思います。また、平田さんのように都会のビル街に人間関係の希薄さを感じたりするのも、同じように思います。擬似的ですが、私は勝手に「第二次日本回帰」の時代だと思っています。大切なのは、時代の波に関わらず自分の起源と現実を見続けることでしょうが。
  以上、感想文でした。
    菅井美里
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Letter 100 Discover Japan
2001年12月27日8時11分
菅井様・平田様
 これは、小出・平田あてのメール「日本回帰」に対する返事です。
 「日本回帰」いい言葉ですね。昔、日本史か文学史かで習ったような気がします。「日本回帰」。時代背景があって、さまざまな匂いや埃がついている言葉でしょうが、言葉自体にインパクトがありますね。それと同じような言葉として、だいぶ前に、JR(当時は国鉄だったかもしれません)のテレビコマーシャルで「Discover Japan」というキャッチコピーを使っていたことがあります。これもいい言葉です。ですから、それを真似て、私が数年前におこなった特別展では、「地球再発見」というタイトルとつけました。一見すると似ても似つかないのですが、英文タイトルがDiscover New Earthでした。
 「<anti>ではなく<beyond>の思想」というのもいいですね。でも、これは、相反する考えではなく、プロセスとしては、連続するものだと思います。<beyond>は何に対してでしょうか。それは、「現状」です。ではなぜ<beyond>するのでしょうか。それは、「現状」に不満や危機感、なにか足りないものを感じることでしょう。つまり、そこに<anti>「現状」がまず出現し、そして、<beyond>となるはずです。そして、<beyond>した結果が、今までにない「新生」というべき、よりよいものとなります。このような論法は、ご存知のように、これは、ヘーゲルの弁証法そのままです。「現状」がテーゼ(日本語では定立)、<anti>がまさのにアンチテーゼ(反定立)、<beyond>がアウフヘーベン(止揚)です。やがて、アウフヘーベンが世に受入れられれば、テーゼとなります。
 そこで、朔太郎です。
 まず、朔太郎は明確に「日本回帰」を意識して作品を作ったのでしょうか。
 あるいは、他人が、朔太郎にそのようなレッテルをはったのでしょうか。それは、ある評価の一つではないでしょうか。
 そして、朔太郎は、新しい時代のテーゼとなったのでしょうか。つまり、「日本回帰」は成功したのでしょうか。つまり第一次「日本回帰」は成功したのでしょうか。
 文学や芸術に、このような結果を求めてはいけないのでしょうか。
 以上、私の疑問です。
 芸術や文学は、まずは味わう。そして、その感想を述べ、評価するということをします。その人個人の評価であっても、いったん外に向かってその評価を公開すると、その評論も別の作品と考えるべきかも知れません。評論に対しての評論があるわけです。
 ということで、評論家を評論します。
 私は、かつては小林秀雄の評論が好きでした。論理の心地よい飛躍、それが、私の当時(大学時代)の精神状況にあっていました。ただし、最近は読んでないので、今読んでもそう思うかはわかりません。
 似たような論理的飛躍する人に、布施英利がいます。「死体を捜せ」(ISBN4-04-347801-1 C0195)という本を、途中まで読んだのですが、やめました。それは、彼の文章についていけなかったからです。科学的なエッセイのつもりで読んでいたのですが、文学的、芸術的な書き方がされていて、私の肌にあわなかったのです。それに、なんといっても彼の文章に、論理的飛躍があり、最初の飛躍が理解できないの、飛躍が何度も続き、不快になっていきました。
 布施氏は、私と同じ町に住んでいて、月1回の有料のメールマガジンを発行していて、私もそれを購読しています。そのメールマガジンでも同じような飛躍が、しばしばありました。今回、はじめて彼の著作を読んだのですが、やはり、ついていけませんでした。
 同じ論理の飛躍でも、小林秀雄の論理的飛躍の場合は、私には心地よく、布施氏の場合は不快でした。これは、多分、肌が合うか、合わないかの違いでしょう。つまり、私の個人的な感情です。しかし、世間は布施氏を評価しています。その証拠に、彼は多数の著作を発表して、多くの読者がいるわけです。
 というような例のように、他人の作品を評価は自由である。その評価をした時点で、その評価自体も作品となり、評価される運命にあるというこでで、菅井さんの「朔太郎および小出の朔太郎評価に対す評価」に対する、私の評価です。
 ちょっと婉曲が過ぎましたかね。いいたかったこと理解できますか。ではまた。

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